「いらっしゃい!」
ガラス戸を引き開けた瞬間に、威勢の良い声が響く。のれんをくぐり、店の中に視線を巡らせた天音と目が合うと、その人はさらに大きな声を上げた。
「おお、こないだのべっぴんさん。今日は一人か?」
「はい。カウンターいいですか?」
「目の前にいるのがむさ苦しいオヤジで良ければ、喜んで、だ」
仕事を終えてまっすぐに向かったのは、少し前に道江と来た店。中原がバイトしている居酒屋だ。馴染みの店はほかにあったものの、一人で行くことに不安を覚えた。
しかしここは、ほかとは違い不安材料が少ない気がする。
初めて会った時から思っていたが、豪快に笑うここの店主は心の影を感じない。おそらく見たまま、感じたままの性質だろう。
メンタルが不安定な現状で、コントロールが少し乱れても、ダメージが最小限で済みそうだった。
「生中とあじフライ定食をください」
「あいよ!」
相変わらず繁盛している店は、テーブルは満席。カウンターもほぼいっぱいだ。住宅地の真ん中にあるので、遅くまでやっている飲食店は、勤め人にはありがたいだろう。
アルバイトと思われる二人の女の子が、忙しそうにテーブルを渡り歩いている。
「今日、誠は休みだ」
「え? あ、はい。少し前に会いました。お友達とご飯に行くって」
「誠に会いに来たんじゃないのか」
店の中に視線を向けていたので、勘違いさせてしまったようだ。しかし天音の返事に店主は、なぜだか考え込むように腕を組む。小さく唸るその姿を見て、頭に疑問が浮かんだ。
どうして中原に会いに来たと思ったのだろう。
「生ビール、お待たせしました」
ふいに目の前に中ジョッキとお通しが置かれ、天音はつられるように横を向く。そこにいるのは中原と同じ歳くらいの女の子。
目が合うと可愛らしくにこりと笑った。
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
束ねた長い黒髪を揺らしながら、身を翻した彼女は客の声に応え、足早に歩き去っていく。だが特段気にすることもなく、天音はビールジョッキに手を伸ばした。
――誠くんの好きな人なのかな
「え?」
指先が触れた瞬間、かすかな声がした。とっさにジョッキから手を離すと、わずかばかり持ち上げられていたそれが、ゴトッとカウンターの上で音を立てる。
いまのは彼女の声か。思わず振り返り、天音は小さな背中を見つめた。
なぜそんなことを思ったのか、不思議でならない。あの日、店にいたのは中原と店主だけだった。誤解はすぐに解かれたので、尾ひれがついて噂が広がるとも思えない。
脳と口が直結していそうな店主も、間違った情報を言いふらして回るタイプだとは思えなかった。
「あの、僕が中原くんに会いにきたと思ったのはなぜですか?」
「うーん、なんとなくだ」
衣をまとったアジを油に投入した店主は、問いかけにぽつりと返事をする。
だがそれは求める答えではなく、じゅうじゅうと油が弾ける音が聞こえる中で、天音は黙ってビールジョッキをつついた。
もっとなにか聞こえるのでは、と思ったけれど、小さな一言のほかに聞こえてくるものがない。
いざという時に頼りにならない力だ。
「誠の雰囲気があれから随分と柔らかくなった。癒やし系のあんたと、いい付き合いができてるのかと思ったんだ」
「いい付き合い?」
恨めしげにビールジョッキを睨み付けていた天音は、店主の言葉に興味を惹かれた。先を請うようにじっと見つめれば、彼はひどく優しい微笑みを浮かべる。
「あいつは優しい男だが、感情表現が上手くない。目つきの悪さも相まって、これまで誤解されることが多かった。だがあの日、嬉しそうに言っていたんだ。あんたは初めて会った時も、目をそらさず自分に笑顔を向けてくれたんだって」
――来館は初めてですか? お手伝いできることがあれば、なんでも言ってくださいね。
中原が初めて本を借りた日、カウンターで応対したのは天音だった。同僚があの子に睨まれているようで怖い、と言うので、こちらから声をかけた。
だが特別なことをしたわけではない。いつもどおりの接客をしたまでだ。
それなのにそんな風に思ってくれていただなんて、驚きとともに嬉しさが湧く。
「ちょっと前も、話ができるようになったんだって、喜んでたな。あいつのはにかんだ顔を初めて見た。片想いはやっぱりあんたかと思ったけど、嘘をつく男じゃないしな」
「……たぶん、同じ大学の子だと思いますよ」
「そうなのか。まあ、なんにせよ。これからも仲良くしてやってくれ」
「はい」
「アジフライ定食、おまちどおさん」
先ほどの彼女は、店主と中原の会話を聞いていたのかもしれない。もしかしたら告白をして、フラれてしまった子だろうか。
中原のためにも誤解は解きたいけれど、周りに雪宮のことは内緒にしているようだし、下手なことは言えない。
「中原くんは見た目で損してるけど、無自覚に優しいからモテるんだろうな」
「誠はわりとフェミニストだな」
「やっぱり」
店主の言葉に納得せざるを得ない。女性に限る優しさではないのだろうけれど、彼の優しさを間近で感じると、勘違いしてしまうのは致し方ない気がした。
損得なしのまっすぐな感情だ。
それに加え、普段無愛想に見える人がものすごく優しいだなんて、ギャップがあってトキメキポイントが高い。
中原に想われている雪宮が少し羨ましくなる。
「僕も恋がしたいな」
まっさらな心で愛してくれる人に、出会いたい。
どんなことがあっても、手を離さず傍にいてくれる人。
いままでの失敗を思い返し、願望に思いを馳せる。だが出会いは転がっているわけではないから、いままでのように受け身のままではきっと縁遠い。少し自分から足を踏み出すべきか。
小さく息をついた天音は、スマートフォンを手に取り、長らく開いていないアプリに指を伸ばす。
「いらっしゃい! ……ん? なんだ、誠か」
「え?」
アプリが起動したのと同時、店主の声に弾かれ、天音は顔を上げた。のれんをくぐって現れたのは、図書館で見送った中原だ。
もしや雪宮と――そう思ったけれど、彼は店に入ると後ろ手に戸を閉めてしまった。
「一人か?」
「はい、ちょっと飲みに」
「そっちじゃなくて隣に来い」
「隣?」
入り口近くで椅子を引いた中原に店主は、大きく手を招く。その仕草に訝しそうな顔をするが、天音の存在に気づいた彼は、驚きに目を見開いた。
「遠藤さん」
「中原くん、雪宮くんと一緒じゃないんだね」
「あっ、うん。あいつ、明日早いみたいで」
「そうなんだ」
ぼんやり立ち尽くしていた中原は、天音の言葉で我に返ったのか、何度も目を瞬かせた。さらにはそわそわと視線を動かし、落ち着きのなく無意味に首を触る。
「隣、どうぞ」
「うん」
ぽんぽんと促すように横の椅子を叩いて、中原を呼び寄せる。するとためらうことなくそこに腰かけ、彼は天音をじっと見つめてきた。
「どうかしたの?」
「いや、思いがけず遠藤さんに会えて、嬉しいなって思って」
「中原くんって、ナチュラルなモテスキルを持ってるよね」
「モテスキル?」
まったく自覚のなさそうなその顔に、天音は思わず声を上げて笑ってしまった。
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