振り返った先にいるのは、店で別れたばかりの中原だ。
天音が驚きで固まっていると、手首を握りしめる彼の手に力がこもった。
「中原くん、どうしたの?」
「よ、夜も遅いし、送ろうと思って」
「え? あの、僕……こんな見た目だけど。一応男だし」
「そういうつもりで、言ったんじゃないよ。……もう少し、話がしたかったから」
「そっか、ありがとう」
「うん」
手首に触れていた手が、一瞬だけぎゅっと手の平を握った。それだけで胸の音が早くなり、自分の反応にうろたえてしまう。
高まる胸の音。その意味に気づきなくて、さりげなさを装い、天音は目をそらした。
しばらく中原の視線を感じていたけれど、ほどかれた手とともに、ゆっくりと離れていく。
不思議な感覚がした。触れられていた場所から、優しさが染み込んでくるようで、熱を失ってもまだ、心が熱い。
「中原くんも家はこの辺なの?」
「うん、近い」
「そうなんだ。良かった」
「良かった?」
「帰りの電車もだけど。前に傘を返しに来てくれたでしょう。すごく手間をかけさせてしまったなって思って、気になってたんだ」
あの日はかなり雨の強い日だった。傘一本のために、わざわざ電車を乗り継いできたのかと、天音は申し訳なく思っていた。たとえ家が近くとも、随分と雨に濡れたはずだ。
「遠藤さんが雨に濡れて、風邪引くよりいいと思ったから」
「中原くん、ちょっといい人すぎるよ」
同じ理由で雪宮に傘を貸したのは、想像が容易い。しかし好きな人のためというのは納得ができたけれど、顔見知り程度の天音に、そこまでできる中原は善人すぎだ。
「俺は誰彼問わず、優しさを振りまいているわけじゃないよ」
「それって、どういう基準?」
「優しくしたいな、って思った人だけ」
「ええ? すごく抽象的で大雑把」
「やっぱり伝わらない、ね」
ふいに伸びてきた指先が、前髪を優しく梳いた。思いがけない感触に、天音が小さく肩を跳ね上げると、その手はするりと離れていく。
「なんだか、中原くんは眩しいね」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
本から溢れる光のように、なぜかいま傍にいる中原が煌めいて見える。
光はおそらく心の純度なのだろう。人によって目に見えるものが違う。こんなにもキラキラとした光を見たのは、彼が初めてだった。
「中原くんは心が綺麗なんだろうな」
「俺は、言われるほど善人じゃないと思うよ」
「そんなことないと思うけど。なにかあった?」
並び歩く中原を見上げれば、横顔はひどく硬い表情を浮かべていた。眉を寄せて拳を握る、その姿は痛ましさを感じる。
先ほどまで感じていた柔らかな空気が、一瞬にして張り詰めたような。
こういった場面、なんと言葉をかけていいのかわからない。これまでの天音は、相手の機嫌を損ねた時、さりげなく傍にあるものに触れて確かめていた。
できるだけ望む言葉を返せるように。
普段は聞かないように気を使っているのに、振り返ると思っているよりもずっと、自分の力に頼りきりなのがわかる。
だとしても言葉を間違えて、好きになった人に嫌われるのが怖かった。
――天音はもっと聡いと思ってた。
――イメージと違ってがっかりした。
――悪いけど、そういうの求めてない。
――見込み違いだった。もう別れよう。
ふいに甦った声に肌が粟立ち、身体が震える。人の心が真っ黒になる瞬間、思い出すだけで天音の心臓はひび割れそうになる。
「俺は誠実じゃないんだ。いつまでもはっきりしないから、信じてもらえない」
「や、やっぱりなにかあったの? 好きな人と喧嘩しちゃった? でも中原くんが誠実じゃないなんて、そんなことないよ」
独り言のように呟かれた言葉。その声音からは感情が読めず、心に不安が広がった。あの人たちと中原は違う、そう思っていても一度膨れ上がったものは、簡単に戻らない。
やけに早口な自分に気づき、天音の中に焦りが募った。
「あっ、ほら、もしかして相手の人は、中原くんの告白待ってるのかも。意外と両想いだったりして、いまが告白のタイミング」
「やめて! 遠藤さんには言われたくない!」
「中、原くん?」
言葉を遮る大きな声にも驚いたけれど、突き放されたことに天音は呆然とした。勢いのまま数歩、後ろをへ下がると、目の前の顔がくしゃりと歪む。
いまにも泣き出しそうな顔。とっさに天音が手を伸ばしたら、避けるように無言のまま、背中を向けられてしまった。
どんどんと、歩いて行ってしまう中原を見つめて、立ち尽くすしかできない。
失敗をした。無遠慮に踏み込みすぎた。長い間、想いを伝えられずにいたのだから、本人にだって葛藤はあったはずだ。
それなのにあまりにも身勝手に、繊細な部分に触れてしまった。
「ごめん、中原く……」
目の前にいる彼しか見ていなかったので、反応が遅れた。天音が慌てて駆けだした途端に、すぐ傍で驚きをあらわにする声が聞こえる。
「いっ、た……」
我に返った時には道路へ転がっていて、状況が理解できなかったが、身体の衝撃と一緒になにか派手な音がしたこと思い出す。
天音が顔を上げると、すぐ傍で自転車と人が倒れていた。
「すみません! 大丈夫ですか? 周りを見てなくて」
「遠藤さんっ」
「えっ」
立ち上がろうと身体を浮かせた瞬間、いきなり後ろから抱きすくめられた。驚く間もなく、光が洪水のように溢れ返り、天音は息を飲む。
シャラシャラと、音が鳴りそうなほどの煌めきだけれど、眩しさは感じない。
周りが見えなくなるほどの光に、飲み込まれてしまいそうになる。まるで別空間に紛れ込んだような感覚だった。
そこは温かくて優しくて、とても心地がいい。
――遠藤さん
うっとりとした天音の頭に流れ込んできたのは、自分を呼ぶ中原の声だ。なぜ急に、そう考えるているあいだにも、次から次に声が染み渡るように響く。
――最近、全然話せてない
――元気がなかった
――笑った顔が見たい
――もっと一緒にいたい
――やっぱり俺は
「遠藤さん、大丈夫?」
最後の言葉を聞く前に、現実に返った。目を瞬かせると光は消えていて、自転車もその持ち主もいなくなっている。
夢でも見ていたのか。そんなことを考えたけれど、無意識に手を握りしめた瞬間、手首に痛みが走って天音は眉を寄せた。
「ぶつかった人の連絡先は聞いたから、どこか痛かったら言って」
「……鞄」
「え? なに?」
先ほど中原に抱きしめられた時、触れたのだろう。いつの間にか天音は、彼の鞄を強く掴んでいた。
もう聞こえなくなってしまったと思っていたのに、はっきりと響いてきた声。切なくて甘くて、心に染み込んでくるような。
「やっぱりって、なに」
「ごめん、聞こえなかった。なに?」
身を屈めて覗き込んでくる、中原の顔が間近に迫ると、カッと頬が熱くなった。じわじわと広がる熱で耳まで火照る。
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