初めての笑顔
あれから数日が過ぎたけれど、いまだ図書館に中原は来ていない。おかげで天音は、夕方になるとそわそわして、落ち着かない気持ちになる。
こんなに気になるのだから、連絡先くらい聞いておけば良かったと後悔もした。しかしそんなことをしたら、落ちないように必死で耐えた恋の沼に、飛び込む羽目になりそうだ。
いまは程よい距離感をとる必要がある。
向こうは天音が恋心を抱いているとは、思いもしないだろう。天音自身も好きになる可能性が芽生えるなんてことを、出会った頃は想像もしていなかった。
それでもまたあの時のように抱きしめられたら、触れられたら、転がり落ちるのが目に見えて分かる。
「早くくっついてしまえばいいのに。そうしたらすっぱり諦められる」
だが裏を返せば、そうでもしないと恋に片足どころか、両足を突っ込みかねない、という意味でもある。彼には恋をしない、そう言い聞かせるものの、考えるほどに天秤は傾き出す。
「遠藤くん」
黙々と本の修繕作業をしていた天音は、急に声をかけられ、思わず見当違いなところにテープを貼るところだった。
慌てて手を引っ込めると、声の先を振り返る。戸口には道江が立っていて、天音の様子を見てにこにことした笑みを浮かべた。
「カウンターにお客さんが来てるわよ」
「え?」
「作業の続きはやっておくから、早くいってらっしゃい」
「……はい」
ほらほらと急かされて、天音は席を立つ。お客さん、という言い方をしたので、違うかもしれないけれど。以前、道江は彼が来たら教えてくれると言っていた。
少しばかりの期待を胸に事務所を出て、足早にカウンターへ向かうと、見慣れた背中があった。天音が近づけば、声をかける前に彼は振り返る。
「遠藤さん」
「中原くん。……風邪は、もういいの?」
「うん、おかげで全快した。ちょっと大学の授業を休みすぎちゃったから、ここには来られなくて」
「そっか」
いままではなんのためらいもなく、まっすぐに顔を見られたのに、意識をするとなかなか目を合わせられない。
天音が落ち着きなく視線をさ迷わせると、中原がその先を覗くように顔を寄せてくる。
「ここって、遠藤さんが二人いるんだね」
「女の子で同じ名字の子がいるよ」
「どっちの遠藤さんですかって、言われた」
「天音って、呼んでくれていいよ」
「天音さん?」
「うん。……僕は、誠、くんって呼んでもいい?」
いまさら名前で呼び合うのはくすぐったい気はしたが、こういう機会でもなければ、呼び方は変えられない。
天音が窺うように見上げると、彼はにっこりとした笑みを浮かべた。
「うん、いいよ」
珍しいくらいの笑みに、天音は驚きに目を瞬かせる。これまで彼のあからさまな笑顔は、一度も見たことがなかったので、胸がひどくときめいた。
「天音さん、今日は何時まで?」
「今日? 十八時で上がりだよ」
緩みそうになる顔を誤魔化すように俯くと、誠はまた顔を覗き込んでくる。
「予定はある?」
「ない、けど」
「このあいだのお礼をしたいから、ご飯、食べに行かない?」
「ご飯?」
思いがけない誘いに、天音は自分でも驚くほど反応してしまった。反射的に顔を上げると、目の前の誠が嬉しそうに目を細めた。
柔らかな彼の表情を見た途端、心に押し止めようとしていた感情が、湧き上がりそうになる。距離感が必要、ほんのわずか前に、そう言い聞かせたばかりだというのに。
「もちろん俺のおごり」
「……い、行く」
これではまるで、おごりに釣られたような返事に聞こえる。それでも誠はまったく嫌な顔を見せず、それどころかますます表情を和らげた。
「あと少しで終わり、だよね? 入り口のあたりにいるから、声かけて」
「わかった。またあとでね」
小さく手を振ると、いつものように誠も振り返してくれる。背を向けて彼が歩き出しても、天音は後ろ姿を見つめていた。けれどふいに来館者に声をかけられて、我に返る。
退勤時間まであとわずかだ。真面目に仕事をしなければと、気持ちを入れ替えた。
**
「遠藤くん! もう上がりなよ!」
「あ、うん。ありがとう」
年配の女性に、検索機の操作方法を教え終わったところで、弥生が声をかけてくれた。時計を見れば、とうに十八時は過ぎている。
ほかにもなにか訊ねようとしている男性がいたので、見かねて声をかけたのだろう。
「待ち合わせしてるんでしょう? さっきカウンターのところで話してた彼が、時計を気にしてたよ」
「え? そうなんだ。待たせちゃったな」
「もう、遠藤くんはいつも一人でこなそうとするんだから。頑張り屋さんすぎ」
天音の場合はなにかの拍子に、心の声を聞いてしまうことが多いので、一人が楽、なのだが。周りから見るとそんな風に映っているのかと、少し驚く。
「それより、ほらほら、急いで急いで」
「う、うん」
戸惑う天音をよそに、弥生は背中を叩いて先を急がせる。その手に押されるように、事務所へ戻ると、慌ただしく帰り支度をした。
「誠くん、ごめん」
「お疲れさま。忙しそうだったから、平気。あれ? 眼鏡にしたの?」
「あー、うん。こっちのほうが楽で」
本当はコンタクトのほうが、雨で濡れたり曇ったりしなくていいのだが、誠が眼鏡の自分が好きだったことを思い出したのだ。
態度が露骨だったろうか、と心配になるものの、彼は天音の思惑には気づいていないようだ。
「行こう。ここからわりと近いんだ」
促されて外へ出ると、二人で傘を開く。雨は小雨で、足元が濡れるほどではないのが幸いだ。
ぽつぽつと、雨音がかすかに響く中で、お互い無言のまま歩く。向かっているのは、天音たちの家の方角とは逆の方向だ。
踏切で立ち止まると、天音はふと視線を上げ、誠の横顔を見た。
無駄のないシャープな輪郭。鼻は高いと言うほどではないが、すっと鼻筋が通っていて形が整っている。瞳はよく見ると奥二重だ。
第一印象は目のキツさが先に立つけれど、全体的に彼はイケメンの部類だろう。
これまではそれほど、顔を注視していなかったので、天音はいまごろ気づいた。
「どうかした?」
横顔を凝視しすぎたのか、こちらへ視線を落とした誠が、訝しげな表情を浮かべる。その顔をじっと見つめた天音は、つい思っていたことを口走ってしまった。
「誠くんって、意外とイケメンだったんだなって」
「え?」
「ご、ごめん。意外って失礼だった」
ぽかんとした顔で見つめてくる誠に、天音は慌てて手を振り、言葉を取り消そうとした。そんな落ち着きない行動に、彼は吹き出すように笑う。
「天音さんは正直者だな」
「普段は人の見た目とか頓着しないほうだから」
「そうなんだ。よく俺のこと、覚えてたね」
「姿形はなんとなく。赤茶色い髪は目立つし、すごく礼儀正しいなとか。……あとは、声がよく聞こえるから」
「ふぅん、そっか。じゃあ俺はラッキーなほうなんだ」
「え? どういう意味?」
「言葉のままの意味。あ、店はあそこだよ」
意味ありげに微笑んだ誠は、言葉を飲み込めないでいる天音の手を取ると、少し足早に歩き始めた。