Chocolate/02
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「雪羽、今日もぎりぎりセーフだな」

「おーい神谷、大丈夫かぁ?」

 いつもの調子で雪羽が教室に走り込む頃、丁度予鈴が鳴り響いた。入り口で俯き肩で息をする雪羽に、クラスメイト達は苦笑いや安堵の笑みを浮かべて迎える。無事にたどり着いたことでほんの少し気が抜け、雪羽の足元はよろよろしていた。
 そしてなんとか自分の席まで行き椅子に腰掛けると、一気に力が抜けて雪羽は勢いよく机に上半身を預けた。それと共に額を打った鈍い音が響き、近くの席にいる皆が小さく笑った。

「そういや今朝は珍しく葛原が来てたぞ。なんか約束してたのか?」

「えっ」

 前の席に座る友人の滝川が振り返ると、雪羽は慌てて顔を上げた。驚いた声を上げた雪羽に小さく首を傾げてみせる滝川は、学校に広まる雪羽と日向の噂をまだ知らない。
 どうやら今はまだ女子のあいだでしかその噂は広まっていないらしい。でも二年の鞠子にまで届いた噂なのだから、そのうち興味本位な男子へ伝わり広がるのも時間の問題かもしれないと雪羽は思った。

「あ、うん。まぁ、時間を約束してたわけじゃないんだけどな」

「そっか、またいつもみたいに昼に来るって言ってたぞ」

「あぁ、教えてくれてさんきゅ」

 短く雪羽が礼を言うと滝川は前に向き直った。そんな背中から視線を外し慌てて鞄を漁ると、雪羽は昨夜充電し忘れた携帯電話を取り出した。幸い電池残量はほんの僅か残っていた。しかし昼まではもたないだろうと急いでメールを確認する。
 予想通り日向からメールが届いていた。「またギリギリか?」という日向のメールに「今さっき着いた。昼休みいつものとこで待ってて。電池ない」と雪羽は急いで返す。それに待ち構えていたのかと思えるほど早く「了解」の一言が返って来た。

 あまりの速さに呆気にとられていると担任が教室にやってきて、携帯電話の充電もなくなってしまった。そしてホームルームから昼休みまで雪羽は落ち着かず、全く授業も頭に入らなかった。
 ずっとそわそわしている雪羽に、友人達は少し心配そうな顔をしていたが、午前の授業が終わるやいなや、慌ただしく教室から飛び出していった雪羽に目を丸くしていた。

 いつもの場所――それは雪羽と日向しか今のところ知らないであろう場所。

 教室の位置的に日向の方が先に向かっていることが予想できている雪羽は、廊下を勢いよく走り抜ける。毎朝遅刻ギリギリで走ってることが多いので、雪羽の脚力はなかなかのものだった。
 階段も一段飛ばしに駆け上がり、目的の場所へと急ぐ。今日に限ってこんなに急ぐのには訳がある。自分も同じ理由で急いでいるのだが、道すがら女子などに捕まってしまっていたらと思うと、雪羽は気が気ではなかった。

「誰も、いないな?」

 とにかく落ち着かない気持ちを早く収めたくて、辺りを見回すと雪羽は廊下の窓を開いて、更にもう一度周りを見回すと、その窓から飛び降りた。場所は二階、普通に考えればありえない行動ではあるが、近道として熟知している雪羽にとってはなんてことはない高さだった。
 降り立ったのは一階にある渡り廊下の上。コンクリートの上に着地するので最初の頃は少し足がしびれたものだが、いまや大した衝撃も感じなくなっていた。また慌ただしくそこを駆け抜けると、目の前には背後にある校舎よりも少し古い校舎がある。

 それは新しい校舎よりも天井が低いため、二階の窓も低い位置にあった。手近にあるダクトの金具に足をかけて器用に上ると、雪羽は腕を伸ばして閉まっている窓に手のひらを当てて力を込める。
 すると窓が鈍い音を立ててながら少し開いた。しかし隙間に手を入れて一気に開こうとしたら、ふいに窓の桟にかけた手を掴まれた。

「相変わらず、危ねぇ真似すんなお前は」

 カラカラと乾いた音を立てて開かれた窓からふいに現れた人物に、雪羽の顔は一気に熱が集中したように赤く染まる。
 雪羽を見下ろす眼差しは、普段キツく鋭さを感じさせるが、今は柔らかく細められている。整った鼻筋の下でゆるりとした笑みを浮かべる唇は薄いが軽薄さは感じない。
 自毛である色素の薄い茶色い髪の毛同様、瞳をふちどるまつ毛もほのかに茶色く見える。ふっと通り抜けた風に揺らされてなびいた少し長めの髪と、優しい笑みに雪羽は目を奪われていた。

「早く上がれ、見つかるぜ」

「あ、悪い」

 鼓動の早まった心臓にうろたえながらも、腕に力を込めて窓の桟に飛び乗ると、雪羽は身軽に室内へ飛び降りた。それと共に背後の窓は再びカラカラと音を立てて閉められた。

「そんなに急がなくても、まだ全然時間は余裕だったろ」

「あ、いや、そうなんだけど。日向、どっかで捕まってたらやだなと思って、だから」

「なに? 俺が女に捕まってんの見たくなくてこっちから来たのかよ」

 窓を背にして日向はその場に腰を下ろすと壁に寄りかかる。そして落ち着きのない雪羽を見てにやりと片頬を上げて笑った。そんな表情に雪羽はますます困ったように眉を寄せるが、手のひらを上に向け腕を差し伸ばされると、それに誘われるように日向の手のひらを掴んでいた。

 触れた瞬間に握り締められた手は強く引かれて、バランスを崩すように雪羽の身体は前のめりに傾く。慌てて片膝をつくけれど、それよりも早く身体を抱き寄せられて日向の腕に収められてしまった。

「可愛いなぁ、お前。ほかの奴なんか目に入んねぇよ」

 走り回って乱れた雪羽の少し癖のある黒髪をすくい撫でる日向の手は大きくて、その指先は長く爪の先まで綺麗だった。少しの気恥かしさを感じたが、素直に雪羽は頭を日向の胸に預ける。すると自分を抱きしめる腕に力がこもったのを感じた。

「まぁ、そんなことじゃねぇかと思って昼飯買っといた」

「あっ」

 肩を揺らして笑った日向の言葉に、今頃思い出したかのように雪羽は顔を上げる。日向が指差す先にはペットボトルが二本とおにぎりやパンが入った袋があった。

「それよりも大事に抱えてるそれ、くれねぇの?」

 慌てた表情を浮かべる雪羽に至極優しい笑みを浮かべると、日向は触れるだけの口付けを唇に落とす。彼の視線の先に気づいた雪羽は、ほんの少し身体を起こしておずおずといった態で紙袋を日向に差し出した。

「マジで作ってきてくれたんだな」

「日向が絶対って言ったんだろ」

「ん、言った」

 紙袋から小さな箱を取り出すと、至極機嫌の良さそうな顔で日向は結ばれたリボンをほどいた。そんな様子を目の前で見ながら、雪羽の心臓はどんどんと鼓動を早めていく。そして日向の手が箱の蓋にかかると思わず手が伸びていた。

「最初に言っとく、形はスゲェ悪いからっ、でも味は、悪くないと思う」

 急に伸びてきた手に少し驚いたように目を瞬かせた日向は、雪羽の言葉に目を細めて笑うとその手をそのままにそっと蓋を開いた。そして中を見た瞬間、ふっと息を吐いたように笑ったが、なにも言わずにいびつな形のチョコレートを口に放り込んだ。
 口を動かしているあいだ中ずっと雪羽の視線は日向に向けられている。けれど視線を上げることはせずに、もう一つチョコレートを摘んで日向はそれを口に入れた。

「ど、どうだ?」

 反応のない日向に堪らず声をかけた雪羽の目はほんの少し不安げだ。けれどふいに伸びてきた日向の腕に抱き寄せられて雪羽の肩が跳ね上がった。そして間を置かず唇を重ねられて、僅かに身体が硬くなる。

 何度重ねても、深くなる口づけに雪羽は慣れずに固まってしまう。けれどそんなことはわかりきっている日向の舌先が、遠慮なく唇をなぞりその隙間に割り入った。
 それはいつもより甘い口付けだった。日向の舌にわずかに残る甘い残骸が舌に絡みつき、翻弄されるままに口付けを受け止める雪羽の口の端から唾液が溢れ顎を伝い落ちる。僅かに目が潤み、雪羽の呼吸が荒くなる頃、やっと唇は解放された。

「すげぇ俺好み、美味かった」

「それなら、良かった」

 くたりとした雪羽の身体を抱きしめて、ほんのり上気した頬に日向はそっと唇を落とし耳元で囁いた。

「お前が喜ぶお返し、考えねぇとな」

 甘い甘いプレゼントのお返しは――?

Chocolate/end

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