桜の時
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 敷地にボートを浮かべられるほどの、大きな池がある広い公園――そこでは圧倒されるほどの桜が咲き乱れ、水面には淡いピンク色の優しい風景が映り込んでいる。

 今夜は気温が高く絶好の花見日和だと、朝に流れるニュース番組が天気の予報を告げていた。
 その予報は外れることなく、陽の暮れた空は雲のほとんどない、月の綺麗な夜だった。景色は幻想的、しかし花びらが舞い散る中で、月明かりに照らされた公園は静けさとは程遠かった。

 どこからか音の外れた歌声も聞こえ、それに乗じたざわめきと笑い声は、静寂を好むものには騒音でしかないだろう。
 そんな楽しげな顔が多くある中で、眉をひそめ顔をしかめる青年が一人、喧騒を横切るように歩いていた。

 彼は長い袋に入った日本酒の酒瓶を片手に、黙々と歩いていく。その歩みは早く、人がいるその場所で立ち止まる気配はない。けれど足早な彼を、時折振り返る者はいた。

 彼はこの近所のアパートに住む大学生だ。今春に大学四年生になったばかりで、名前は桧村敦生と言う。

 そんな大学生に、なぜ振り向く人がいるのかと言えば、俯きがちな顔は色が白く細面。
 長めの前髪で少し隠れてはいるが、中性的な印象を与える敦生の顔立ちは、そこいらの女性など霞みそうな程の色気を感じさせる。

 そしてなにより、祭りのように連なった提灯の明かりの下でも、首元で結わえた肩先まである彼の赤茶色い髪は、夜目でもとても目を引いた。

 そんな彼はどんどんと賑やかな場所から離れ、公園の奥へと足を進めていく。そうすると綺麗な桜並木は遠ざかり、敦生が歩く場所は緑の葉が目立つ木々の道となった。
 それでも彼の足は止まることなく進む。

 するといつしか道という道もなくなり、草木を分けるように敦生は進んでいった。けれどふいに足が止まり、葉っぱの生い茂る枝を大きくかき分けた途端に、敦生の目の前には月明かりが広がった。

 そこは先ほどまでの喧騒はなく、静寂が支配していた。半径三、四メートルほどのひらけた草地。そこに一本、公園のどの桜よりも大きく満開な桜が、悠々と生えていた。

「ノブ、酒持ってきたぞ」

 そんな草地にはまるでベンチのような平たく長い石が、ちょうど真ん中辺りに、高さ二十センチほど残し埋まっていた。それは大人が二人並んで座っても余裕のある大きさだった。

 敦生が持ってきた袋を掲げてそこに近づくと、背中を向けそこに座っていた男が、にこやかに振り返る。
 右端に座っていたその男の隣には、敦生一人が腰かけられるスペースがあった。

 空いたそこへ足を前に投げ出し腰かけると、敦生は袋から四合瓶の日本酒と、布で包んだぐい呑みとお猪口を取り出した。
 その二つの器は大きさの差が一目見てわかるほどで、お猪口は一口二口で飲みきってしまいそうなほどの小ささだが、ぐい呑みはそれの何倍かは大きい。

「去年はさ、一升瓶で悪酔いし過ぎたから、今年は半分にした。これ飲み口甘くてすっきりして飲みやすいんだってさ。あんまり飲めないお前でも飲めるかも」

 先ほどまで顔をしかめていた、敦生の顔は柔らかく綻び、とても機嫌がよさそうだった。楽しげに目を細めて笑うその表情は、周りに花が咲いたように煌めいて、誰もが振り向いてしまいたくなるほどの魅力があった。

 そんな敦生を見つめるノブは派手さは全くないが、清潔感のある黒髪の短髪で、優しい光を含んだ目はその誠実さを物語っているように見えた。
 そして線の細い敦生より、ふた回りほどは大きいであろうその体躯は、包容力さえ感じさせる。

「あー、美味いっ。これ一升瓶でもよかったかも」

 小さなお猪口と大きなぐい呑みに、なみなみと酒を注ぐと、敦生はぐい呑みを片手に、空を仰ぐように桜の木を見つめて目を細めた。優しく吹き抜ける風が、敦生のさらさらとした前髪を揺らす。

「ここはほんと穴場だよな。誰も気づいてないとか優越感」

 垣根のように木々に覆われたこの場所は、敦生とノブが二年前に偶然見つけた場所だった。その時はまだ桜のつぼみは固く閉じていたけれど、暖かくなったら綺麗だろうと、二人でワクワクと心を躍らせた。

 そして半月後そんな予想を遥かに凌ぐ雄大な桜を見上げた。

 ここはひっそりと人目につかない場所ではあるが、きっと公園を作った人物が、この秘密の場所とも呼べる空間を作ったのだろうと二人は考えた。
 春には桜が見事で、秋になると対局の位置にある木が紅葉を散らす。

 目の前には転落防止の柵も設けられているが、そこから見える景色はパノラマだ。少し小高い位置にあるこの場所は、空の上にいる気分にさせられた。

「ここだと花見を誰にも邪魔されない。うるさいおっさんもいないし、馬鹿騒ぎしてる奴もいない。みんな遠くに感じるからすげぇ気が楽だ」

 見上げた空は冴え冴えとして、月が白く綺麗に輝いている。目の前の景色には高い建物もなく、目線を下ろすと住宅の明かりが、ぼんやりと灯っているくらいだ。
 住宅の明かりがなければ、小さく瞬く星の光がもっとはっきりと見えることだろう。

「最近さ、一年って早いって感じるんだよな。周りに言うと年寄りくさいって言われんだけど。もう来年には大学も卒業だし、就職活動が始まったらさらにあっという間だよな。バイトもロクにしたことねぇし、俺やっていけるか今から不安だわ」

 どこか遠くを見つめるような敦生の目には、言葉通り微かな不安が浮かんでいた。周りの友人たちがバイトに明け暮れる中、敦生はそういったものとは無縁のところにいた。

 一人っ子なためか、両親が過保護過ぎるほど過保護で、金に困ることもない生活をしている。週に一度は、まるで宅配サービスのように食料が実家から届く。

 バイトくらい社会勉強にいいだろうと、大学一年の頃に友人の手伝いで配送業者のバイトをした。けれど敦生の不注意で、怪我をしたことが両親に知れて以来、即その仕事は辞めさせられた。

 身の回りに心配がない、家庭教師のバイトも紹介されたこともあったが、他人の勉強を見るくらいなら自分の勉学に励めと、それも認めてはもらえなかった。

「そういえばさ、隣に住んでた女の人いただろ? 今度結婚するんだってさ。子供が出来たらしい。彼氏まだ俺たちより若くて、初めて会った時はクソ生意気なガキだなって思ってたけど、父親になるんで頑張りますとか言って、金髪だった頭真っ黒に染めてた。すげぇよな」

「敦生、まだあそこに住んでるんだ」

 思い出し笑いのようにふっと息を吐いた敦生に、ノブはほんの少し目を細めて寂しそうな顔をした。今も敦生が暮らす公園近くのアパートで、一年くらい二人は一緒に暮らした。

 敦生とノブは、高校三年の頃に同じクラスになり親しくなった。口うるさい両親を大人しくさせてしまうほどに、ノブは穏やかで優しくて頭もいい好青年だった。
 一緒に暮らすと言った時には、手放しでよろしく頼むと言われたほどだ。

 初めてノブと出会った時から、見た目の印象を裏切ることのない、まっすぐとした人間だということが敦生に伝わった。
 そんなノブに、幼い頃から同性にしか恋情を抱けなかった彼が、恋に落ちるのは早かった。そして優しいノブは少しずつだが、そんな敦生の心を受け入れた。

「みんな成長するんだよな」

「敦生」

 言葉を紡ぐたび、次第に笑みが消えていく敦生の横顔に、ノブはひどく悲しげな表情を浮かべる。

「お前がいなくなってさ、広過ぎるって思うんだけど。なんかあそこから離れらんないんだよなぁ。幸せそうでよかったと思うのに、隣のカップル妬ましくなって。駄目だよなこれじゃ。でも俺まだノブのこと好きだ。重いってわかってる、けどまだ」

 ぽつりぽつりと呟く、敦生の声は次第に小さくなり、最後は言葉にならずに飲み込まれた。そして投げ出していた膝を抱えて俯くと、小さくため息を吐き出した。

「このあいださ、朝倉さんにまた付き合って欲しいって言われたんだけど。咄嗟に断っちまった。ノブのこと忘れられそうにないからって、ひでぇ言い訳。あの人すごい優しくていい人なんだけど、わかってんだけどさ」

 整理のつかない気持ちを誤魔化すように、次から次へと酒を注いでは飲む敦生は、俯けていた顔を持ち上げて桜を見上げた。
 悠々と枝を伸ばし、淡いピンク色の花を咲き誇らせるその姿は、敦生の目にはまるで自由を謳歌しているようにも見えた。

「今年の桜もそろそろ終わりかな。今週は雨が降るらしいから散るのかな。もう一回くらい花見してぇなぁ」

「また来年もあるよ」

 どんどんと酒の進みが早くなる敦生を、困ったように見つめながら、ノブは優しい声でそう呟く。けれど敦生は再び抱えた膝に顎を乗せながら、寂しげな目でぐい呑みに映る桜色を見つめていた。

 いまにも泣き出しそうな、敦生の横顔をノブはじっと見つめる。色の白い敦生は目元の隈が目立っていた。
 左手の薬指で光る指輪は、ほんの少し隙間が出来て、以前より痩せたのだろうことが見て取れた。

「桜が散るのは見たくない」

 小さな呟きはしんとした空間に、やけに響いた。俯いた敦生の顔から、ここへ来た時の華やかな笑みが消え失せ、儚く手折れてしまいそうな表情が浮かぶ。

 そんな敦生を見つめて眉を寄せたノブは、俯く敦生に手を伸ばしかけるが、触れるのを躊躇うようにその手を引いた。
 宙で目的を失ったその手のひらは握りしめられる。

「ノブ、俺さぁ、お前の傍に行きたい」

 くぐもった声にはなにかに縋るような切なさがこもる。

「もっと傍にいたかった」

 吐き出される声が震え、敦生の声が掠れていく。堪えるように瞑った目尻から一筋、涙がこぼれ落ちると次第にそれは止まることなく溢れ出す。

「駄目だよ敦生、もう前を向かなくちゃ、俺のことは忘れていいよ」

 ふいにノブは立ち上がり、涙をこぼす敦生を見下ろす。背の高い彼の背中の向こうで桜が風に吹かれて揺れ始めた。
 ざわざわと周りの木々や葉が擦れ合う音が響き始め、穏やかだった風が勢いよく吹き上がると、桜の枝が大きく揺れる。

 その風はたくさんの花びらを空に舞い散らせた。

「桜の雨みたいだ」

 突然の風に驚いて顔を上げた、敦生の目に映るその景色は、淡いピンク色の花びらが地面に降り注ぎ、正しく桜の雨のようだった。そして舞い散り落ちた花びらは草地の上を桜色の絨毯に変えた。

「桜酒だなこれじゃぁ」

 風が収まり乱れた前髪を直しながら、ふいに敦生が手元に視線を落とせば、ぐい呑みの中には花びらが浮いていた。
 辺り一面、柔らかな色合いに変わったそれを見て少し頬を緩め、なに気なく視線をお猪口に向けた敦生は目を見開いた。

「なんで」

 小さなお猪口の中にも、桜の花びらがたくさん降り注いでいた。けれど注いでいたはずの酒は空になり、その代わりに月明かりを反射して光る、銀色の指輪が入っていた。

 慌ててそれに手を伸ばした敦生は、指輪を手のひらに載せると、自分の左手にはめられた指輪と見比べる。
 それは何度瞬き見つめても、全く同じデザインだった。

「敦生くん」

 驚きに戸惑っている敦生の背後から、微かな呼び声が聞こえた。突然聞こえた人の声に反射的に肩を跳ね上げた敦生は、その声を恐る恐る振り返る。

「朝倉、さん?」

 月明かりの下でも見間違えようもない、至極見覚えのある人。落ち着いたダークグレーのスーツをすっきりと着こなした、優しげな面持ちのその人は、どこか戸惑ったような表情で敦生を見つめていた。

 その視線を受けながら、草木の垣根を越えて現れたその人物に、敦生も驚きを隠せずにいた。なぜ彼がここにいるのかがわからなかったからだ。ノブと自分しか知らないはずのこの場所に現れた彼。
 そして手のひらに残された指輪。その事実に敦生はひどく混乱していた。

「朝倉さん、なんでここに?」

「え? 敦生くんがメールをくれたから」

 訝しげな目で見つめる敦生に、朝倉は困ったように眉を寄せ、あたふたと携帯電話を懐から取り出した。

「メール? 俺そんなのしてない!」

 携帯電話を手に首を傾げる朝倉に、慌てて自分も携帯電話を上着のポケットから取り出すと、敦生は送信履歴を確認した。そして画面を開いた敦生はそこに残された文字に目を疑った。

「ノブ……っ」

 桜の雨で止まった敦生の涙が、またこぼれそうになった。携帯電話を握りしめて俯いたそんな敦生に、朝倉はゆっくりとした足取りで近づき、片膝を付いた。
 そしてそっと持ち上げた手で、俯く彼の髪を優しく撫でた。

「君から桜の下で待ってますって、メールをもらって、最初はなんのことかわからなかったんだけど。大学のお友達に聞いて回ったんだ。そしたら信弘くんと二人で花見をした場所に、去年も一人でいたから今年もいるだろうって聞いて、この公園にたどり着いた。なぜだかわからないけど、この公園に入った時から足が勝手に進んでね。桜の中に君を見つけたよ」

「俺、俺はまだ」

「待つよ、いつまででも待つよ。忘れろなんて言わないから、君が振り向いてくれるのを待つよ」

 肩を震わせ、次第にしゃくりあげるように泣き出した敦生を、朝倉は優しく胸元へ引き寄せた。
 小さく身体を縮こませ、子供のように涙をこぼす敦生の髪に頬を寄せて、朝倉は至極優しい声音で何度も「待っている」と繰り返した。

「俺の家、すげぇうるさい。バレたら、なんて言われるか……わかんねぇよ」

「うん、覚悟するつもり」

「俺、今ノブのこと想って泣いてる」

「うん、それでも君が好きだよ」

 堪え切れなくなった敦生の泣き声が、静かな夜に響く。そして縋り付くように伸ばされた手で、朝倉の背にしわが刻まれた。
 ぼろぼろとこぼれ落ちる敦生の涙で、スーツにシミが出来るのも構わずに、朝倉は両腕で強く敦生を抱きとめた。

 大学三年になる年、もう少しで桜が咲きそうなそんな季節――バイトで出前の配達に出ていたノブのバイクに、信号を無視してスピードを上げた車が突っ込んだ。

 跳ね飛ばされたノブは、機転の利いた通行者たちの通報で、すぐさま救急車で運ばれた。けれど桜が咲いたらまたあの場所へ行こうと、敦生と交わした約束は果たされることはなかった。

 あれから二人で贈りあったお揃いの指輪、ノブのものだけが見つからなかった。
 バイトへ行く前は変わらずいつも身につけていたのに、事故の現場をくまなく探してもそれはどこにもなく。桜の散る頃に片方だけ取り残された指輪が、敦生の手に残された。

 ――さよなら敦生、どうか幸せになって。

 そして今、戻ってきた指輪と、さよならの言葉が敦生の胸を強く締め付けた。

桜の時/end

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