別離02
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 鞄に触れたのは明良の家だけだったから、よく考えればわかることだった。それなのに僕は焦って大事なところで判断ミスをした。
 明良を待てばよかったし、藤堂が来るのを待ってもよかったはずなのに。なくしてしまったことにばかりに気を取られたのだ。そしてそれを藤堂に知られるのが怖くて、曖昧な返事しかできなかった。

「明良、どうしよう藤堂が」

「優哉? あいつがどうした」

 藤堂のことまでは知らなかったのか、僕の言葉に明良は驚いた顔をして首を傾げた。けれど改めて僕の姿を見て眉を寄せる。赤黒く汚れた服は暗がりでも異様だっただろう。

「僕のことかばって怪我をして、まだ容態がわからない。いま手術中なんだ。長くかかるだろうって言われて」

「そうか、救急車で運ばれたのは優哉か。現場に居合わせたってことは、あいつはお前の身の回りに起こっている原因がわかったんじゃないのか」

「わからないけど、電話くれた時すごく慌ててた」

 そうだ、藤堂はひどく慌てた様子で僕のことを心配していた。あの時、判断を誤らずに電話をもらった時すぐ駅に引き返していれば、こんなひどいことにはならなかったかもしれない。
 まだ事故や写真の出どころはわかっていなかったのだから、もっと警戒するべきだった。間宮の一件で少し気持ちが緩んでしまっていたのかもしれない。けれど今更後悔しても遅い。

「そのお話、詳しくお聞きしたいのですが」

「え? あ……」

 ふいに聞こえてきた声で我に返った僕は、とっさにキーケースをズボンのポケットに押し込んだ。怪しい行動だというのは頭ではわかっていたが、隠さずにはいられなかった。
 ゆっくりとこちらに近寄ってくる二人には見覚えがあった。病院までパトカーで送ってくれた警察の人だ。確か僕と同じくらいの背丈で四十代くらいの人が野崎さんで、彼より一回りほど若く背が高いのが館山さんだった。

 車の中で聞いた話では、藤堂を追いかけてきたのだと言っていた。藤堂のところでなにがあったかまでは聞いていないが、警察が出てくるくらいだ、なにか事件性のあることだろう。藤堂の身近にいる人物でそれを引き起こす可能性があるのは彼の母親か。

 そういえば携帯電話を探していた時、藤堂の着ていた制服のポケットに写真が入っていた。しわくちゃになったあれは、見間違いでなければ僕の写真ではなかっただろうか。
 なぜ僕の写真を持っていたのだろう。僕のもとに送られてきていた写真は、藤堂の母親がやはり関係しているのか。

「西岡さん、今回の事件について少しお話を聞かせていただきたいのですが」

 この二人はどこまで情報を持っているのだろう。藤堂と僕の関係性には気づいているのだろうか。黙っていても事件となればいずれ調べあげられるのは想像できる。
 けれどいま余計なことをしゃべってしまいたくない。なんと答えたらいいのだろう。焦りが胸の中で広がり手のひらに汗がにじむ。

「いまじゃないと駄目ですかね」

「え?」

「それって事情聴取ですよね。こいつもまだ気が動転しているし、もう少し落ち着いてからにしてやってくれませんか」

 返す言葉が見つからずに言葉を詰まらせていたら、明良が一歩前へ足を踏み出し僕を背にかばうようにして立った

「日を改めることできませんか」

 物腰は丁寧だけれど明良の声はどこか有無を言わせない強さがある。そのまっすぐな視線と言葉に、目の前の二人は少し苦々しい表情を浮かべた。任意の事情聴取は強制することができないからだろう。

「わかりました。ですが、できるだけ早くお話を伺いたいと思っています。そうですね、落ち着きましたら署のほうへご一報を願えますか」

 しばらく二人とも難しい顔をしていたけれど、手前に立っていた野崎さんがため息を吐き出しながら僕のほうへと歩み寄ってきた。そして懐に手を差し入れると名刺を取り出す。
 その動作につられるようにして立ち上がった僕は、目の前に差し出されたその名刺に視線を落とした。

 左手を持ち上げて名刺を掴むと、そこに書かれた文字をじっと目で追う。そして僕は少し首を傾げてしまった。そこに書かれている警察署はこの近くではない。それに気づいた僕の中で仮説が立てられる。

 いま僕が想像している通りであれば、藤堂の母親がこの地区でなにか事件を起こしたのだろう。さらに僕と藤堂が起こした事件まで彼らが取り調べるのであれば、それと今回のことは関連性があるということだ。
 そこまで考えて嫌な予感がした。もしかしたらもうすでに僕と藤堂のことは知られているかもしれない。

「おい、館山」

 俯いたまま考え込む僕をよそに、野崎さんは振り返って片手を上げた。

「西岡さん、これはあなたの荷物ですよね」

「あ……はい、ありがとうございます」

「念のためあとで中身は確認しておいてください」

 後ろに控えていた館山さんがこちらに歩み寄り僕に鞄を差し出してきた。それを受け取って頭を下げると、二人はなにも言わずに僕と明良に軽く会釈をしてこちらに背を向ける。
 遠ざかっていく二つの背中を見つめて、思わずほっと息を吐いてしまった。いま深く追求されたらうまく話せる自信がなかった。

 けれど与えられた時間はいまだけだ。ほんの少しだけ猶予を与えられたに過ぎない。ことの詳細はまだ見えてきていないが、間違いなく僕は藤堂の母親に関連する事件に巻き込まれている。
 そしてそれは僕と藤堂の関係を明らかにしてしまうものに違いない。いつまで藤堂とのことを誤魔化せるだろう。

 いや、ここはもう覚悟を決めたほうがいいかもしれない。警察に介入されて誤魔化しが通じるとは思えない。けれどそうすると藤堂は自分を責めてひどく傷ついてしまうんじゃないだろうか。
 迂闊にも僕も怪我をしてしまったし、それだけでもきっと藤堂は胸を痛めるに違いない。

「いまはあんまり考えるな」

「ああ」

 僕の心の内を察した明良になだめられながら、またしばらく静かな時間を過ごした。そうしてどのくらい過ぎただろう、ようやく手術中を知らせるランプが消えた。

「藤堂」

 どうやら手術は無事に終わったようだ。手術室から出てきた藤堂の姿を見て身体の力が抜けそうになった。胸に溜まった不安が吐き出した息と共に流れ出ていく。

 術後の詳細は聞けなかったけれど、面会については経過を見るので数日は時間が空くと教えてもらった。しかしこのまま帰る気にもなれず、いま少しだけでもいいから顔を見ていきたいと申し出たら、関係者と言うことで今回だけ特別に数分だけならと了承を得た。
 まだ意識がはっきりしていなくうつらうつらとしている状態のようだ。長居はしないようにと念を押されて、僕は案内された病室へと入った。

「……よかった。お前にもしものことがあったらって思ったら、息の根が止まってしまいそうだった」

 横顔はまだ青白いけれど、ゆっくりとした呼吸音が聞こえる。本当に無事でよかった。いまは無機質に心音を告げる機械の音にさえ安堵してしまう。
 ちゃんと生きてる、それだけのことが嬉しくて、ずっとこらえていたものがこぼれ落ちた。次から次へと溢れるものを拭いながら、僕は眠る藤堂の横顔をじっと見つめ続けた。

 これからのことを考えると少し気が重くなるけれど、いまは藤堂が無事に回復することだけ考えよう。彼の隣にいると決めた時から覚悟は決めていた。もしもの時に僕が選ぶ答えはたった一つだけだ。それ以外は考えないでいよう、そう僕は心に誓った。

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