末候*橘始黄(たちばなはじめてきばむ)
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 冬と言えばこたつ、こたつと言えばやはりみかん。と、誰が言い始めたのか。いつに増してこたつの恋しい季節になり、宮古家のこたつは近頃満員だ。
 朱嶺にキイチに桃に桜小路。四つのスペースはすでに埋まっている。しかしすぐさま気づいた、朱嶺が自分の隣を得意気に叩く。

「空いてるよ! ここ空いてる!」

「狭い!」

 大きめの掘りこたつではあるが、いくらなんでも大人二人が、並んで座るには狭すぎる。一蹴した暁治は、にこにこと笑う桃の隣に腰を下ろした。
 一人、芝居がかったように崩れ落ちる恋人は、無視に限る。ひどいひどいと声は聞こえるが、暁治は手にした土鍋をガスコンロに置いた。五人分が十分炊けるだけの、大きな土鍋だ。

 寒い日には鍋だなと話していたら、桜小路が買ってくれた。しかも肉はなにがいい、と聞かれて、迷わず国産豚かなと答えた。最近かなり図々しくなってきた自分に気づくものの、食には正直な暁治だ。
 お礼になに鍋がいいかと相談すると、ミルフィーユ鍋を食べたことがないらしく、桜小路のリクエストを聞くことになった。土鍋が大きいので半分が白菜と豚肉、もう半分がキムチと豚肉となっている。

 すでに軽く火を通しているので、あとはコンロで煮立つのを待つだけだ。しかし斜め向かいで、ぷうっと風船のように頬を膨らませているのが見えた。

「僕は水炊きが食べたかった」

「それは次でいいだろう。文句言っても食べるんだろ」

「豚肉、全部出して!」

「それもう豚しゃぶじゃないか」

 ミルフィーユの意味とは? と思いながらも、仕方なしに暁治は冷蔵庫の豚肉を出して、銀トレイに並べる。とはいえ男四人とお子様一人では、冷蔵庫にまだ残っている肉や野菜は、瞬殺されることが目に見えていた。

「暁治、手伝うにゃ」

「ああ、ありがとう」

「最近の駄烏はわがままにゃ」

 台所に立つ暁治の隣でキイチが、しゃきしゃきの白菜とキムチを切って、ざると皿に載せていく。口を尖らせた横顔は不満そうだ。
 少しばかり朱嶺に構いすぎたかと、空いた手で頭を撫でてやる。すると手元でふわふわとした感触がした。

「キイチ、耳が出てる」

「最近、気が抜けないのにゃ」

「んー、まあ、そうだなぁ。いつ来るかわからないしな」

 いくら天然気味の桜小路とは言えど、簡単にこの子たちは妖怪です、とは打ち明けられない。言ったところで、そうなのか、で済みそうな予感はあるが。
 そう考えると朱嶺やキイチだけでなく、桃にも負担になっているのでは、と心配になる。近頃は河太郎もあまり顔を出さないし、鷹野もご無沙汰だ。よその人間が来たことで、気を使わせているのかもしれない。

 だからと言って桜小路に帰れとも言えない。難しい問題に、暁治は小さく唸る。そもそもなぜいきなり、ここで半年も過ごす気になったのか。友人の考えがよくわからなかった。

「暁治、駄烏の肉は端っこでいいにゃ」

「ちょっと! 駄猫! 悪口聞こえてるからね!」

「うるさいにゃ! 働かざるもの食うべからずにゃ!」

 居間へ戻るとすでに炊き上がったのか、土鍋からは湯気が立ち上っていた。朱嶺の皿を見ると、もうすでに肉が盛ってある。大人しくしている桜小路と桃は、暁治たちを待っていたようだ。

「食べていいぞ。桃は取ってやるからな。キムチは食べられるか?」

 こくこくと頷く彼女は期待に満ちた顔をしている。どうやら好きらしい。肉とキムチを皿に入れてやると、小さな手を合わせてから口に運んだ。ふわっと幸せそうな笑みが浮かんで、暁治も自分の分を皿に盛る。
 キイチは猫舌なので、ふーふーと冷ましている最中だ。そんな様子をなぜか、桜小路がじっと見つめている。

「桜小路、どうかしたか?」

「いや、最近はあの黄色い猫を見ないなと思って。野良猫なのか?」

「そ、それは、……猫は気まぐれなんだ!」

「そうか。寒くなるし、帰ってくるといいな」

 苦しい言い訳を素直に飲み込んだ桜小路は、少し寂しそうに呟く。猫バージョンのキイチが随分とお気に入りのようだ。ちらりと本人を見れば、ぶんぶんと顔を横に振る。
 少しくらいもふらせてあげてもいいか、と思ったけれど、本人が嫌では仕方がない。

「キイチがどうかしたか?」

 いまだにじっとキイチの様子を見ている桜小路に、もう一度問いかける。するとしみじみとしたような声が返ってきた。

「彼は黄色い猫に似ていて、可愛いなと思っただけだ」

「可愛い?」

「おれは暁治一筋にゃ!」

 思いがけない言葉に暁治は面食らったが、反射的にキイチが声を上げる。その声に驚いた桜小路は目を瞬かせるけれど、すぐにふっと笑みをこぼした。

「宮古は本当にモテモテだな」

「た、単なる保護者だ!」

「そうなのか。……そういえば、アトリエの隅にあったあの二枚の絵」

「に、煮えてるぞ! 早く食べないとなくなるからな!」

 心臓が縮み上がるような思いがした、というのはこのことかと、暁治は冷や汗をかく。春の頃に賞をもらった絵が、最近手元に返ってきた。ほかの誰かに見られないように、先日石蕗に見られた絵と一緒に、アトリエの棚にしまい込んだのが一昨日。
 勝手に棚を漁るなと言いたいところだが、いまは話を蒸し返したくない。

 あの絵を桜小路にまで見られたのか。そう思うと、顔が熱くなった。どちらも我ながらよく描けたと思っているけれど、描いてある人物に問題がある。気持ちを意識したいまは、自分の感情を他人に知られるようで恥ずかしかった。
 けれどもしかしたら、桜小路はそういうことではなく、暁治が人物を描いていたことに、驚いたのかもしれない。いままでずっと評判が悪くて、避けるように描いてこなかった。

 いや、それなのに二枚も、しかも同じ人物を描いていたら、勘ぐるのは暁治の気持ちかもしれない。ふとそれを思って恐る恐る視線を向けると、彼はさして気にした様子もなく首を傾げる。

「炊き込みご飯も美味いな」

「……あっ、鍋も食べろ。って言うか、朱嶺! キイチ! 肉ばっかり食べるな! 野菜を食え野菜を!」

 暢気に炊き込みご飯を食べている幼馴染みは、年下に肉を譲ったようだ。これではなんのために、リクエストを聞いたのかわからない。
 ミルフィーユ鍋から豚しゃぶに変わりつつある鍋。どんどん消費されていく肉を、暁治は居候どもから取り上げた。

「そういえば半年も休み、どうするんだ? なにか絵を仕上げてるとか?」

「絵か。まったく描いていないな」

「描いていないって、お前が?」

 まるで息を吸うみたいに絵を描き続けていた男が、まったく鉛筆も筆も握っていない、そのことに驚いた。けれど暁治の驚きをよそに、桜小路はさらりと呟く。

「ここへ来たら、そんなことはどうでも良くなった」

 それは衝撃的な一言だった。気づけばその場で立ち上がり、睨みつけるように彼を見下ろしていた。
 しんとした空気、我に返った暁治はとっさにその場から逃げ出す。

「ごちそうさま、風呂に入る」

 驚きと戸惑いの眼差しを振り返らずに、脱衣所に飛び込んだ。
 彼は当たり前のように、先を歩いていくのだと思っていた。それなのに放り投げるかのような、投げやりな発言に、暁治は腹が立ったのだ。

「はる、ゆず入れたら? いい匂いだよ」

 ざぶんと湯船に浸かると、カラカラと風呂の戸が開いて、朱嶺が顔を出した。ふんわり香った柑橘の匂いは、癒やし効果があるのか。少しばかりほっとする。
 けれど朱嶺にまで気を使われるなんて、態度が悪すぎたかと反省をした。誰だって息抜きをしたい時はある。自分だってそうして、ここへやって来た。

「あとで謝ろう」

 あの才能の塊が、自分のように挫折しかけた、とは考えにくいけれど。なにか思うところがあっても、おかしくはない。だが絵を半年も描かない、などということは、暁治には信じられない。
 田舎へと逃げてきてもまだ、自分は絵を描いていた。

「俺のこと気にして、とか、ないか。そういうところ疎いしな」

 しかし風呂から上がった頃には、桜小路はすでに家へ帰っていた。おかげで謝りそびれた暁治は、メッセージを送るか送るまいか、悩んで悶々としている。そしてベッドに腰かけ、携帯電話を睨んでしばらく、部屋のふすまが開いた。

「大男はまた明日も来るって言ってたよ」

「そうか」

 部屋に入って来た朱嶺は、まっすぐに暁治の元へ来て、隣に腰を下ろす。視線を感じて顔を持ち上げると、ゆっくりと近づき口づけをされた。やんわりと笑みを浮かべられたら、頬の熱さを感じる。
 思わず視線を落とせば、小さな笑い声が聞こえた。

「今日はこっちの布団に入っていい?」

「は? 狭い!」

「はる、そればっかり!」

 しくしくと泣き崩れる朱嶺を、暁治は羞恥など忘れて、ベッドの上から突き落とす。けれどベッドの下には、布団がひと組み敷いてあった。

リアクション各5回・メッセージ:Clap