際気30

 今日は朝からバタバタとしていて、ろくな休憩を取れないままその忙しさに翻弄された。慣れない接客をさせられて、それだけで神経がすり減ったと思う。
おかげでふいに姿を見せてくれた佐樹さんに、和んだ気持ちになったのは言うまでもない。けれどやはり疲れが顔に出ていたのか、俺の微妙な笑みを見て彼は笑っていた。

 その事実に気恥ずかしさはあったが、彼の笑顔はあの場所に俺たち以外の人がいなければ、無条件に抱きしめてしまいたくなる可愛さがあった。
 そんな佐樹さんに、この煩わしい忙しさから解放されたらゆっくりと会えるはずだった。しかし文化祭が終了し携帯電話を開くと、メールが一通届いていた。――今日は急用があって会えないので明日改めて会いたい、そんな内容だ。

 浮ついていた気持ちが、底辺に思いきり叩きつけられたかのような気分になる。だがあの人は軽い気持ちで約束を反故にするような人ではないので、不満が腹の底に溜まったが大きなため息と一緒に吐き出した。
 明日になれば会えると、そう言い聞かせて俺は了承の旨を返信して携帯電話を制服のポケットに押し込んだ。

「早い時間に家に帰るのは気が進まないな」

 予定がなくなり急に身体を持て余してしまう。最近あれは家にいることが多い。以前ほど人の顔を見てなにか言ってくることはないが、なんだか近頃は存在が異様というか不気味であまり接触をしたくない。
 今日はバイトも入っていないので、夜まで時間を潰すとしたら弥彦を捕まえるしか方法はなさそうだ。しかしそう思ったのに、俺はひどく面倒くさい流れに乗せられてしまった。

「藤堂くんがこういうのに参加してくれるの初めてだよね!」

「いや、俺はすぐ帰るから」

「そう言わずもうちょっといてくれよ」

 決してクラスメイトたちが嫌いなわけではない。しかし俺は人が大勢集まる賑やかな雰囲気に馴染めないのだ。身の置き場のない感覚は本当に居心地が悪い。
 そんな俺の心境に気づいているだろう弥彦は、少し離れた場所から心配げな顔をして視線を投げかけてくる。けれど視線は合うものの、助け船を出せる状況ではなかった。

「お前は少し人に慣れることが必要だな。高校卒業したらお前の大事な幼馴染みたちは、もういままでみたいに一緒にいてくれないんだぜ」

「うるさい」

「独り立ちも大切ですわね」

 両脇を固められて逃げ場を失った。俺の横には文化祭の立て役者とも言える鳥羽と売り上げ指名率がダントツだった峰岸がいる。
 弥彦がこの仮打ち上げに参加することを聞いて、それならばと大人しく帰るつもりでいた俺は、玄関先でこの二人に捕まり連行されることになったのだ。

「俺は別に人間が嫌いなわけじゃない。騒がしい場所が苦手なだけだ」

 集まった全員が一カ所に集まるのは不可能だったので、部屋は二つに分かれた。しかしカラオケボックスの大部屋の満員人数いっぱいに人が押し込められた部屋だ。
 流れる音楽も大きいが話し声も正直耳に障る。それに窮屈感もあってなんとなく落ち着かない。人には向き不向きというものがあるのだと、思わずため息がこぼれてしまった。

「一時間くらい付き合えよ。みんなお前がこうしているだけで満足なんだよ」

「……時間になったら帰るからな」

「心配するな今日は遅くならない」

 訳知り顔で笑う峰岸はなだめすかすみたいに人の背中を叩く。それが居心地悪くて身をよじったら、さらに笑みを深くして峰岸は肩を組んできた。
 その腕を払おうと試みるものの、狭さが邪魔をしてあまり大きく身動きが取れない。これ以上余計な労力を使うのは面倒だと、俺は諦めてテーブルの上にあるグラスに手を伸ばした。

「そういえばお母様はご健在? 会社でお見かけした時に随分とお痩せになっていたと聞いたのだけれど」

 グラスに刺さったストローでアイスコーヒーを飲んでいると、峰岸とは反対側に座っていた鳥羽がこちらを振り向き、耳打ちするような小さな声で問いかけてくる。その問いに俺は肩をすくめてため息を吐き出した。

 夏が来る少し前にあいつの会社が鳥羽の父親が経営する会社に吸収された。事実上、社長の立場は解任され、いまは吸収元の会社で取締役に名を連ねることになった。しかし夏以降は家に引きこもるようになり、ほとんど出社はしていないはずだ。

「健在ではないが生きてるよ」

 吐き出すように呟いて、俺はまたため息をついた。いまあいつの頭にあるのは、戻るはずもない旦那のことだけだろう。弁護士を通して話し合いを続けているがいつまで経っても平行線。
 多額の慰謝料を払ってもいいから離婚したい男と、頑なに首を振り続ける女が何ヶ月も同じことを繰り返している。

「こちらがやはり無茶をしてしまったかしら?」

「いや、そっちが悪いわけじゃない。病んでるのは別の原因でまったく関係ない話だ」

 一体いつまでこんなことが続くのだろうか。このまま長引いていけばなにが起きるかわからない。佐樹さんの身の回りで起きている一件も片がついていないし、正直言えば気が気ではない。またなにかに巻き込まれでもしたらと考えると、離れているこの瞬間さえももどかしい気持ちになる。
 だがふとそこまで考えて、無意識に俺は立ち上がっていた。

「どうした?」

「……帰る」

 なんとなく嫌な予感がした。それは心の奥でなにかが蠢くようなざらりとした気分の悪い感触だ。その理由はさっぱり見当もつかないが、ひどく胸騒ぎを覚える。できれば顔を合わせたくないが、いまはなぜかあれを一人放っておくのが心配になった。

「別に出さなくていい。急ぐなら行けよ」

 鞄を取り慌ただしく財布を開いたら、峰岸の手がそれを制した。その手に驚いて俺は思わず峰岸の顔をじっと見つめ返してしまう。すると片頬を持ち上げて笑った峰岸は、早く行けと言わんばかりに手を振った。

「そうか、じゃあ遠慮なく」

 ここで払う払わないとやり取りしている時間がもったいない。俺は笑みを浮かべてこちらを見る峰岸と鳥羽に片手を上げると、急いで賑やかな部屋をあとにした。そしてカラオケ店を出ると先を急ぐように走り出す。早く、早く帰らなければとなぜか心がはやる。
 しかしどんなに急いでも家に着くまでに四十分はかかるだろう。電車に駆け込めばあとはそれが駅に着くのを待つしかない。

「佐樹さんは、どうしてるだろう」

 電車に乗り息を整えた俺は、空いていた座席に腰かけ携帯電話を取り出した。特別連絡もないので気にし過ぎだろうと思うが、なんとなく落ち着かずメールを打つことにした。
 心配かけるような文面になってしまわぬよう、さりげなく帰宅の頃合いを聞いて電話してもいいか尋ねてみる。なにか用事があると言っていたので、すぐには返信は来ないだろうと携帯電話は閉じてまた制服のポケットにしまった。

 それにしてもなんだろうかこの焦燥感は、こんなに落ち着かない気分になるのは初めてかもしれない。停車する駅を一つ二つと無意識に数えてしまう。
 いつもならそれほど気にならない距離がいまはなんだかひどく遠く感じた。そして最寄り駅に着く頃には停車する前に立ち上がり、開くドアの前に立っていた。

「とりあえず家に帰れば気分も落ち着くだろう」

 そう自分に言い聞かせて駅から家までの道のりを急ぎ足で通り抜けた。道の途中にある弥彦とあずみの家には玄関先に明かりが点っている。もう日が暮れて辺りはだいぶ薄暗い。
 先ほどなにげなく見た駅の時計は十九時を回っていた。文化祭の片付けは二時間ほどだった。意外とそれから時間が過ぎていたのだなと、さらに先を急いで家へと向かった。