冬の日02
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 初めはまったく気づく様子がなかったが、何度か呼んでいるうちにさすがに自分が呼ばれていることに気づいたのか、彼は目を丸くして弥彦を見た。

「三島?」

 ほんの少し人波から外れて立っていた、その人の元へ弥彦が歩を進めると、あずみは待ちきれないようにその背を押した。

「西岡先生っ! あけおめ」

「わ、片平? 明けましておめでとう……びっくりした。三島しか見えなかったから。あ、着物か良いな、似合ってるぞ」

 飛びつかんばかりの勢いで人波から飛び出してきたあずみに、彼――西岡佐樹は、目を見開きながらもその身体を支えた。

「でしょ、でしょ」

 にこにこと柔らかい笑みを浮かべる佐樹に、あずみは至極満足げに笑う。

「西やん、明けましておめでとう」

「ああ、三島もおめでとう。もしかしてその子と、後ろの子は三島の弟か?」

「そうだよ。こっちが三男の貴穂でこっちは次男の希一」

 人懐っこい貴穂が佐樹に腕を伸ばして笑うのに対し、人見知りがちな希一は弥彦の後ろで様子を窺うようじっと初めて会う人物を見つめていた。それに気づいた弥彦は弟の背中を押して前へ促す。

「希一、うちの学校の先生。挨拶は?」

「……はじめまして、三島希一です。いつも兄がお世話になってます」

「はじめまして、西岡佐樹です。希一くんは三島に、お兄さんにそっくりだな」

 おずおずと頭を下げる希一に佐樹の頬が緩む。しかしそう言いたくなるのも無理はなく、希一は弥彦をほんの少し小さくしたような容姿だった。

「それにしてもお前たち二人は学校も普段も二人なんだな」

「え? 今日は三人のはずなんだけど」

「ん、ほかに誰かいるのか?」

 小さく笑った佐樹に弥彦は首を捻って辺りを見回した。しかし先程まで一緒にいた優哉の姿はどこにもなく、不思議そうな顔をする佐樹と同じように目を瞬かせてしまった。

「逃げたわねあの男。捕まえておくんだった」

 佐樹と優哉を引き合わせてやろうと画策していたあずみは、姿のない優哉に小さく舌打ちする。普段は物怖じなど一ミリもしない優哉だが、佐樹に関してだけは途端に気が小さくなることを、あずみはすっかり忘れていた。

「西やん今日は一人?」

「いや、友達と来てるんだけど。ちょっといま一人は電話し行ってて、もう一人は多分屋台かなぁ」

「それって彼女?」

「は? なんだよいきなり、違う。男友達だよ」

 突然、なんの前触れもなく会話に食い込んできたあずみに、佐樹は肩を跳ね上げて驚きをあらわにした。そしてその様子を見ていた弥彦も、いつも以上に当たりの激しい彼女に目を丸くする。

「どしたの、あっちゃん」

「ん、ちょっとリサーチ」

 ぼそりと耳打ちしてくる弥彦に、あずみはしれっとした顔で肩をすくめる。その表情に弥彦は大きなため息をついて肩を落とした。情報収集は昔から面白いことが大好きな彼女の悪い癖だった。

「あ、悪い。せっかく声をかけてくれたのに申し訳ないが、連れが戻ったから、もう行くな」

 ふいに後ろを振り返った佐樹は、少し離れた場所で手を振る二人連れに片手を上げて返す。

「そろそろ昼にはなるけど、帰り道は気をつけて帰れよ?」

「はーい」

「西やんまたね」

 何度も念を押す先生に、あずみと弥彦は満面の笑みで手を振る。するとその様子に安堵した佐樹は小さく笑みを浮かべて去っていった。

「……」

 そしてそんな三人がやり取りしている場所から少し離れた木の陰で、優哉はじっと身を隠すようにしゃがみ込んでいた。けれどふいに視界に入り込んだ靴先に驚き、顔を持ち上げる。

「優兄、なにしてんの?」

「いや別に、なんでもない」

 突然現れ、怪訝そうな顔で自分を見下ろす希一に、優哉は一瞬息が詰まった。けれどとっさに素知らぬ顔で口の端を持ち上げ誤魔化すように笑う。しかし優哉を見る希一の顔はますます訝しげな表情を浮かべた。

「もしかして、優兄の好きな人っていまの人?」

「は?」

「や、だって……顔、赤いよ?」

 ほんの一瞬、うろたえたように目をさ迷わせた優哉に、希一は困惑したように小さく首を傾げる。そして彼の言葉に面食らい、力の抜けた優哉はがっくりとうな垂れた。
 佐樹の登場に動揺した自分に気づいてはいたが、まさか顔に出ているとは思っていなかった。

「余計なこと言うなよ」

「……うん」

 焦ったように顔を片手で覆い、ぽつりと小さな声で呟いた優哉に、希一もまた小さく返事をして頷いた。

「いたー! 優哉、なにこんなとこで隠れてんのよ大馬鹿者が!」

「うるさいのが帰ってきた」

 あずみの出現で途端に騒がしくなった空気に、優哉は大袈裟なほど大きなため息をつきながら身体を持ち上げる。

「希一、行くぞ」

「……あのさ、優兄」

 小走りに寄って来るあずみを呆れ返った表情で見ていた優哉の背が、ふいに希一の手によって後ろへ引かれた。

「ん? どうした」

「あ、いや。なんでもない」

 振り返った優哉に希一の手がさらに強く握られる。しかし近づいてくるあずみと弥彦の気配を感じたその手は慌てて離された。

「優哉どしたの? 人酔いした?」

「悪い、なんでもない」

 心配げな表情で近づいてくる弥彦へ片手を上げ、優哉は彼の元へ歩きだす。そしてその場に立ち尽くす希一の傍には、珍しく困ったような表情を浮かべるあずみがいた。

「希一、お姉ちゃん悪いこと言わないから。優哉だけは止めときな」

「……うん」

 いまだ背を追う希一の視線に苦笑いをして、あずみは爪先立って弟の頭を撫でると、自分よりもずっと大きな手を優しく握った。

「あっちゃん、希一?」

「はいはい、いま行くわよーっ」

 いつまで経ってもついてこない二人に、弥彦が振り返る。その声に大きく手を振り、あずみは希一の手を引いて走り出した。そしてにやりと口の端を持ち上げると、なんの前触れもないまま思いきり希一の腕を引っ張り優哉の背中へ目掛けて突き飛ばす。
 ぶつかられた方も、ぶつかった方も驚きで目を見張るが、うろたえている希一の背におぶさるようあずみもまた突進していった。

「なんなんだお前はっ、希一大丈夫か?」

「寒ーいっ! 早く帰ってお雑煮を食べよう」

「あっちゃん、うちの希一が死にそうだから離してやって」

 けらけらと笑うあずみに優哉の怒声と困惑した弥彦の声が飛んだ。しかし暢気な彼女の笑い声を助長するように、どこかでのんびりとした鐘の音が響いた。
 太陽がてっぺんに昇り始めた空に背を押されるように、四つの影が並んだ――それは新しい年の始まり。

[冬の日/end]

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