03.知らなかった素顔
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 なにかを考えるように視線を動かした雪近は、しばらく黙り込んでいたが瞬きをしてゆっくりと口を開いた。そしてどこか淡々とした声を発する。

「そうですよね。こういう界隈って、すぐに噂が広がりますよね。でも男がいるのに手を出したんじゃなくて、向こうが黙っていたから揉めたんです。それにそういう相手は大悟さんと付き合う前に全部切りました」

 どこか義務的な声で言葉を吐き出し、煩わしそうに雪近は眉をひそめた。まっすぐに向けられる辰巳の視線に肩をすくめた雪近を見て、俺は思わず首を傾げてしまう。

「雪、お前。いままで付き合った相手はいないって言ってなかったか?」

 問いかけた声が思わず震える。なにか俺はいま聞き間違いをしたのだろうか。そう思いたいのに、こちらを向いた雪近の目に息が止まりそうになる。彼の目はいつものようにまっすぐで淀みがない。なにかを誤魔化すような色は欠片も見えなかった。

「俺は、いままで大悟さん以外、誰かと付き合ったことはないよ」

「待って、それって、それってさ。いままで関わった相手、全部遊びってことだろ? 雪は心にない相手でも平気なのか?」

 これは聞きたくなかった。知りたくなかった。雪近の裏側を見たような気分になって、いままで見ていたものが信じられなくなりそうになる。
 初めて雪近に会った時、彼はまだ高校生になったばかりだった。大学時代に家庭教師のバイトをしていて、受け持った生徒のうちの一人。ガキみたいな見た目の俺を見下すこともなく慕ってくれて、そんな雪近がすごく可愛くて、毎回家に通うのが楽しみで仕方がなかった。最初の頃はずっと弟みたいに思っていた。でも一緒にいる時間が増えるほどに、胸の中にある想いが恋へ変化し始めて。
 高校を卒業する前に連絡先を教えてもらった時には、もう舞い上がってしまうくらい、本当に好きになっていた。大学に入ってからも連絡は絶えなくて、俺の想いは募る一方で。
 だけど一体いつからそんな相手がいたんだろう。俺の知らないところで、知らない誰かと寝ていたってことだろう? それって俺の告白を保留にしていたあいだも?

「大悟さんと付き合えると思ってなかったから」

「それは答えになってない」

「金茶色の髪で、小柄で、色が白くて、ちょっと目元がきつい。似ている相手なら誰でもよかった」

 喉奥で息が詰まって、胸が苦しくなってじわりと涙がこみ上げそうになる。なんの迷いもなく吐き出された言葉はひどく冷たいと感じた。こんな雪近を俺は知らない。

「誰でもって」

「俺は大悟さんのことしか考えられなかった。だからどれも代わりにしかならないよ。幻滅した? 嫌いになった?」

「……き、嫌いになんて、なれるわけないだろ。俺が、お前をどれほど好きか、わかってんのか。わかっててそんなこと言うのかよ」

「俺は、大悟さんに言われるまでわからなかったよ。俺を好きになってくれるなんて、思いも寄らなかった」

 こっちのほうが泣きたい気分なのに、目の前にいる雪近のほうがひどく傷ついた顔をする。そんな顔を見せられたら、もう問いただして責めることもできない。でも責めてどうなるんだろうという気持ちにもなる。
 はっきりと言葉にされてはいないが、これは雪近もいまよりもっと前から俺のことが好きだった、ということじゃないのか。雪近の言う言葉が本当なら、だから俺に似た相手を選んで傍に置いていた。

「雪、後悔してる?」

「してる。してるよ。こんなことになるなら、早く好きだって言えばよかった。でも手に入るなんて思わなかったんだ」

 綺麗な黒い瞳にじわりと涙が浮かんだのがわかった。光を反射してキラキラと光るそれが、雪近の心みたいに綺麗だなと感じる。彼の葛藤は至極当然なものだ。異性愛者が当たり前な世の中で、同性への恋情が報われるなんて簡単に思えやしない。想いを告げたらそこで縁が切れてしまうこともある。
 怖かったんだ。きっとすごく怖くて、耐えきれなくなって現実から逃げ出したんだ。

「返事を遅らせたのは、相手と別れるため?」

「そうだよ」

「でもなんでそんなに時間がかかったんだ」

「別れるのは難しくなかった。みんな俺が本気じゃないって気づいてたから、すぐだったよ。でもほかの誰かを抱きしめた手で、簡単に大悟さんを抱きしめられない。そんな俺は、汚いでしょ」

 苦しげに歪んだ表情に雪近の想いが押し込められている気がする。きっと自分がしてしまったことに対する後悔と罪悪感で、押しつぶされそうな思いをしたのだろう。あの空白の時間の中で、もしかしたら俺と離れる答えも考えたのかもしれない。それでもそんな感情を乗り越えて雪近は俺の手を掴んでくれた。

「馬鹿だな。俺は、そんなことで雪を嫌いにならないし、離れていったりもしない」

「でも嫌だって、思ったでしょう? こんな俺のこと、嫌だって」

「……ああ、思ったよ。すごい嫌だって思った。ほかの誰かが俺よりも先にお前に触れたんだって思うと、ものすごく嫌だし、かなり悔しい。だけど、雪はちゃんと俺を選んでくれた。だからいまはそれだけでいい。お前のことを好きな俺の気持ち、侮るなよ」

「ごめん、ごめんなさい」

「謝るなよ。俺なんかより、お前のほうが辛い思いをしたな」

 こぼれ落ちそうな涙をこらえるその顔がいじらしくて、腕を伸ばして目いっぱい抱きしめた。なだめるように背中を叩いてやったら、あふれた雫がこぼれ落ちていく。嗚咽も漏らさず静かに泣く姿を見ると、胸が締め付けられる思いがする。いままでもこうして泣いてきたのだろうか。
 告白をした時、冷静そうな顔をしていたけど、いま考えると心の中は焦りばかりだったんじゃないかと思えた。本当に冷静だったら、時間を置かずに答えを出せていたような気がする。それからゆっくりと片をつけてもよかったはずだ。
 それができなかったのは後ろめたさ、後悔があったからだ。してきたことは決して褒められるものではないが、雪近のこの素直さには救われる。自分のしてきたことが間違いであることをちゃんと理解している。

「大悟、お前はすぐなんでもそうやって許しちまうの、よくないんじゃねぇの?」

 俺たちの様子をずっと傍で見ていた辰巳が、ふいに呆れたような顔してため息を吐き出した。その顔を横目に見ればひどくもの言いたげだ。でも言いたいことはなんとなくわかっている。

「雪は大丈夫だ。あいつらとは違う」

「お前ねぇ、大丈夫大丈夫って、付き合ってきたやつにいままで何回泣かされてきたんだよ」

「今度は絶対に大丈夫だ! 雪は浮気したりしない」

「そういうのはお前じゃなくて、本人が言うべきだろ」

 ワントーン下がったやけに真面目な声。しかしその言葉は正論過ぎて返す言葉が見つからなかった。ぐっと言葉を飲み込んだ俺に、辰巳は目を細める。

「大悟さん、なんの話?」

 目線が絡んだまま辰巳と二人黙り込んでしまったが、腕の中の雪近がもぞりと身じろぎをして顔を上げた。抱きしめた状態なので、顔はほんの数センチ先だ。それが思いのほか近くて、思わず身を引くように手を離してしまった。
 まっすぐにこちらを見つめる瞳に、変に胸が高鳴ってしまう。じわじわと熱が広がり、頬が熱くて仕方がない。

「あ、いや、昔の話」

「昔付き合ってた人がどうしたの?」

「んー、あー、えっと。お前に会う前の話だけど。付き合ったやつが二人いたんだ。それがなんていうか、二人ともちょっと浮気癖があって」

 高校の時に付き合っていた男と卒業後に付き合った男。二人とも面食いと辰巳に言われても否定ができないくらいの男前。見た目に惚れてしまった部分も大いにあったが、それでも結構俺たちの付き合いは上手くいっていた。
 ただ一年、二年と過ぎた頃に、相手が頻繁にほかの男と寝るようになった。俺自身あんまり束縛されたりするのは好きじゃなかったから、そのことに関してあまり強く言わずにいた。しかしそれが悪循環になり、最後にはどっちが遊びでどっちが本気なのかわからなくなる状態に。

「俺は何回も言ったよな? 浮気はされたほうに非があるんじゃなくて、するほうがクソなんだって。それなのに大悟がなあなあにして相手を許しちまうから駄目なんだ。そういうのがお前の優しさなんだろうが、相手のためにはならない。もちろんお前のためにもな」

 一度失敗しているのに二度も同じことを繰り返してしまい、いまみたいにかなり辰巳には怒られた。別れた時は俺のなにが悪かったんだろう、どうしたらよかったんだろうって愚痴って絡んで泣きついて。最後まで辰巳は投げ出さずに話を聞いてくれたが、お前の見る目がないだけだって突き刺さる一言をくれた。でも今回は、雪近は間違いじゃないって思っている。

「あのさ、雪は」

「俺は絶対に浮気なんてしない! 絶対にしないよ!」

 辰巳の視線から逃れてチラリと雪近を見れば、言葉を紡ぐ前に食い気味で返事をされた。その勢いに少し気圧されて俺は目を瞬かせてしまったが、目の前の真剣な顔を見たらなんだか笑わずにはいられなかった。

「なんで笑うの?」

「いや、なんか可愛いなぁって思って」

「いまそういう場面?」

「悪い、悪い。雪がそんな風に真剣な顔してくれるのが嬉しかったんだよ。ちょっとさ、知らないお前を見て気持ちがぐらつきそうになったんだけど、雪はやっぱり雪だなって思って。そしたらなんか安心して笑えてきた」

 大丈夫、きっと彼は大丈夫だ。俺の知らない雪近より、俺の知ってる雪近を信じたい。いつだって雪近はまっすぐで素直で、誤魔化したり嘘なんかついたりしない男だ。五年もずっと見てきた。俺は雪近以上の男なんていないと思う。

「俺は雪のこと信じてるよ。お前のことは誰よりも信じてる。お前が嘘をつく人間じゃないのは、よく理解してるつもりだ」

「大悟さん」

「あー、はいはい。わかったよ。もうお前の思うようにしろよ」

 思わず頬を染めて見つめ合ってしまった。しかしその甘い空気に耐えかねたのか、辰巳は両手を挙げて肩をすくめる。俺と雪近を見る目は呆れかえったそれだが、もう怒ってはいないようだ。なんだかんだと口うるさいけど、本当に根が優しくて気のいい男だと思う。店にたくさんの人が集まるのが頷ける。

「ただし、また泣かされたらお前の好きなそいつの顔、腫れ上がるくらい殴り飛ばしてやる。覚悟しておけよ」

「絶対そんなことさせない。今度は大丈夫だって確信がある」

「だから、お前が言っても駄目なんだよ」

「絶対にない! 俺はずっと大悟さんだけだ。初めて会った時から、俺のことをちゃんと見てくれた。俺の目線に立って俺のことを考えてくれた。そんな大人は大悟さんだけだった。してしまったことはなかったことにできないけど、俺はこの先二度と大悟さんを裏切らない」

 視線を向けた辰巳の顔をまっすぐに見据えて、雪近は力強く言い切った。芯の強い揺るがない瞳。凜々しい横顔を見ながら少し誇らしい気持ちになる。そして雪近の気持ちがずっと自分に向かっていたのを知って嬉しくなった。

「へぇ、そう。じゃあ、信じてやる。あ、今日は二人で俺に酒おごれよ」

「は? なんだよそれ!」

「迷惑料と相談料だ」

「……た、高い酒はやめろよ」

「どうするかなぁ」

 ニヤニヤと悪い笑みを浮かべて目を細める辰巳に、財布の中身が心配になった。おびえる俺にわざとらしく高い酒瓶を手に取りながら、どれがいい? なんて聞いてくる。その意地の悪さに冷や汗が出るが、いまも昔も世話になりっぱなしだと思えば、食費を削るのもやむを得ない気持ちになった。

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