04.初めてみたいな気持ち
結局店ではそこそこ高い酒を入れることになった。ほぼビールやチューハイくらいしか飲まない俺には無用の産物だ。おそらくそれは全部、辰巳が一人で飲むことになるだろう。でもまあ、毎回ビールをおごらされているし、それを一括払いしたと思えばそれほど痛手ではないと思える。なんにせよ辰巳にはずっと悩みも愚痴も聞いてもらっていた。これで少しは安心させてやれただろうか。
「雪、疲れてないか?」
「うん、俺は平気だよ。大悟さんこそ大丈夫?」
「平気、平気。もっと大騒ぎしたこともあるしな」
大酒飲みで全然酔わない辰巳と飲む時は、極力ペースを崩さないことが大事だ。最初の頃はそれがわからず潰されたことも多かったが、いまはもうだいぶ慣れた。それに今日は出来るだけ酒に酔いたくなかった。前を向く雪近の横顔を見つめて、そっと隣り合った手を掴んだ。
駅からマンションへと続く道。終電の時間ということもあって、人はほとんどすれ違うこともない。電柱の蛍光灯だけが頼りの道で、掴んだ手を強く握る。その手の感触に雪近は驚いたように振り向いたが、熱い頬を誤魔化すように俯いた俺に小さく笑った。
「大悟さんから繋いでくれるなんて珍しい」
「ようやく二人きりになれたから、そういう気分なんだ」
「あはは、そうだね。辰巳さん全然帰してくれないんだもんね」
「すぐ帰るって言ったのに。おかげで雪の誕生日迎えたの電車の中だった」
「大悟さんいきなり電車の中で大きな声上げるからびっくりしちゃったよ」
本当だったらもう家に帰り着いて二人でゆっくり誕生日を迎えるはずだった。それなのに日付が変わったのは電車の真っ只中。予定が狂いっぱなしですごく悔しい。けれど雪近はちっとも気にする素振りも見せずに笑っている。その顔を見ると少しほっとしてしまう。
「携帯電話にアラームかけてたから、それが震えて我に返った」
「俺はいまから大悟さんの家に行くほうが楽しみだから、あんまり気にしてないよ」
「物珍しいものはなんにもないけどな」
「大悟さんが毎日寝起きしている部屋って言うだけで充分」
「なんだそれ、ちょっとマニアックだな」
長い付き合いではあるけれど、俺も雪近もまだ家を行き来したことがない。いつも会うのは外だったから、自分の部屋に雪近を呼ぼうなんて思ったのも初めてだ。雪近も大学から近いところにマンションを借りて一人暮らしをしているが、いままで一度も行く機会はなかった。お互い決して遠くない距離感でいたはずだったから、ちょっとそれが不思議なくらいだ。
でもいきなり雪近の部屋になど行くことになったら、それはそれでかなりテンションがおかしなことになっていたかも。きっと落ち着かなくて挙動不審だっただろう。好きな人が寝起きする部屋、言われてみるとちょっと興奮する。
「どうぞ、入って」
駅から徒歩十五分くらい。閑静な住宅街の中にある三階建てのデザイナーズマンション。築年数はちょっと古いが一部屋にリビングダイニングもあってそこそこ広い。入った時はリフォームしたてでかなりお得な物件だった。安月給で払えるギリギリの家賃だが、もう六年は住んでいる。
玄関扉を開けると廊下の先にあるリビングがほのかに明るい。ブラインドの隙間から射し込む月明かりがウォールナットの床を照らしていた。
「なんかすごく落ち着いた雰囲気だね。家具が木目調で揃えてあっておしゃれだ。あ、このソファの色いいね」
「このくすんだイエローが気に入って、コツコツと貯金して買った。ちょっとずつ家具を揃えてようやく馴染んだんだ」
「へぇ、なんかいいなぁ。寝室とリビングを隔ててないし、背の高い家具がないからすっきりして広く見える」
リビングと続き間になっている寝室の戸は、引き込み戸になっているので遮るものがなく開放感がある。一人暮らしだから部屋を個別にして使うことはあまり想定しなかった。だからリビングダイニングも寝室も基本、戸は閉めることがない。
「一人暮らしでこの広さは贅沢だね」
「だろう? 気に入ってるんだ」
部屋の明かりを灯してブラインドカーテンを閉じると、月明かりや外灯の雑多な光がなくなり暖色の落ち着いた空間に変わる。部屋は少し昼間の熱気が残っていたが、つけたエアコンにひんやりと冷やされていく。
「適当に座ってていいぞ。なにか軽く食べるか?」
「んー、そんなにお腹は空いてない。大悟さん、飲むなら飲んでもいいよ」
「じゃあ、つまむくらいでいいか。そうだなぁ、一本だけ」
すぐ帰ると言ったのに散々付き合わされて、飲むばっかりだと酔うからとなんだかんだで口にした。本当なら家で二人だけの時間を過ごしてご飯とかも食べたかったのだが、まったく遠慮がない辰巳のせいですっかり時間が潰れてしまった。買ってきた缶ビールのうち三本を冷蔵庫にしまうと、一本だけ手にソファに座っている雪近の元へ向かう。
「大悟さん結構強いよね。今日結構飲んだのに、全然変わらないね」
「まあ、でもいつもより飲まされたな」
ローテーブルにナッツの袋を放り、缶のプルタブを片手で開ける。確かに今日は結構飲んだ。でもまだ多少余裕は残っているから、この一本で酔うことはないだろう。それにいまは酔っている場合じゃない。
こうして雪近が家にいるというのに、酔い潰れてはもったいない。せっかく二人っきりなんだから。開けた缶をテーブルに置くと、少し深呼吸するように息を吐く。
「……雪」
「なに?」
「キス、してもいいか?」
肩が触れるほどの距離。視線を向ければまっすぐに目が合う。じっとその目を見つめれば、それはやんわりと嬉しそうに細められた。光を含んだ黒い瞳に誘われるように手を伸ばして、頬を優しく撫でればゆっくりと唇が近づく。視線が数ミリ先で交わりそっと目を閉じた。
柔らかな感触とぬくもりにじわりと胸が熱くなる。ついばむように唇を食んで、甘い香りがする唇に口づけを繰り返しているうちに、吐息の熱が混ざり合った。すると心に火がついたみたいに、目の前のものすべてが欲しくなる。
両手で頬を包んで深く押し入るように口づけた。滑り込ませたものに舌を絡ませれば、雪近は小さく喘ぐように息を漏らす。縋るように伸びてきた手に背中を抱き込まれると、そのまま二人でソファへともつれ込んだ。
「んっ、ん……」
「雪、可愛い」
ほんのり上気した頬、潤んだ瞳。色香を放つ表情に見上げられて、ぞくりとした興奮を覚える。キスをするのは初めてではないが、こんな艶めいた表情を見るのは初めてだ。それだけで気持ちが高ぶってくる。もう一度口づけて、請うように開かれた隙間に忍び込む。唾液が滴るほどに柔らかい粘膜を舐れば、背中を握っている手に力がこもった。
時折甘い声が漏れ聞こえて、耳に心地いい。片手をなだらかな身体に這わせると、肩が小さく震えた。
「大悟さん」
「ん?」
「待って」
「あ、悪い。ちょっと調子に乗った」
シャツの隙間に手を入れたところで制止がかかる。けれど慌てて手を引いたら、口の端がゆるりと持ち上げられた。目を細めてこちらを見る雪近に思わず生唾を飲み込めば、身体を持ち上げて口先に口づけてくる。
「いいんだけど、するならシャワー借りてもいい?」
「え? あ、うん。もちろん」
「じゃあ、準備するから待ってて」
「ああ、っていうか。俺、確認しないで勝手に押し倒したけど」
身体を起こして向き合うと、じっと目の前の顔を見つめてしまう。その視線に雪近は小さく首を傾げて俺をまっすぐに見る。
「俺はどっちでも平気。大悟さんの好きなほうでいいよ」
「え? それって、どっちも経験あるってことか?」
「あー、うん。まあ」
問いかけに苦笑いを返されて、少し言葉に詰まってしまう。初めてがよかったとかそういう鬱陶しいことはこの際言わないが、でもちょっといままでの相手が気になった。雪近のルックスだからあまりネコのイメージがなかったし、彼を抱いた相手がいると思えば嫉妬したくなる。しかしそれを言い出したらきりがない。
「ごめんね」
「馬鹿! 謝るなよ。いいよ、もう過去は過去。俺も気にしないようにするから、気にすんな」
「うん、でも好きな人とするのは初めてだから、優しくしてね」
「お前なぁ、そういう可愛いこと言われると、にやける」
いたずらっ子のような目で見つめてくるその顔が死ぬほど可愛くて、いくら引き結ぼうとしても口が緩んで仕方ない。それをからかうように指先で唇を撫でられて、身体がじんと熱くなる。まっすぐな目に試されているような気になった。やわやわと唇に触れる指先を咥えると、それをしゃぶるように口に含んでしまう。
根元から舌で撫で上げれば、目の前の瞳に熱が宿る。指のあいだにも舌を這わせて、その目を揺らめかせた。
「大悟さん、やらしい」
「当たり前だろう。好きなやつ前にして興奮しないほうがおかしい」
「そういう雄くさいところ、いいね。好きだよ」
「雪、早く、触りたい」
細められた目がやけに色っぽくて、気持ちを煽られる。でも手を伸ばしたらすり抜けるように離れて行ってしまう。立ち上がった雪近を不満げに見上げてしまった。
「あんまり焦らされると風呂場に乱入するぞ」
「大悟さんのせっかち」
「早く行ってこいよ。待ってるから」
目の前にある手を引き寄せてそっと甲に口づけた。それでも足りなくて、舌で撫でたらぎゅっと手を握られる。チラリと視線を上げて様子を窺えば、切なそうに眉を寄せて顔を赤くしていた。なんだかその顔だけで胸がぎゅんと鷲掴まれて、もどかしいような堪らないような気持ちにさせられる。
本当ならいますぐに押し倒して、裸に剥いて襲いかかりたい気分だ。だけど身体だけじゃなくて心の準備も必要なのだろう。少し不安そうな顔をしている。
「雪、好きだよ」
「うん、俺も大悟さんが好き」
繋いだ手に込められた力の分だけ、愛おしさを込めて指先にキスをした。もう一度見上げたら、ひどく幸せそうな顔をして笑う。その顔を見るとますます触れたくなった。でも手を離してくるりと後ろを向けさせると、背中を両手で押した。
「廊下の手前の扉が脱衣所。タオルとか適当に使っていいから」
「うん、じゃあ、待っててね」
ゆっくりと歩いて行く後ろ姿を見つめて、その姿が見えなくなると両手で顔を覆う。やたらと顔が熱い。自分でも紅潮しているのがわかるくらいだ。
初めてでもないのにこの先の想像をして、心臓が馬鹿みたいに速くなる。ドクドクと響く心音がやけに耳について、余計に緊張してしまう。いっそ酔っ払って自分を誤魔化したくなるが、雪近に触れる初めてが曖昧になるのは嫌だと思い直した。
「やばい、初めての時でもこんなに緊張しなかった」
情けない自分に呆れる。だけどどれほど雪近が好きかを実感した。いままでの恋愛を全部帳消しにできてしまうくらい、好きで、大切にしたくて、この先もずっと傍にいたい。何度も同じ失敗してしまったが、もう繰り返さない。俺はまっすぐに雪近だけを好きでいる。気持ちが離れないようにしっかり捕まえてみせる。
好きな気持ちも、誰かを欲しいと思う気持ちも、なんだかすべてが初めてみたいな感覚がした。