なんとか駅に着く前に追いついて、一緒に改札を抜けた。そのまま逃げられたら、と思っていたのは杞憂だったようだ。
言わなくとも、黙って公園へ向かう電車に乗り込む。
二人並んで吊革を掴んでいると、窓の向こうに桜色の景色が見えた。通勤する時にも見えるはずなのに、いままで意識していなかったのが不思議だ。
「桜、見えるぞ」
「ですね。もう春なんだなぁ」
「これで十分じゃねぇ?」
「えっ? いやいや! 公園でのんびりお花見しましょうよ」
もうすでに帰りたいモードになっている。なんでこう、面倒臭がりなのかな。昔はデートとか、どうしていたんだろう。
大学の頃は切れ間なく、彼氏も彼女もいたみたいだし。
とはいえ仕事のほうを優先して、付き合いをやめた、とも言っていた。元より人に執着心がない人なのかも?
そんな人が、いまは自分に執着を見せている。
「なんなんだよ、お前は。さっきから」
「な、なにが?」
「にやにやして薄気味悪い」
「ああ、いや、その、……先輩が、可愛くて」
嫌そうな顔を向けられているのに、気づくと口元が緩む。ぼそりと小声で呟くと、ますます顔が厳めしくなった。
だがそれもまた可愛くてたまらない。
「お、怒った?」
ムッと顔をしかめて、睨み付けるような目をしてくる恋人。たぶんここが公共の場でなかったら、殴るか蹴るか、されている。
あまりこういうことを口にされるのが、好きではないのは知っていた。
だが嫌なのではなく、恥ずかしいのだと思う。
している時に何回も言うと、めちゃくちゃ感度が良くなるし。言うたび肌が紅く染まって、恥ずかしがる顔とか、ものすごいそそる。
「いっ!」
ますますにやついていたら、遠慮もなしに足を踏まれた。驚いて我に返れば、また背中を向けられている。
さらには開いたドアから、そそくさと降りて行ってしまった。
呆気にとられているうちに、発車のメロディが流れて、俺は慌てて電車から飛び出した。
いつの間にか、目的地に到着していたようだ。
「先輩、ごめん! もう変な妄想しないから」
「はっ? お前、電車の中でいかがわしいこと考えてたのか?」
「あっ、いや、そういうわけじゃない、……こともなくない」
「お前の頭の中のほうが春だな。この季節は変質者が増えるって」
「ひどい! 俺は恋人に正常な反応してるだけ!」
不審者を見るような目つきに、ショックを受ける。しかしそんな俺の反応に、重たいため息が吐き出された。
これってドン引きされているかも?
「ご、誤解を解きましょう」
「なにが誤解だ、変質者め」
「それが大きな誤解です!」
恋人に変質者扱いされるとか、ないよね?
いやでも、最近忙しくて少しばかりご無沙汰だし。昨日の晩にしたかったのに、帰ったらもう部屋に篭もっていて、声をかけられなかった。
「先輩、先輩! こ、今晩しましょう」
またもや遠ざかる背中を追いかけて、彼の腕を掴んだ。勢い任せで乱雑になってしまったが、ぎゅっと手に力を込めて、立ち止まらせる。
「先輩不足なんです。もうちょっと補給したい」
「……花見を、しにきたんだろ? 行くぞ」
「え、あ、はいっ」
返事はなかったけれど、罵られなかったってことは、期待していいのかな?
何年経っても彼の反応はわかりにくい。受け取り間違うと、機嫌を損ねるので、要注意だ。
「休日だから人が多いですね」
「だな」
公園の桜は八分咲き、と言ったところ。それでも花見客が多く、あちこちで賑やかな声が聞こえている。
ここはこのあたりでは一番大きな公園で、桜の名所だった。
小高い山の一部はほぼ桜。公園は花見をするために作られた、と言っても過言ではないだろう。
時刻は十六時を過ぎていて、昼間の客が引き、夜桜組に切り替わる頃合いだ。
立ち並ぶ屋台も、これからさらに賑わうだろう。ビールとおつまみを買って、のんびり公園を散策するのもいいかもしれない。
「綺麗ですね」
「去年、桜なんて見たか?」
「うーん、こんな風に見た記憶はないですね。やっぱり電車の窓からくらい?」
「俺はその記憶すらない」
「年度が替わる頃は、どこも忙しいですからね」
この人は普段から忙しい会社にいるから、なおのこと。
桜を見上げる横顔を見ながら、ふと思い浮かぶ。どうせいつものことだから、と連れ出してしまったけれど。
今日は本当に忙しくて、仕事が詰まっていて、花見どころではなかったとか。昨日も、もしかしたら遅くまで仕事をしていた、可能性もある。
少し考えなしだっただろうか。先輩は不満をあまり口にしない。連れ回した挙げ句、えっちしたいとか、負担をかけているかな。
「おい」
「……」
「おい、瑛冶!」
「えっ、痛いっ」
「なにぼさっとしてんだよ」
急に頬を引っ張られて、さらには指先でつねられた。それはよくあることだから驚かない、けど。
そんなに顔を寄せられると、ドキドキしてしまうんですが。
本人はまったく、意識がないよね。長いまつげの数を数えられそう。
「あの、広海先輩っ」
「なんだよ」
「き、きす、したい」
「は? 馬鹿だろう、お前」
思わずすがるみたいに両肩を掴んだら、凄みのある目で睨まれた。少しばかり怖いが、目の前においしそうな唇があるのに、据え膳できない。
「馬鹿でもいいからしたい」
「ほんと馬鹿」
「俺、これでも我慢してるんですよ」
「いつも言ってるけど、時と場所を考えろよな。それなら花見しなくても良かっただろう」
「うー、花見もしたかったんです。広海先輩と一緒にいたかったんです」
「はあっ、子供かよ。……こっち来い」
盛大なため息を吐き出されて、萎れた気持ちになる。それでも呆れた顔を見せる彼が、俺の手を強く握った。
和やかに人が行き交う中で、手を引かれるままに歩く。
こういう背中は男らしい。
いや、普段から存分に男らしい。ただなんというか、いまは男気に溢れているというのか。
胸が変にドキドキとする。
桜から遠ざかり、ひと気のなくなった場所に連れ込まれて、彼が振り向く前に抱き寄せてしまった。
「気が早い男だな」
「キスしていい?」
こちらを振り仰ぐ黒い瞳に、吸い込まれそうになる。惹き寄せられるままに顔を寄せれば、数度瞬いた瞳が閉じられた。
返事を待たずに唇に触れたが、伸ばされた手に、抱き寄せられたことが答えだろう。
「先輩の唇、ほんと柔らかい」
「……んっ」
唇でついばむように触れて、感触を味わうみたいに舌先で撫でる。
まつげが震えて頬をくすぐられる、それだけで胸が高鳴った。口の中へ侵入すると、身をよじられたので、逃がすまいと近くの木に追い詰める。
「おい、……馬鹿、盛るな」
「キス、これで終わりじゃないですよね?」
「こら離せ、興奮しすぎ」
時と場所――は考えている余裕がない。
花見はあとでゆっくりできるが、いま目の前にいる広海先輩は、この瞬間だけだ。
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