朝、目を覚ましてリビングへ行くと、珈琲の香りが部屋に広がっている。そしてフライパンで油が跳ねる音がして、ベーコンの焦げたいい匂いが漂ってくる。それはほぼ毎日欠かすことがない。ゆっくりと視線をキッチンへ流してみれば、やたらとまっすぐとした広い背中が見えた。
その背中を見ると不思議とホッした気分になる。それがなぜなのか、いまだによくわからないが。なぜか安心してしまう。
「あ、広海先輩おはよう」
「おう」
「朝ご飯もうできるよ」
振り返った顔は相変わらず凡庸としてさして冴えたところもない。それでもやんわりとその顔が笑みを浮かべれば、可愛いやつだと思える。最近の俺はどこかおかしいのだろうか。そんな馬鹿げた考えまで浮かんでくる。それでも悪くないと思っているのだから、始末に負えない。呆れてため息が出てしまった。
「昨日特売でベーコン安かったから、今日はいつもより分厚いよ」
暢気に鼻歌を歌っている男の横顔をぼんやりと眺めながら、キッチンの前に据えられたダイニングテーブルで椅子を引いた。すると見計らったように目の前に皿が並べられていく。
分厚いベーコンとふわふわした柔らかそうなオムレツ。きつね色にこんがり焼かれたトーストと珈琲。毎朝の定番だが、たまにベーコンエッグだったり、スクランブルエッグだったりする。
「先輩? のんびりしてると遅くなっちゃいますよ?」
「ああ、うん」
「もしかして、昨日無理させちゃいました?」
「……黙れ、朝っぱらからうるせぇ」
「あはは、ごめんなさい」
本当に反省しているのかわからない顔で笑いながら、目の前の椅子に腰かける男は小さく首を傾げて俺を見つめた。そしてまたやんわりと笑みを浮かべる。眩しそうに目を細めて、ひどく幸せそうな顔で。
「あ、そうだ。先輩、土曜日は休みですか?」
「あー、確か」
「ほんと? じゃあ、一緒に買い物に行きましょう。俺も休みなんです。このあいだ冬物のカーディガン欲しいって言ってたでしょう?」
「んー、そうだな」
曖昧に相づちを打つ俺の反応など気にも留めていないのか、やたらとウキウキした調子であれこれと話し出す。普段の俺だったらうるさくて言葉を遮るところだが、この話し声にはもうだいぶ慣れた。いまさら口を封じるほど耳障りでもない。
「広海先輩!」
「あ?」
黙々と目の前の朝飯を食っていると、急に大きな声で名前を呼ばれる。それに驚いて顔を上げれば、まっすぐな視線と目が合った。話半分だったのを悟られていたようだ。ほんの少し困ったように笑い、それでもじっと俺の目をのぞき込んで来る。
「今晩はなに食べたいです? 今日は遅番だから、晩ご飯作っておきます」
「……グラタン」
「あ、そういえば最近ご無沙汰だったね。じゃあ、オーブンで焼けばいいだけにしておきますね。あとスープかなにか作っておくから一緒に食べて」
「わかった」
まっすぐすぎる視線が気恥ずかしくなって、つい目線を落としてしまう。誤魔化すように掴んだトーストを口に頬ばる。ザクザクと咀嚼して珈琲で流し込んで、それでもまだ視線を感じて顔が上げられなくなった。
「先輩!」
「なんだよ」
俯いている俺にまた大きな声を上げる。その声に渋々顔を持ち上げれば、至極楽しげに笑っている顔があった。その顔を訝しみながら窺うように目を細めると、ふわっと花が開くみたいな満面の笑みを浮かべる。
「広海先輩、今日も可愛いね」
「はっ?」
「その苛ついた顔もずっと見てると愛着が湧くよね」
「お前は俺を馬鹿にしてんのか」
「してないですよ。どんな先輩も愛してるってことです」
睨み付けても素知らぬ顔で笑う。この男、日に日に図太くなっているんじゃないか。
「今日も明日も明後日も、ずっとずっと好きですよ」
「朝っぱらから糖度が高ぇよ、馬鹿が」
「先輩が言えない分、俺がたくさん言わないと。ね、だから……好き、大好き、愛してる」
「うるせぇ、黙れ瑛冶!」
こんな甘ったるい空気に胸焼けしそうになるのに、満足げな顔を見てしまうとそれ以上の言葉がなくなる。角砂糖があふれそうな瓶に、いつの間にかまるごと漬け込まれたような気分だ。染み込んだ甘さはきっと瓶から掬い上げてもきっと抜けはしないだろう。
それでもこの日常が悪くないと思うのだから、もう世も末だ。
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