胸元に寄せて、両手で抱きかかえたまま、黙ってこちらを見つめてくる寡黙な人に歩み寄る。
そして目の前にまで行くと、僕は窺うように見上げてから、手の中でジタバタするその子を差し向けた。
ちっちゃな声でみっと、鳴く子猫に視線を落とした彼は、なにも言わずにじっと見つめている。
「あ、あのね、里親を探してるんだって。この子、アパートで飼ってもいい? 可愛いでしょ? 僕みたいに真っ黒だよね。だから、あの、新しい黒猫、欲しくないですか?」
「……猫が猫を飼うのか」
「え! んー、僕の兄弟みたいでしょ?」
三毛猫の子供たちはサバトラ、茶白、キジトラ、そして僕がいま抱いている真っ黒けな黒猫。
一目見た時から、ほかの子より身体が小さめのその子が僕みたいだな、なんて思った。
誰よりもみーみー鳴いて、自己主張が強くて、誰よりも寂しがり屋で、ずっと誰かの傍にいる。
「まだもう少しお母さん猫と一緒にいさせるから、迎えるの来週くらいだけど。お世話ちゃんとするよ! 美代子さんは、いいって」
「ばあさんがいいって言うなら、いいんだろう」
「で、でも! あのアパートに住んでるの僕たちだけだし、紺野さんに迷惑だったら困るし」
「……好きにしろ」
素っ気ない物言いで、ぽつりと呟いた言葉に僕は目を輝かせる。やっぱりなんだかんだ言っても、この人は優しいのだ。
僕のお願い事はいつも、最後の最後には聞いてくれる。
居候の僕が、穀潰しになっていることを気に病んで、なにかできることはないかとお伺い立てた時も。
美代子さんの提案したことに、あれこれ言いながら、最後にはこの言葉を呟いた。
ぶっきらぼうで、端から見れば丸投げするような言葉に聞こえるけれど、これはたぶん不器用な彼の、最大限の優しい言葉なんだと思う。
「ねぇねぇ! じゃあ、名前なににする? なにがいいかなぁ。可愛い名前」
「……クロだな」
「え? くろ? クロって名前? えー、単純っ」
ぽつんと呟いた彼の言葉に、僕はなんて安易な名前だろうと思ったが、真っ黒けな毛玉を抱き寄せて、そっと頬に寄せる。
相変わらずみっみっと鳴きながらも、その子は僕の顔をぺしぺしと触ってきた。
小さいけれど温かいぬくもり、一生懸命に生きるその命の輝きがとっても愛おしく思えた。
君はきっと僕がここにいる証しになるよ。
「お前の名前はクロだって、よろしくね、クロ」
呼びかけた名前を、認識したわけではないのだろうけれど、クロは可愛らしい声でみぃーと鳴いた。
そして僕の鼻先をペロッと舐める。くすぐったいその感触に、思わず笑ってしまった。
「あ! 紺野さん待って! 僕も帰るよ!」
ふいに来た道を帰ろうとする、彼を引き止めるために声を上げる。けれど僕の声で立ち止まったことは、一度もない。
慌ただしくクロを有希さんに預けて、礼を伝えると、挨拶を済ませて僕もアパートへの道を駆け出す。
夏の雨空は、いつの間にか通り過ぎていて、雲間に青空が戻ってきていた。
雨上がりの空気はちょっと湿っぽくて、じんわりと汗が滲む。けれど全力で走った僕は、なんとかいつもの背中に追いついた。
そして彼の隣に並んで今日も暑いね、なんて言いながら歩く。ふと空を見上げたら大きな虹の橋が見えて、その先を指さして僕ははしゃぐ。
けれどそこに、ほんの少しだけ視線を向けただけで、隣の彼はまた前を向いた。
「紺野さん、心配かけてごめんね」
「別に」
「原稿終わった? 昼間に園田さんに会ったよ。でも心配しているようでしていない顔をしてた気がする。長い付き合いだからこそかな」
仕事だからやって来たけれど、でも大丈夫だろうってどこか確信があるような顔だった。
なんだかそういう関係も素敵だなって思って、僕もそんな風になれるくらい、この人の傍にいられるだろうかって思った。
「……紺野さん、僕を心配して飛び出してきてくれたんでしょ? 有希さんが言ってた。僕に連絡がつかなくなったって聞いて、雨降りの中、傘も差さずにびしょ濡れで店に飛び込んできたって、さっきみたいに。僕、嬉しかったよ。心配かけちゃったけど、嬉しかったよ」
横顔を見つめるけれど、いつもと変わらない素っ気ない顔。眉を動かすでも、唇を動かすでもない。
ただまっすぐに前を向いている。だけど少しだけ耳が赤い気がする。だから僕はぴったりと横にくっついて、そっと隣にある手を握った。
包帯を巻かれた僕の手に、触れた彼の手はほんのちょっとだけ震えた。でもぎゅっと握ったら、握り返しはしないけど振り払いもしない。
手のひらは、じんじんとした痛みがあるけれど、彼の体温が感じられて、なんだかすごく胸がときめいた。
「今度お休みの日に、クロのお迎えの準備しなくちゃ。紺野さんも買い物手伝ってね。あ、今度花火しようよ。夏っぽいことしよう」
あれこれと騒がしい僕の隣で、黙々と歩く彼は一瞬だけ笑ったように見えた。
光の加減?
そんなことも思ったが、基本ポジティブ思考な僕は、いい気分になってますます声を弾ませた。
どうしてこんなに、彼の傍にいるのが楽しいのだろう、嬉しいのだろう。初めて会った時から胸に湧いた気持ち。
その答えはよくわからないけれど、わかっていることは一つだけある。
この無口で不器用な優しさを持った、紺野文昭さんが大好きだからだ。
「今夜の晩ご飯なんだろう」
「しょうが焼き」
「え! しょうが焼き? やったぁ!」
道の先に見えてきたのは、築六十年の年季の入ったボロアパート。いまここに住んでいるのは、大家のおばあちゃんと、僕と大好きな紺野さん、三人だけ。
でもこれからは三人と一匹だ。
このなにげない日常、それがあるだけで僕は幸せだって思うんだ。
新しい黒猫いりませんか?/end
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます