藍色は愛の色

 それは僕が鈴凪荘に転がり込んで、しばらくした頃の初めてのイベントだった。

 町の商店街でも、あちこちでそのイベント企画を、目にしたのを覚えている。
 赤やピンクの色合いにハートマーク。ポップで可愛いものが目についた。

 キョロキョロしていたら、大家のおばあちゃん――美代子さんが、なにか欲しいものあるの? ってやんわり目を細めた。
 けれどその頃の僕は完全なる居候で、収入ゼロの穀潰し。それが欲しいと思っても、そうとは言えない状況だ。

 そうしたら美代子さんは、なにかを悟ったようにまた笑って「ミハネちゃん、八百屋さんへ行って重たいお野菜を持ってくれたらお駄賃あげるわ」と言った。

 そしてその日から、小さな子供みたいだけれど、お買物してくれたら百円、ご飯を作ってくれたら二百円。
 お手伝いするたびにお小遣いをもらうようになった。おかげでそれをコツコツ貯めて、作ってもらった小さながま口に、僕のお金が増えたのだ。

「ミハネちゃん、手伝わなくて大丈夫?」

「大丈夫! 寧々子さんのレシピ完璧だから、意外と難しくない。もう遅いから美代子さんは先に寝てていいよ」

 イベント前夜、タイミングよく紺野さんは、仕事の締め切り前でお篭もり中。
 隣の自室でやると、匂いが漂いそうだったので、美代子さんの部屋でチョコレートと格闘している。

 けれど八百屋の奥さんのレシピは、初心者にもわかりやすく、失敗せずに形になってきた。
 チョコスポンジを使ったロリポップ。ダークチョコレートでコーティングして、最後にチョコスプレーで彩れば完成!

 冷蔵庫で冷やしているあいだに、台所を片付けて紺野さんのお夜食を用意する。今日はお茶漬けが食べたいって言ってた。
 鮭フレークとわさび、だしと旨味調味料。お塩と塩麹を混ぜてお茶漬けの素の出来上がり。今日は玄米茶にしよう。

「やっぱり二月は寒いな」

 お夜食にロリポップを添えて、アパートの二階、紺野さんの元へ。
 深夜の時間帯で外はかなりキンと冷えている。首をすぼめながら階段を上ってノックはせずに部屋の扉を開く。
 仕事中だからそっとトレイをふすまの前に――。

「あっ!」

 置いて去ろうとしたら、突然ふすまが開いて飛び上がってしまった。そして無言で僕を見下ろす紺野さん。
 さらに視線が下りて、トレイに目が向いた。じっと見つめる彼は相変わらず、うんともすんとも言わない。

「ハッ、ハッピーバレンタイン!」

 とっさに出た声は静かな中でよく響いた。普段は能面みたいな彼だけれど、一瞬だけ驚いた表情を見せた。これじゃあ、愛を伝えるよりも驚かす番組みたいだ。

 バレンタイン当日、夕ご飯の支度をしていると、紺野さんの仕事を管理している園田さんがやって来た。
 いつものように穏やかな笑みを浮かべて、美代子さんに挨拶をしている。そして僕も今朝もらったけれど、お手製のチョコを渡されていた。

 しかし彼の手には、紙袋がいくつもある。中身がはみ出したそれは、ラッピングボックスではないだろうか。それってもしかしなくても――。

「文昭宛の、ファンからのチョコレートです」

 にっこりと笑った園田さんの言葉に、打ちのめされた気分になる。どう見ても、ブランドものっぽい包みばかりだ。
 僕の小学生でも作れそうな、素朴なチョコとは比べようもない。いや、気持ちがこもっていれば、いいはずなんだけど。

「紺野さんって、顔出ししてるんですか?」

「していないんですけどね。想像力のある女性読者が多いようですよ。わりと崇高な存在になっているみたいです」

「ふぅん、こんなにたくさんいいところのチョコばっかり。これと比べたら僕からのチョコなんて霞だね」

「え? もしかしてミハネくんが、バレンタインチョコを作ったんですか? それなら文昭は大喜びだったでしょう」

 大喜び? どこが? どの辺が? 朝に夜食のトレイを下げた時には、添えていたロリポップはなくなっていたけれど。
 紺野さんの態度は、いつもとなんら変わらなかった。

 わりと素は、砕けた人だというのはわかっているが、あの人は基本的に喜怒哀楽が薄いのだ。
 わかりやすいのは苛々している時くらい。でもいきなり紺野さんが感情表現ありありだったら、それはそれで怖いかも。

 それにしてもあんなにいっぱい、どうするのだろう。そんなことは僕が考えても仕方ないのだけど。

「ミハネちゃん、そろそろ呼んできて」

「はーい」

 園田さんが大荷物を置いて帰っていったあと、なんとなく顔を合わせたくない気分になっていた。
 それでも夕飯の支度が出来たので、お役目を果たさなくては。

 階段を駆け上がって、今度はノックしてから扉を開ける。すると予想外に、目の前に人の気配を感じた。
 驚いて肩を跳ね上げると、外灯の明かりに照らされた顔が見える。相変わらずの無反応――だけど、なにやら右手を差し出された。

「これは? えっ? もしかして頂き物を流用とか?」

 見覚えのある紙袋は、園田さんが持っていたものの一つ、ではないか。チョコを渡そうという気持ちは嬉しいが、これは複雑だ。
 しかし黙って差し出されるので仕方なく受け取る。

 けれど中をのぞくと、小さなラッピングボックスに、メッセージカード。
 MIHANEと藍色の文字で綴られていた。

 慌てて中身を取り出して、蓋を開くと黒猫と天使の羽根、深い群青色のチョコレートがあった。

 黒猫――僕と、紺野さんと僕を繋ぐ名前の由来でもある羽根。それと紺野さんの青色だ。
 弾かれるように顔を上げたら、しばらく僕の顔をじっと見つめて、なにも言わずに頭を撫でて歩いて行った。

 けれどその背中が見えなくなっても、にやけた顔は元に戻らなかった。

藍色は愛の色/end

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