今夜はクレイジー・ナイト01
常々イベントというものは面倒くさいと思うのだが、背に腹はかえられないという言葉がある。そう俺は貧乏学生なので、時給アップという言葉に弱い。十円単位だってありがたいと思うくらいだ。
そこを百円、五百円と跳ね上がり、日給一万円超えだなんてことになったら、ない尻尾を振るしかない。人間として失っちゃいけない部分はあるものの、まあなんとかなるだろうという打算がある。
いや、もうだいぶ、何回も、身の危険を感じたりもしているのだが、喉元過ぎればなんとやらだ。
これから対峙する相手は子供、小学生、自分より力の弱い生き物だ。いざとなったら振り切れ――るんだろうか。
しばらく悶々としてしまったが、ため息をつきながら顔を上げる。近隣にある家よりも明らかに大きな佇まい。邸宅と言ったほうがしっくりくるような、立派な家の門扉の前で立ち止まって十数分。
伸ばした指でインターフォンを押すか押すまいか悩んでいる。このまま帰るという選択肢もあるのだが、日給一万五千円! 時給換算三千円。
棒に振るわけにはいかない。もう一つため息をついてから、仕方なしに指先でぽちりと押した。
しばらく待つと、インターフォンのマイクがオンになったのか、ブツッと言う音と共に雑音がして、そのあとに穏やかな女性の声が聞こえる。
「はい」
「ピザデイリーの五十嵐です」
「ああ、お待ちしておりました。どうぞお入りください」
いつもこうして迎えてくれる、この家のお手伝いさんはすごくいい人なんだけれど、主人がな、と気持ちが重たくなりながらも門扉を開けて玄関へと向かう。
しかし足が重くて一歩進んで二歩下がる、をリアルでしてしまった。
けれどそんなことをしているあいだに、玄関扉が勢いよく開く。ぶつかる寸前で身を引いたが、家の中から飛び出してきた人物に捕獲された。手に持っていたピザの保温袋をとっさに頭の上へ持ち上げる。
「柚人さん! トリックオアトリート!」
「あー、どうも」
「なかなか来ないからすごく心配しましたよ」
ウキウキとした明るい声を上げるのは、顔立ちの整った少年。コウモリ羽のついた濃紺色のケープとミニハット。
装飾のこだわった衣装に、細い脚が惜しげもなくさらされたハーフパンツと言った出で立ち。瞳をキラキラとさせながら彼は俺の腰に腕を巻き付けている。
「あ、見てください。すごいでしょう? 津川さんに牙を付けてもらいました」
見るからに喜び溢れる表情に、長い牙が見えてちょっと怖くなった。噛みつかれたら絶対痛い。それ噛みつく気満々でしょ。あーんと口を開いて見せる仕草は可愛いけれど、可愛い分だけ恐ろしい。
彼はこの家に住んでいる南条寺拓実くん、小学五年生。
去年のクリスマスイブに初めて配達に来てから、毎回指名されている。まあ、それ自体は普段からないことではないのだが、彼に至っては俺の時間外を金に物言わせて買うという荒技に出る。
彼の気が向いた時プラス、イベントごとがあると、ピザの配達を理由にこうして呼ばれるのだ。
これまで正月、バレンタインデー、ホワイトデー、花見、こどもの日、夏祭り、そして今日はハロウィンと、数々のイベントをこの少年に費やした。
「入ってください」
抱きつく拓実が離れると、腕を取られて家の中へと導かれる。玄関に入れば、にこやかな笑みを浮かべたお手伝いの津川さんに迎えられた。
手に持ったピザをどうしようかと思っていたら、さっと小さな白い手が伸びてそれを受け取ってくれる。
「うわ、すごっ」
さらに手を引かれてリビングに行くと、壁や天井、窓に至るまでハロウィンの飾り付けがなされていた。クリスマスの時も大層な飾り付けで、もみの木は天井に着きそうなほどだった
。今回は手製とみられる、ジャックランタンが部屋のあちこちに鎮座している。
これらはいつも、この家の使用人一同の力作なのだそうだ。この仕上がりに満足がいったのか、にこにこと笑みを浮かべている田中さんがいた。
穏やかな津川さんと雰囲気がよく似ている彼はこの家の執事だ。
そのほかにお抱えの料理人までいる。そんな家になぜピザ? と思うのだが、たまにはジャンクなものが食べたくなるのも人間か。
「柚人さん、ワインとシャンパンはどっちがいいですか?」
「あ、いや、バイクなんで」
「え? 泊まっていきますよね?」
「……はい?」
ソファにちまっと座った拓実は、曇りない瞳で見つめてくる。小さく首を傾げたその姿は天使かと――いまはドラキュラだけど、そう思えるくらい可愛いが、不穏な言葉を吐いた。
あれ? 日給がいつもよりいいのはお泊まり込みですか?
いつもなら二十二時頃には帰してくれるのだが、これはクリスマスの再来か。
初めて配達に来たその日に、俺を気に入ったという拓実は、翌日にピザではなく俺をデリバリーさせた。うちの店長を買収して。
それだけならばまだ良かったのだけれど、飲んだジュースに一服盛られました。
その日のことを思い出して戦々恐々となるが、田中さんが持ってきたのはまだ封の開いていないボトルだった。
「五十嵐さんはどんなものがお好きですか? こちらのシャンパンはとてもフルーティーで飲みやすいですよ。ああ、ピザには辛口のワインも合います。ロゼと白を用意していますがどれが良いでしょう」
「えーっと、じゃあロゼで」
テーブルに並べられたボトルはどれも高そうで、どれを飲んでも貧乏人の俺はおいしいと思うこと間違いなしだ。あまり馴染みのないものを選んだが、グラスに注がれるそれに背筋が伸びる思いがする
。
そうこうしているうちに、大皿に移したピザがやってきた。それに添えられたのはシーザーサラダと小さなフルーツタルト。促されるままに拓実の隣に座ると皿が並べられた。
「いただきまーす」
「拓実くんは、ピザ好きなんすか?」
「はい、好きです。普段食べない味なので、たまに無性に食べたくなります」
伸びたチーズをちょいちょいと、田中さんにまとめてもらいながら、拓実はあーんとピザにかぶりつく。牙を付けているのでちょっと食べにくそうにしているが、いつものように美味そうに食べている。
「柚人さんは好きですか?」
「まあ、嫌いじゃないっすよ」
「さすがピザ屋さんですね」
「いや、それはあんまり関係ないと思います」
こうして見ると素直ないい子なんだけどな。たまに変なスイッチが入って、とんでもないことをしでかすんだけれど、それがなければ人畜無害な顔をしている。
今日はなにごともなく、穏便に過ぎますようにと祈るばかりだ。
「そういえば拓実くんはいつも一人だけど」
「お父様とお母様は海外にいるんです」
「え? なんで一人暮らし? って、聞いちゃ駄目なところっすね」
「僕には弟がいるんですけど、実はいまのお母様と僕は血が繋がっていなくて」
しまった、なんかヘビーなところに片脚を突っ込んだぞ。これは聞かないほうがいい話題じゃないのか。
継母と仲が悪くて一人で日本に残ったとかそういうやつ? それにしたって小学生の子供を残していくってどうなんだろう。
「柚人さん、どうかしましたか?」
「いや、色々苦労も多いんだなと思って」
「大丈夫です。いつも皆さんがいてくれるので」
にこりと微笑んだその笑顔が健気に思えてくる。ちょっとくらいの我がままは仕方ないよな。
寂しさを埋めるためとか、そういうのあったりするし。そう思えばちょっとくらい――いや、ちょっとじゃないな。
いかんいかん、ほだされるところだった。
この子は人に一服盛った挙げ句に、監禁拘束したからね。天使どころか悪魔だから。それを忘れるところだった。
俺も金に目が眩んで、こうして何回も来るのが悪いのだろう。それはわかっているのだが、大学に通うのも金がかかるし、生活するにも金が必要だ。
もうちょっとわりのいいバイトを、とも思うけれど、残念ながら頭も悪いし器用でもない。
「僕よりも柚人さんのほうが、色々苦労していそうですよね」
「別に辛いわけじゃないっすよ。そこまでしなくてもいいんすけどね」
なんだ、やばい、そんなに飲んでないのにウトウトしてきた。重たいまぶたが勝手に下りようとする。
何度も目を瞬かせるけれど、どんどんと抗えなくなってきた。
そんな俺をのぞき込む拓実は、その様子をじっと見ていたが、ふいに後ろを振り返りにんまり笑った。
ちょっと待て、おい。いま田中さんとアイコンタクトしただろ!