仕事が一段落して忙しさから解放されると、人と言うものは気が緩みがちだ。もう頭の中は適当にいい相手を見繕って一晩楽しむことばかり考えている。
常日頃そんなことばかりを思っているわけではないが、大仕事のあとはより一層自由になりたいものだ。しかしそれが顔に出ていたのか、同僚たちにはだらしない顔だと笑われた。
だがもう気分は上々だ。ちょっとくらいの揶揄は気にならない。
「九竜、お疲れさん」
「今回は骨が折れる案件だったな」
「お前が最後仕上げてくれたおかげで助かったよ。あとはもう思う存分遊んで来い」
「言われなくても」
にっかりと笑った上司の野上は気さくな男だ。仕事さえしっかりとしていれば、プライベートがいかに爛れていても気にしない。俺のようにルーズな性癖でも気にすることなく受け流してくれる。
今日は男か、女か? なんて冗談まで飛び出すくらいだ。
「九竜は一つのところに留まるのが本当に駄目だな」
「他人に自分を制約されるのが苦手なんだよ」
「一生野良か? もう三十過ぎただろう」
「四十過ぎたあんたに言われたくない。俺は生涯一人でいい」
「俺はマイハニーがいるからいいんだよ。けどお前みたいな色男は放っておかないやつらが多いだろうにな。顔がいい、背も高くて見た目がいい、性格も割と紳士的だ。でもまあ、人もそれぞれだからな」
しみじみと語る野上に肩をすくめてみせると、苦笑いを浮かべて手を上げた。ひらひらと振られるその手はもういいぞ、という言葉の代わりなのだろう。
おそらく同僚たちはこれから打ち上げと称した飲みに出掛けるはずだ。これはそこに巻き込まれないうちに帰れと言うありがたい配慮と言ったところ。
その意を汲み取って、俺もひらひらと後ろ手に手を振ってその場をあとにした。
会社を出ると時刻は二十一時を回っていた。大仕事のあとの割に今日は随分と早い上がりだが、夕陽を落とした空はすでに夜空に変わっている。けれど夜の街は煌々とした外灯に照らされていまだ明るい。
これから帰路につくものも多いが、俺にとってはまだまだ時間はこれからだ。平日の夜でも深夜まで飲んだくれることもある。
しかし場所を移動して、馴染みの通りを今日はどこへ行こうか思案しながら歩いていると、言い争うような声が聞こえた。酔っ払いの多い飲み屋街で人の争う声が聞こえるのが珍しいことではないが、耳を澄ませてみればふいに大きな音が響く。
物をなぎ倒したような音が立て続けに聞こえ、そのあとに罵声まで聞こえてくる。それに誘われるままに視線を流すと、通り過ぎた路地から人が飛び出してきた。その人はろくに前を見ていないのか、鞄を両腕で抱きしめながらこちらへ突進してくる。
そして肩に思いきりよくぶつかった。そこでようやく俺が立っていることに気づいたのか、その人は顔を跳ね上げる。
「す、すみません」
「いや、大丈夫か?」
ひどく青ざめたその顔は俺を見上げて唇を震わせた。怯えるような瞳に思わず声をかけたが、また後ろから声が響いて意識が離れる。するとぶつかってきた人物は肩をびくつかせてまた走り出した。
「待ちやがれこの野郎!」
呆気にとられて後ろ姿を見送ると同時か、路地から男が飛び出してくる。乱れたシャツに、ズボンを緩めたその格好と、赤く腫れた頬。それを見れば先ほどの怯え具合でなにが起きたのかはすぐにわかった。
「……警察でも呼ぶか?」
男に目を細めれば、ぐっと言葉を飲み込んで苦々しい顔をする。その顔に肩をすくめると、俺は先ほど走り去った後ろ姿を追いかけた。
勢いよく走り去っていったので探すのが難しいかと思ったが、百メートルも進まないうちに道の端でうずくまっているのを見つける。
「大丈夫か?」
暗がりでうずくまる肩を掴むと、それは大げさなほど大きく跳ね上がった。しかし振り向いた顔が俺を認めると、少しホッとしたように息をつく。
「すみません、大丈夫です」
「あまり大丈夫そうには見えないが」
まだ震えている肩とぎこちない笑みに苦笑いが浮かぶ。いまにも手折れてしまいそうな儚さがあるのに随分と気丈だ。
一瞬見た時は女だろうかと思ったが、返事をした声はそれほど低くはないが確かに男のもの。しかし目の前にある顔は、そこいらの女では到底敵わないだろう美しさがあった。
こちらを見上げる茶色い瞳は長まつげに縁取られ、震える唇はぽってりと肉厚で色気が滲む。肌は白磁のように滑らかな白さがあり、それと相まって整った顔はまるでビスクドールのようだ。
けれど涙を浮かべる潤んだ瞳が作り物ではないのだと教える。
「車に乗れる場所まで送ろう」
「え? あの」
「その格好じゃ目立つだろ」
細い肩に着ていたジャケットを掛けてやると、瞳を瞬かせて戸惑った表情を浮かべた。けれど両腕に抱き込んだ鞄の向こうに見える肌はあまりにも艶っぽい。またよからぬ気を起こすやつが現れては災難だ。
しかし見た感じボタンを引きちぎられたようだし、鞄以外で隠す物もない。ジャケットも気休めにしかならないが、ないよりマシだろう。
「立てるか?」
「あ、す、すみません。ちょっと腰が抜けて」
問いかけに頬を朱に染めた表情までいちいち色っぽくて、思わず息をついてしまう。こちらのほうがよからぬ気を起こしてしまいそうだ。しかしため息を呆れと捉えたのか、目を伏せて恥ずかしげな顔をする。
「手を貸すから」
「ありがとうございます」
差し伸べた手におずおずと白い手が重ねられた。細くて綺麗な指だ。それを優しく握りしめると、抱き寄せるように身体を引き上げる。されるがままに腕の中に収まった身体は、見た目ほど華奢ではないが簡単に抱き込めてしまうほど細かった。
「もう少し、警戒したほうがいいんじゃないか?」
「え、あっ! すみません」
「俺は役得だが、また怖い目に遭うかもしれないぞ」
わざと力を込めて腰を抱き寄せる。けれど小さく肩を跳ね上げただけでそれ以上の反応も抵抗も示さない。俯いた顔をのぞき見れば、耳まで赤く染めながらぎゅっと目を閉じている。
その横顔にそっと手のひらで触れると、また肩が微かに震えた。しかし指先に力を込めて上向かせても、逆らうことなく顔を上げる。
「そういうこと、したくてここに来たのか? で、相手を間違ったわけだ」
「そ、そういうわけじゃ」
「だけどこんな状況、男なら勘違いする。あんたみたいな美人ならなおさらだ」
「……ただ、確かめたくて」
小さな声が掠れたようにか細くなった。じわりと浮かんだ涙が瞳いっぱいに溜まる。正直言えばそれはそそられる表情だが、引き結んだ唇が震えていて悪戯をする気にならない。なだめるように頭を撫でてやれば、ほろりと涙が頬を伝った。
「確かめたい? なにを?」
「それは、その、自分が本当はゲイなのかどうか」
「……それを、確かめる?」
思いがけない言葉に少し言葉が詰まってしまう。けれどこちらを見る目は真剣そのもので、涙を浮かべているほどだ。本人にとっては重要なことなのかもしれない。
「いままで気づくようなことはなかったのか?」
「これまではずっと女性とお付き合いしてきて、結婚もしていたんですが」
「していた、ってことは別れたのか」
「はい。……愛情はあるのかもしれないけれど、心から愛してくれていないと言われました。私も彼女を大切にしてはいたんですが、どうしても、女性が抱けなくて。EDとか病気も疑ったりもしたんですが。解決が出来なくて」
それで離縁を突きつけられて別れたというわけか。しかし本当に性癖がそうであるなら、少なからず違和感を覚えたりするものだが。ずっと女にしか興味を持ってこなかったと言うのも不思議な話だ。
「あの、昔から、見た目のせいで、男性におかしな目で見られることが多くて、それで少し男性が怖くて」
「ああ、そういうことか」
納得のいかない俺の顔色を察して、彼は言いにくそうに言葉を連ねた。要するにいままでは女しか選択肢がなかったんだ。だからそれが正しいのだと思い込んでしまった。おそらくそういうことなのだろう。
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