その瞳に溺れる05
最初のうちは、しゃべりが上手い加賀原につられてよく話しよく笑い、少しばかり機嫌が良くなっているくらいだった。しかし時間が経つにつれて、気持ちが大きく浮き上がってきて、それを表すようにずっとにこにこと笑いっぱなしだった。
そんな竜也の表情に、加賀原はデレデレと鼻の下を伸ばし、なんでもおねだりを聞いていた。酷く酔っ払うことはいままであまりなかったが、これが心配だったのだ。警戒心なく人に笑いかけるから、周りはそれにやられる。
「竜也、そろそろおしまいだ」
「えっ? 大丈夫です! まだ全然酔ってません」
レーズンバターの楊枝を銜えて、目を瞬かせる顔はアルコールのおかげでいつもより幼く見える。じっと見つめてくるその視線に、ため息をついてグラスを下げようとすると、小さく唇を尖らせた。
そしてぷくりと頬を膨らませて、もの言いたげに目を細める。それとともに楊枝を手放すと、ぱっとグラスを両手で掴んだ。
「やですっ」
「竜也」
「もう少しだけ、駄目ですか?」
甘えた声を出して上目遣いで見上げてくる、それに計算がないから困る。黙っていると眉尻が下がり、ひどく悲しげな表情に変わっていく。訴えかけてくるようなその目に、ため息をつくと視線を落として落ち込んだ。
カクテルを三杯、どれも大して度数は高くない。もう一杯くらい飲んだところで、潰れることはないだろう。少しだけ譲歩してやるべきか。
「次でおしまいだ」
「……っ、はいっ」
嬉しそうに笑う、その顔に弱い。無邪気だからこそなんでも許してしまいたくなる。これはある意味悪女のようだなと思う。無自覚に男を惹き寄せて、駄目にするのが得意だ。
本人はそれで嫌な思いもしてきたのだから、それについて言うつもりはないが、見ていると気が気ではなくなるし、どうにかして覆い隠してしまいたくもなる。けれど不自由に繋ぎ止めるのは、彼にはふさわしくないだろう。
「九竜さん」
「ん?」
「電話じゃないですか? ポケットでずっと鳴ってますよね?」
「気にするな」
「気になります。さっきからずっと鳴ってますよ。急ぎじゃないですか? お仕事とか」
おそらく言う通り、このしつこさは仕事の電話なのは間違いない。時刻はもう少しで二十一時だが、まだ残っているやつは残っている。けれどせっかくいい気分で酒を飲んでいるのに、現実に引き戻されたくない。
しかし隣にある顔は心配の文字を顔に書いていて、見つめてくる視線に居心地が悪くなる。仕方なしに、懐に入れていた携帯電話を取り出して確認した。着信の相手は野上、上司だ。
「ちょっと出てくる」
「はい、いってらっしゃい」
あまりにも清々しく見送られて、わずかばかり胸の内が複雑になる。けれど用件を早々に済まして戻ってきたらいい。そう思って店を出てから通話を繋げたが、この男の電話が数分やそこらで終わるわけがなかった。
ほかに誰もいないというわけでもないのだから、その場にいる人間でなんとかしてもらいたいと思うが、大きな案件の締めが目の前にあることは知っている。休日出勤しないと言ったら、泣いて縋られる勢いで同僚に止められたのも事実だ。
「だからさぁ、これがよぉ」
「それはあんたがなんとかするって言ったじゃないですか」
「まあ、言った、言ったな。だけどやっぱりお前じゃないと全然回らなくて」
「普段から人に仕事を押しつけ過ぎだってことに気づいてもいい頃じゃないか?」
特別周りが仕事ができないわけではない。暢気そうに見える彼らは彼らで、ほかから見れば仕事はできるほうだ。ただ俺に対しての比重がおかしい。しかしなんでも任せておけばいい、という考えがダダ漏れで、あまりにも明け透けすぎて文句を言う気にならないのだ。
「いま手元になにもないから確認できない」
「じゃあ」
「……明日、昼過ぎには行く」
「そっか、そっか、いやぁ、悪いなぁ!」
まったく悪いと、思っていなさそうな声にため息が出た。まあそれでも明日も出てくる様子なので、チャラにする。だがこう仕事仕事だから、結婚から遠のくんだうちの連中は。野上も長く付き合っている恋人はいるものの、結婚には至っていない。
束縛し合わない、フリーな関係がいいのだと言っていたが、そもそも結婚して家にほとんどいないような旦那なんて、願い下げだろう。
最近の俺が早めに帰ることが多くて、負担をかけている気はするが、帰っても構わないと言われているので、気にしないようにしている。どうせ来期辺りまた人を増やすだろう。
「デート中に悪かったな」
「まったくだ」
「彼氏くんのご機嫌を損ねてたらごめんな」
「……それはない」
「いい子ちゃんだな、羨ましい限りだ」
ニヤニヤしているのが伝わる、含み笑いをされてさっさと通話を切った。少しくらい仕事に妬いてくれてもいいと思うのだが、竜也はそういうヤキモチは一切ない。急に予定を潰されても大丈夫ですと笑う。
本音のところが見えないが、俺を束縛しようという様子はまったく見せない。完全に受け身で、運良く一緒に過ごせたらそれでいい、とでも言い出しそうに思える。こちらとしてはもう少し、執着を見せてくれてもいいと思っているのだが。
どうしたらもっと、彼を惹きつけていられるだろうかと考えてしまう。いまでも十分、向こうからの気持ちを感じているはずなのに。
そんなことを考えながら店の中へ戻れば、カウンターで待っている恋人は、見知らぬ男に声をかけられていた。酔っていて警戒心が薄れているのか、向き合いながら黙って話を聞いているように見える。重たいため息が吐き出されるが、傍まで行って肩に手を回すと、ぱっとこちらを振り返った。
「九竜さん、おかえりなさい!」
「なにをしているんだ」
「この方がマジックを見せてくれました。すごいんですよ!」
「ふぅん」
にこやかな笑顔を見せる竜也から視線を男へ移すと、引きつったような笑みを浮かべる。そしてほら言っただろうと、加賀原が呆れた声を上げた。おそらく小手先の手品で、竜也の気を引いてあわよくば一緒に酒でも、と企んでいたのだろう。
「お連れさんが戻ったみたいなんで、お、俺はこれで」
「えっ? もう少し拝見したかったです」
「あー、いやー、せっかくのお時間を邪魔しちゃ悪いんで」
連れがいる相手に声をかけてくるわりには、察しがいいようだ。ねだる竜也にもあれこれと言い訳を並べて、自分の席に戻っていく。残された竜也はしょんぼりとした顔を見せるが。気を引くように頬を撫でると、彼は顔を持ち上げて首を傾げた。
「俺と安物の手品、どっちがいいんだ? あっちがいいなら、俺は帰ろうか?」
「え! 嫌ですっ! 帰っちゃ嫌です!」
驚きで丸くなった瞳に涙がじわりと浮かび、縋りつくように手を伸ばされる。ぎゅっとジャケットを握った手が震えて、ほろりと涙がこぼれ落ちた。それにはこちらまで驚いてしまい、まじまじとその泣き顔を見つめてしまった。
「竜也、……あんた酔ってるな」
「え、あ、ちょっと、ちょっとだけです。でも平気、です」
「……加賀原、お前、なにを飲ませた」
よくよく見れば少し赤らんだ頬、普段よりもわずかばかり舌っ足らずなしゃべり方。その元凶である男へ視線を向ければ、しれっと遠くへ目をそらした。カウンターに置かれたグラスを見れば、縦に長いコリンズ・グラス。
クラッシュアイスの中で三分の一ほどに減った、アイスティーのような琥珀色の酒、それに思わず顔をしかめる。度数の高いカクテルと言えば、小さなグラスを思い浮かべるだろうが、アルコールが強い酒ほど大きなグラスになる。
「ごめんなさい。加賀原さんは悪くないです。ちょっと強いのが飲みたいって言ったのは自分で」
「ちょっと?」
「いい感じに酔ったらいい感じになるかなぁと」
「無責任な真似をするな」
乾いた笑い声を上げる加賀原を睨み付ければ、いまさら証拠隠滅のようにグラスを下げる。そして笑いながら、ミネラルウォーターを注いだグラスに差し替えた。
バーの店主にあるまじき所業だ。初見の客に馬鹿高い度数のアルコールを出すなんて、どうかしている。しかしさらに文句でも言ってやろうと思っていたら、ジャケットを握りしめる手に力がこもった。
「ほら見ろ、無理をするから具合が悪くなったんだろう」
「ごめん、なさい」
「普段そんなに飲まないのに無茶をするからだ。まあ、あんたが悪いと言うよりそれを出したやつの責任だがな」
我に返って急に酔いが回ったのか、俯く顔が青白くなってくる。あれはいま視界が回るくらいになっていても、おかしくない酒だ。酒を飲み慣れていないのだから、なおさらだろう。肩を抱き寄せると、もたれかかるように身体を寄せてくる。
「もう出るぞ」
「ちょっとだけお手洗いに行っていいですか」
「……わかった。気をつけろよ」
「はい」
少しばかりおぼつかない様子ではあるが、まっすぐと歩いている。中で倒れてしまう心配をするほどでもない。しかしあれではいい感じになるどころか、ベッドに入ったら一瞬で眠りに落ちて終わりだと思う。
もう一度しっかり文句を言わせてもらうために、不自然にいくつもグラスを磨いている男に向き合った。