二つの熱01
トクトクと胸を高鳴らせて緩やかに心が動く。ふとした仕草、先を見据えるような大人びた視線、振り返る無邪気で優しい笑み。少し情けない顔やふてくされた顔、どんな表情も愛おしく思える。ただ傍にいるだけなのに、胸の奥が温かくて幸せだと感じた。
あんなに繰り返し、わたしのこと好き? 愛してる? 想ってる? ――そう言われ続けてきたのに、まるで嘘みたいだ。言葉にしなくたって君が好き。君の傍にいたい。君のことを愛してる。身体中のすべてがそう言っている気がした。
「こんなところでうたた寝してないでベッドで寝なよ」
きらきら光っていた黄金色の髪は、春に落ち着いたダークブラウンへと変わった。なんだかそれだけでぐんと大人っぽくなって、制服を脱いだ彼が一つ先の階段を上ったのだなと思えた。毎日が充実しているようで、疲れたとこぼす割には瞳は輝いて見える。その表情を見るだけでひどく安堵できた。
「穂村」
風呂から上がってみれば、テーブルに突っ伏して彼はすやすやと寝息を立てていた。こうして居眠りをする姿は見慣れてきたような気がする。気持ちよさそうに眠っているのを起こすのは忍びないが、風邪を引かせるわけにもいかない。肩を揺するとまぶたがかすかに震えた。
「んー、あー、やば。……結構寝てたかも」
まぶたを瞬かせながら、大きく身体を伸ばした彼はあくびを噛みしめる。その横顔に自然と笑みが浮かんだ。住み慣れた自分の部屋にまだ馴染みのない彼の姿。でも些細な日常の中に少しずつ溶け込んでくることがくすぐったいけれど、とても嬉しいと感じる。
「大丈夫か? なにか飲む?」
「ああ、うん。水ちょうだい」
卒業後、彼は身体のことを考慮し親戚が経営している会社に就職した。それほど大きくはないデザイン事務所で、社員も十五人程度だと聞いている。いまは内勤で事務仕事をしているようだ。
「やっぱりまだ慣れない?」
「仕事場にはまあまあ慣れたけど、仕事に関しては専門用語が多くてぱっと反応できない」
「そうか。でも仕方ないね。穂村はそっち方面を勉強してきたわけじゃないし」
テーブルの上に広げた本とノートを閉じながら、彼は少しだけ眉を寄せて難しい顔をする。根が真面目だから、出来ないわからないことをそのままにしておけないのだろう。
それに身内のコネで入社したことは、口には出さないけれど気にしているのがわかる。だから一人の人間として認められたい欲求があるのだと思う。
「春樹、こっち」
「どうしたの?」
「いいから」
コップをテーブルに置いて向かい側に座ろうとしたら、彼は促すように床を叩く。なにも言わずにじっとこちらを見つめる眼差しはなんだか物言いたげだ。
けれど彼はそれを言葉に出さずに訴えかけてくる。これは最近になってよくあること。無意識なのだろうけど甘えられている感じがする。
「抱きしめてあげようか」
隣に腰を下ろして視線を見つめ返せば、それとともに真っ直ぐ伸びてきた手で身体を強く引き寄せられる。されるがままに身体を預けると、隙間を埋めるほど強く抱きしめられた。
「穂村は、頑張ってるよ。大丈夫だよ」
やはり少なからず不安があるのだろう。でももどかしいことはあるかもしれないけど、まだ新しい生活は始まったばかりだ。これからいくらでも頑張ることは出来る。気負いすぎなければいいと思いながら、そっと彼の背中を抱きしめ返した。
「春樹はあったかいなぁ」
すり寄るように鼻先を首筋に寄せた彼は、大きく息を吸い込んでゆるりと肩の力を抜く。背中を軽く叩いてあげたら、なぜだか小さく笑った。
「あったかくて傍にいると癒やされる」
「そんなこと、言われたことないよ」
「……春樹」
ぽつりと呟かれた言葉に困惑してしまった。けれどそれをいさめるように名前を呼ばれて、背中に回された腕が解かれていく。
ゆっくりと離れる熱を名残惜しく感じたが、すぐに揺るがない真っ直ぐな瞳に見つめられた。その目に見つめられるのは好きだ。いまその瞬間、彼の瞳の中に自分だけがいることが嬉しくなるから。
「俺がちゃんと愛してあげる。だから過去の恋愛を思い出して傷つくのはもうやめなよ。忘れさせてあげるから、いまは俺だけ見ていて欲しい」
彼の目は本当に正直で綺麗だ。嘘偽りなんてものはひと欠片も感じさせない。そんな曇りのない瞳で見つめられると胸がひどく締めつけられる。
息が出来なくなりそうなくらい愛されてるのがわかって、めまいを起こしてしまいそうだ。でも誰かにこんな風に愛情をかけてもらうのは初めてで、どう返したらいいのかわからなくなる。
「春樹は優しすぎるから、全部自分が悪いんだって思ってるだろう。違うよ。春樹が悪いんじゃない。みんな勝手に想像して勝手に傷ついてるんだ」
「なんだか見てきたみたいに言うんだな」
恋愛はいつもうまく行かないんだって笑い話にしたことはあったけど、どんな付き合いをしてきたかまでは話したことはないはずだ。それなのに彼の言葉は淀むことがなくて、真実を語っているみたいに聞こえる。うろたえて少し視線を外してしまった。
「見てきたよ。四年間ずっと、春樹のことを見てきた。普段は素っ気ないくらいなのに、どうしようもないくらい辛くなったとき、苦しくなったとき。誰も気づいてくれないのに、春樹だけはちゃんと気づいてくれる。だからその温かさに触れると、自分が特別なんだって錯覚してしまうんだ」
さして人より秀でたところも目立ったところもない平凡な自分。特別なものなんか一つも持っていない。だから彼の語る自分はまるで自分ではないような気になる。けれど彼は繕うことなく真剣で、俯きそうになった顔を思わず上げてしまった。
「先生に恋していたのは俺だけじゃなかったよ。あの場所であなたの優しすぎる心に触れて、あなたの特別になりたがっていた人は他にもいた。でも気づくんだ。あなたの優しさは自分だけに与えられるものじゃないって」
そんなことちっとも気づかなかった。これまでもどうして自分なんかを好きだって言うんだろうって思ってきた。あなたは優しい――ずっとそう言われてきたけれど、その優しさに傷つけられたとも言われる。
自分の優しさはやっぱり上辺でしかないんだろうか。でも自分ではわからない。どれが正解でどれが間違いだったかなんて。
「先生が間違っていたわけじゃないよ。きっといつだって相手に実直だったはずだ。ただあなたの愛情は平等なだけなのに、それを勝手な感情で裏切りだと罵る。自分のことだけを見てくれないあなたが許せないって一方的なことを口にする。先生はそんな感情にずっと傷つけられてきたんじゃないの?」
胸が鷲掴まれる思いがした。心の中をのぞき込まれたようなそんな不思議な心地がして、胸が苦しくて喉奥になにかが詰まったみたいになにも言葉を紡げない。
「誰かを好きになれないって言ってたけど。それはきっと相手の想いが背負うには重たすぎたんだ。先生の優しさを独り占めにしたいって言う感情が、ひどい独占欲に変わって、あなたを苦しめた。ちゃんと大切だったはずだ。でもそれ以上に苦しかった。そうでしょ?」
差し伸ばされた手が頬を包む。頬を包み込んだ両手は優しくて、喉の奥が熱くなってくる。せり上がる感情を押し止めるように唇を引き結んだ。けれどそれを解くかのような優しい口づけが引きつれた感情を震わす。
「先生はなにも悪くない」
ひどく優しく微笑んだその表情にこらえきなくなった感情があふれた。瞬くたびに涙がこぼれて彼の手を濡らしていく。胸の内に溜まったものを吐き出すみたいに、こぼれ落ちるものが止まらない。
どうしていつも彼は誰も言ってはくれなかったことを言葉にしてくれるんだろう。心を見透かすように欲しい言葉を自分にくれる。
「俺もいつか、そんな風になったらどうしようって、怖いときもあるんだ。でもあなたを傷つけたくない。もうこれ以上、辛い思いはさせたくない」
「……どうして、どうしてそんなに好きでいてくれるんだ」
「先生が不器用だから。優しすぎる不器用な人だからほっとけない。先生のためならなんでもしてあげたいって思った。俺の傍で笑っていて欲しいんだ」
ボロボロと泣く自分を見て少し困ったように笑う君。こらえるように息を吸い込んだけど、どうしても涙は降り止まなくて。くしゃくしゃの顔で不格好な笑みを浮かべた。きっとひどい顔だったはずなのに、彼が嬉しそうに目を細めて笑うから、心が少し軽くなる。
「先生、好きだよ。……あ、間違った。春樹、春樹が好きだよ」
「んふふっ、どっちでもいいのに。さっきから違ってたよ」
慌てて言い直す彼が可愛くて、思わず口元が緩んでしまう。それと一緒にあふれるばかりだった涙が引っ込んだ。失敗を笑う自分を見て口を曲げる彼が愛おしい。身体が吸い寄せられるように近づいて、そっと彼の唇に自分のそれを重ねた。
「私も好きだよ。穂村が好きだ。こんなに真っ直ぐに誰かを好きになれたのは初めてだよ」
「ほら、言ったでしょ。最後にあなたが選ぶのは絶対に俺だって」
得意気な顔をして幸せそうに笑う。その笑顔がたまらなくて、腕を広げて目の前の人に抱きついた。彼をずっと好きでいたい。彼のことを離したくない。こんな感情は生まれて初めてだ。
「春樹、可愛い」
「ごめん」
勢いがよすぎて二人でもつれるように後ろへ倒れてしまった。それなのに彼はひどく楽しげに笑っている。すごく可愛くて、優しくて、温かい笑みだ。
彼のことが好きになったのは太陽みたいな笑顔を浮かべるから、どうしても目が離せなくなった。傍にいると自分まで温かい気持ちになれる。
「穂村を好きになれてよかった」
「うん、好きになってくれてありがとう」
どちらからともなく近づいて、そっと唇を重ねる。ゆっくり深く合わさるそれが少しずつ熱を持ち始めて、上唇を舌先で舐められた。次第にお互いの心に火がついて、髪を梳いて撫でる彼の手が心地よくて、甘えるように下唇を噛んだ。
ゆらりと揺らめいた彼の瞳に熱がこもっていくのがわかる。まだ数えるほどしか触れ合っていないけれど、その目で見つめられると身体も心もゾクゾクとしてくる。自分を欲しがっていることを隠しもせずに、真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳に溺れていく。