それって簡単なお仕事?
胸をどぎまぎさせて、天希がぼんやりと伊上を見つめていると、彼が近づいてくる。突然のことに、思わず肩を跳ね上げるけれど、無駄に力んで眉間にしわが寄った。
しかし伊上はさして気にした様子も見せず、にこにことした笑みで見つめ返してくる。
「新庄、天希くん。だったよね」
「そ、そう、です……けど」
「うん、まずはこれを読んでくれる?」
すっと手渡された、クリアファイルに入った書類。訝しく思いながら、それを手に取ると、天希は先ほどのようにじっくりと文字を目で追う。
書かれている内容は、最初に見せられたものとほぼ一緒だ。
けれど決定的に違うのは、借用者本人の支払いがあれば、保証人の納めたお金は返却すると言う点。金利は年率十八%に変更。それともう一つ。
「返済金額は六十五万円。ん? 元の金額? 月々の支払いは五千円から? えっ、これ、ほんとか?」
「もちろん。なにか変更の必要はある?」
「う、うーん。ないけど。……いまここでサインしないとダメなのか? 家に持ち帰りたい」
「いいよ」
「伊上さん!」
あっさりと了承した伊上に、いつの間にか直立していた男たちが、あたふたとしている。
彼らが緊張した様子を見せているということは、ここで高い地位にいる人間なのだろう。ひらひらと伊上が左手を振るだけで、押し黙った。
なぜそんな人物がいきなり、こんな好条件を出してくるのか。書面を手に天希は小さく唸る。
なにかあとからふっかけてくるとか。この書面のどこかに落とし穴があるとか。けれど書類を何度見ても、それらしいものを見つけられなかった。
「じゃあ、天希くん。納得したところで、帰ろうか」
「えっ?」
「家まで送るよ」
「はっ?」
いつまでも天希が書面を睨み付けていると、男たちと話をしていた伊上が振り返る。彼の突然の言葉に、あからさまに首をひねれば、握っていた車の鍵を見せてきた。
ふいに拉致監禁――と言う物騒な言葉が浮かび、天希は露骨に身構える。だが伊上は楽しそうにふふっと笑った。
「君の家はもう知っているし、ただ送るだけだよ。ここから帰るの大変だろう?」
「……」
そもそもここがどの辺りなのか、天希はよくわかっていない。車はかなり長い距離を走ったので、最寄り駅さえわからなかった。
しかしまたヤクザの車に乗るのか、と思うと躊躇する気持ちが生まれる。たとえ見た目が、好みのタイプだとしても。人並みの警戒心は持ち合わせていた。
「いや、駅を教えてもらえれば。……あっ、自分で調べられるし!」
「別にとって食べちゃうわけじゃないから」
「取って食うってなんだよ!」
「あまちゃん、可愛いからね」
「あまっ、ちゃん? 馬鹿にすんな! 一人で帰る!」
からかうような言葉に、頭に血を上らせた天希は、憤慨して勢いよく立ち上がる。そして道を塞ぐようにして立つ、伊上の横を通り抜けた。
しかし開いた扉を抜けようとしたところで、腕をとられる。
「天希だから、あまちゃんだよ。甘ちゃんだって言ったわけじゃないから、気を悪くしないで」
ぐっと腕を引き寄せられて、耳元に囁きかけられた――落ち着いた優しい低音。それが鼓膜を震わせ、ぞくりとさせられる。
とっさに耳を押さえるけれど、触れた場所が熱く、見つめられた天希は視線が泳ぐ。動揺した自分を悟られまいとすれば、今度は力んで睨み付けるような顔になる。
それでも伊上は先ほどと同様、まったく気にする様子もなく、またににこにこと笑う。そして固まっている天希の手を取って、足を踏み出した。
「じゃあ、行こうか」
「えっ」
強引な歩み、それに半ば引きずられるように歩かされる。慌てて足を速めると、数メートル進んでようやく歩調が合った。
斜め前を歩く伊上はやはり背が高い。ピンと背筋が伸びていて、余計に高く見える。横顔をちらちらと見ながら、天希は小さく息をついた。
こんな状況でなかったら――二度目の心の声だ。
「さあ、どうぞ」
駐車場に着くと、伊上は恭しく助手席のドアを開けてくれる。警戒しながら乗り込むけれど、座席シートの座り心地の良さに驚かされた。
柔らかすぎない、身体にフィットしてくるような座り心地。
さらには身体の大きな天希が座っても、足が詰まらない、狭苦しさのない座席も感動を覚える。しかし運転手が自分より大きいこと思い出し、彼の身体に合わせた車なのだと気づいた。
「あまちゃんはいま彼女はいるの?」
「いない、けど」
「好きなタイプは?」
「あ、え、……大人っぽい人」
「年上が好きなんだ?」
「えっと、まあ」
「じゃあ好きな食べ物は?」
「焼き肉? ……って、なあ、さっきから、なんか意味あんの? 変な質問ばっかり」
車に乗ってから天希は、延々と伊上に質問攻めにされていた。それに対し、律儀に答えている天希も大概ではあるが、意図の読めない質問に困惑はする。
隣の顔を見ると、相も変わらずにこやかだ。
しかし笑っている顔にばかり気をとられていたが、相手に心の内を読ませないタイプだと思えた。
笑っている顔に隙がない。
「あまちゃんのこと色々知りたくなっちゃったから」
「個人情報くらい知ってんだろ」
「それだけじゃわからないだろう?」
「それ以上、なにが必要なんだよ!」
ため息交じりに、天希は窓の外へ視線を向ける。そしてミラーに映った自分を見ながら、顔をしかめた。気を抜くと、ニヤニヤしてしまいそうな自分がいる。
なるべく素っ気ないふりをして、気づかれないように。今度は窓に映った伊上の横顔を見つめた。
職業ヤクザ、ではなかったら――お友達になってください、くらい言えただろうか。いや、こんな子供はそもそも相手にされない。
一人で考えをあちらこちらと巡らせながら、天希はまたため息をついた。
「あまちゃん、そろそろつくよ」
「うん」
見慣れた道を進み、家まであとわずか。車が減速していく。
「送ってくれて、ありがとうございました。あと、仲裁してくれて助かりました」
車が止まると天希はそそくさとシートベルトを外し、ドアに手をかけた。だがふいに後ろから手が伸びてきて、肩を掴まれる。
その手に振り向くと、またにっこりと笑われた。なにを考えているか読めない顔。
「あまちゃん。うち、事務員の募集してるよ。アルバイト時給千八百円」
「え?」
「いまアルバイトしていないよね? 支払い、どうする?」
「あ、……確かに」
支払いが減額されて、あとで返ってくる可能性があっても、借金はなるべく早く返済すべきだ。親に頼るわけにはいかないので、アルバイトをしなければ賄えない。
時給千円の仕事を毎日しても、いつ返済が終わるか。
「バイトのあとに僕とデートしてくれたら、さらに二百円プラスしてもいいよ」
「デート?」
「僕とご飯に行ったり買い物に行ったり、簡単なお仕事」
「あんたになんのメリットがあるんだよ!」
「そうだなぁ、たまにこうして僕にご褒美をくれるだけでいいよ」
「ごほ、う……」
掴まれた肩が引き寄せられて、ぐっと力を込められる。シートに身体を押し戻され、驚く間もなく口を塞がれた。触れる唇――感じるぬくもり。
反応できずに固まっている天希をよそに、ぬるりと舌が忍び込んできた。