溺愛彼氏の上手な慰め方

なに言っちゃってんの?

 それはなにげない一言だったのかもしれない。
 けれど受け止めた天希には衝撃的な一言だった。

 その日もいつものように、仕事が終わって帰ってくる予定の伊上を、二ノ宮の本邸で待っていた。
 天希は組長である二ノ宮づきの息子、せいとのんびりケーキを食べていて、彼の恋バナ真っ最中だ。

 話題の中心人物――世話役の田島は部屋の外に立っているが、彼が室内に入らないのは、この状況を見越してかもしれないと思えた。
 突撃わんこの勢いには、常日頃ポーカーフェイスな田島も、相変わらずタジタジだ。

 キラキラと眩しい、青春真っ盛りな成治はいまも瞳を輝かせている。
 至極楽しそうな成治の笑顔を見ながら、天希は頭の片隅で早く伊上が帰ってこないかな、などと考えている。

「――あれ? 父さんが帰ってきたのかな」

 ふいにぴたりと言葉を止めた成治が、背後のふすまを振り返った。
 確かに耳を澄ませば、かすかに人の声が聞こえてくる。おそらく誰かが外にいる田島と会話をしているのだろう。

 話をしていてもふすまの向こうの声が聞こえるとは、成治は随分と耳が良い。
 それとも常に田島の気配にアンテナを立てているのか。天希は驚きに目を瞬かせた。

「まだあいつは帰ってないのか?」

 視線の先ですっと開いたふすま。
 成治の予想どおり、現れたのはくわえ煙草に着物姿の志築だ。相変わらず高校生の息子がいるように見えない男前である。

「成治、帰る用意しろ。桜が飯の用意をしてる」

「え! 母さんが? 仕事が速く終わったのかな? 天希さん、すみません。俺、そろそろ」

「俺は大丈夫だ。いるあいだはしっかり家族団らんしておけよ」

「はい!」

 普段は海外で働いている志築の妻は年に数回、仕事関連で帰ってくる。
 最近天希も顔を合わせたが、息子の顔面偏差値を念頭に置くべきだった、と反省するくらいの美女だ。

 できる女のスペックをすべて兼ね備えていそうに見えた。

 忙しない足音を立てて去って行った成治と、廊下にいた田島が去り、対峙する相手が大ボスである志築なのはさすがに緊張感を覚える。
 廊下に立ったまま黙っている彼に、どう対応すべきかと天希は迷う。

「明日は休みなのか?」

「あー、はい。向こうは仕事だと聞いているので、顔だけでもと思って」

 しばしの沈黙ののち、かけられた言葉は予想外だ。
 聞くまでもなくここにいるときの天希は九割、翌日が休みである。一割は翌日のスケジュールが午後からなど。

「ふぅん」

 案の定、どうでも良さそうな相づちが返ってきた。
 なにが聞きたいのか。もしくは言いたいのか。志築の考えが読めず、とりあえず天希は次の言葉を待った。

「わりと普通だな。というか、変わらんな」

「は?」

「珍しく、こぼしてたぞ」

「なにを、ですか?」

(この人、相変わらず主語がない。周りはそれで慣れて通じるんだろうけど、俺はあんたの部下じゃねぇ)

 気だるげに煙草の煙を吐き出す仕草は大層絵になるが、話の内容がさっぱり理解できず、努めて笑みを作る天希の口の端が引きつった。

「あと数年したら、終わりだろうってな」

「……数年、終わり。――はあぁぁあぁ?」

 志築が煙草を吹かしながら発した言葉を飲み込み、脳内で整理してから、天希は感情のままに声を上げた。

(なに言ってんの、なに言っちゃってんだ。自分は別れたら死ぬとか言ってたくせに!)

 あ然とした天希の表情を見て満足したのか、志築はニヤニヤとしている。
 これは天希をからかってやろうというより、愚かにも自分の目の前で弱音を吐いた男を窮地へ叩き落としてやろうという、底意地の悪い魂胆だ。

「おお、タイミングのいい男だな」

「なにをしている?」

「いーや、なにも。成治を待っているだけだ」

 天希がグルグルと頭の中で考えを巡らせていると、志築が後ろを振り返り、やってきた人へ声をかけていた。
 わずかに聞こえた声は聞きなじみのある男の声。

「胡散臭い笑みを浮かべておいてか?」

「お前ほどじゃない。篠原、こいつが嫌になったらいつでも来ていいぞ」

「光栄なお言葉ですが、どっちもどっちなので遠慮させていただきます」

「残念だ。伊上は本当に良いものだけを持っていく」

 なんとなく刺々しいやり取りが聞こえてくるけれど、彼らのあいだでは日常茶飯事の会話だ。
 慣れない人が合間に挟まるとヒヤヒヤして顔が青くなる。

「父さーん! 帰りましょう!」

 不穏な一言のあと、さすがに天希も内心ハラハラしたが、玄関のほうから暢気な成治の声が聞こえ、ほっと息をついた。
 小さな衣擦れの音とともに、踵を返した志築が去っていき――

(ナイスタイミング! 成治、お前は天使だ!)

 と天希が心の中で思ってしまったのは、致し方ないだろう。

「あまちゃん?」

「お、おう、おかえり。お疲れ」

「うん。なにかあったかい?」

「別になにかあったわけじゃねぇよ」

 入れ違いに顔を見せた恋人は天希をじっと見つめ、訝しそうだ。
 とはいえ本当になにかあったわけではない。
 志築の言葉で受けた衝撃が〝なにか〟だったら話は別だけれど。

 おそらく伊上はなにかされたとか、トラブルがあったとか、そういうことを聞いているはずだ。

「なあ、伊上」

「なに?」

「今度、連休とか取れねぇ?」

「え? 連休? どこかへ行きたいの?」

「できれば知り合いの誰にも会わねぇとこ」

 突然の要求と意味深な要望に、伊上が驚きの表情をあらわにする。
 なにもなかったというわりに唐突すぎる話題なのは、天希も理解しているものの、いまはあの言葉を吐いた理由を聞き出すのが先決。

 そのためには絶対、邪魔が入らない状況でなくてはいけないし、容易く伊上が逃げられる場所でも困る。

「駄目か?」

「うーん、予定を調整してみるよ」

「……ボスに確認してきます」

 ちらっと伊上が視線を動かすと、傍に控えているらしい篠原の声が聞こえてきた。
 予定を調整するのは伊上ではなく、彼の仕事だ。心の中で天希は両手を合わせて篠原に謝った。

「それで、本当になにもなかったのかな?」

「だからなにもねぇってば」

 篠原も去り、部屋に足を踏み入れた伊上は、後ろ手でふすまを閉めた。
 皿に残っていたケーキを天希が口に放り込んでいると、傍まで来た彼が隣に腰を下ろす。

「おねだりは嬉しいけど。君がなんの理由もなくこんなこと言うの、珍しすぎるし」

「たまにはそういう気分になるんだよ。ほんとは嫌なのか?」

「そんなわけない。あまちゃんが僕との時間を過ごしたいって、言ってくれるのは嬉しいよ」

 簡単に騙されてくれない男ではあるが、ムッとした様子を見せると、天希はあっという間に膝の上へ攫われた。
 あまりの素早い行動に天希はフォークを握りしめたままだ。

「あまちゃんが本当に望むなら、なんでもするよ」

「言葉に嘘はないんだろうけどさ。口約束でも、できない約束はすんな」

(俺が逃げ出そうとした時は覚悟してるって言ってたくせに。なんで急に弱気になってんだよ。バーカ)

 天希の返答に再び伊上は驚き、目を丸くする。
 そんな様子に小さく息をついて、天希はぶすりとケーキにフォークを突き刺し、スポンジの欠片を伊上の口に押しつけた。

(俺が来年卒業だから、今後を考えて数年? まあ、確かに勤め先にバレたらやばそうな気はするけど。その場合は志築に責任取ってもらうつもりでいたから、いいんだけどなぁ)

 就職が無理そうならいつでも言えと言われていた。
 いまアルバイトしている会社で雇ってもいいとも、なんなら最初からうちに就職したらどうだとも。

 職場の人たちもぜひここに就職してほしい、と口々に言っていたほどだ。
 それはそれで魅力的な提案ではあるのだが、天希としてはできたら自分で就活をして、本当に先が見えないときに縋る藁にしたい。

「あまちゃん、なにか怒っているの?」

 黙々とケーキを伊上に押しつける天希の行動に、彼は困惑している。
 大人しく受け入れて食べてくれるものの、それほど甘いものが好きではないと知っていた。

 しかしこれは八つ当たりなのだ。
 プラス、まだ自分の手からは食べ物を受け入れてくれる、些細な安心を得ていた。

 天希はなぜ伊上が食べ物に神経質になるのかも、直系でもないのに二ノ宮の後継者に名が上がっていたのかも知らない。
 彼が口を開くまで一生聞く気はないが、最後の扉をいつか開いて、心の内を見せてほしいと願っていた。