据え膳は残さずいただきます
渡り廊下を抜け、玄関を解錠すると、伊上はぐいと天希の手を引いて中へ引っ張り込む。
驚いてされるがままに足を踏み出した天希は、彼の胸に倒れ込む前に顎をすくわれ、唇を塞がれた。
「んっ……い、いが、みっ」
背後で戸が閉まった音は聞こえたけれど、それどころではない。
唐突すぎてなんの構えもできず、抵抗を示す余裕もなくキスに溺れさせられる。
いつもとは違い、かすかに頬に眼鏡のフレームが当たって、不思議な感覚だ。
本人も感じたのか、鬱陶しそうに片手で外して放ってしまった。
カツンと三和土に落ちた音がする。
絶対高価なフレーム――わずかに数字が頭をよぎったものの、すぐに伊上へと意識を引き戻される。
「ふぁっ、まっ、まって……」
息を継ぐ間がないとはこのことだ。
酸素が足りなくて天希が喘いでも、ちっとも伊上は止まってくれない。それどころか、ぐいとさらに腰を引き寄せられた。
(なんだ? なんでいきなりスイッチが入ったんだ? 全然脈絡ねぇ)
せめてもの抵抗で、ジャケットの背をぐいぐい引っ張ってみるが、うるさいとばかりに後頭部まで押さえられる。
(無理、むり! 酸欠でくらっとする!)
仕上げにじゅっと舌先を吸われたら、天希は腰が抜けて膝から崩れ落ちかけた。
若干、体が落ちかけたところで、ふわっと体を横抱きで持ち上げられる。相変わらず重さを感じさせない動作だ。
「な、なんだよ、急に。いきなり発情されるとさすがに困るんだけど」
黙って浴室のほうへ歩いていく伊上の胸元を引っ張ると、なにも言わずに額へキスを落としてくる。
このままなだれ込む状況は嫌ではないものの、さすがの天希も言葉がないと不安を覚え、落ち着かない。
脱衣所の扉を開いた伊上は、天希を近くの椅子へゆっくりと下ろした。
「伊上?」
「……ごめん。不安になったね」
天希の髪を撫でながら長い息をついた伊上が、再び額へキスをする。
先ほどの謝罪の代わりか。こめかみやまぶた、頬に何度も口づけてくる伊上の袖を天希は掴んだ。
「もしかして、ずっとムラムラしてた?」
「あまちゃんがいつもにも増して無防備で可愛いから。と言ってもさすがにあの場でキスまではできないからね」
「ポーカーフェイスすぎ」
商店街を散策していた時の伊上から、そんな素振りを一度も感じなかった。
彼としては我慢が爆発したのだろうが、天希側では豹変したと言ってもいいくらいである。
「はあ、マジでびびった。脅かすなよ、もう」
「うん。ごめんね」
ようやく気配も穏やかな、いつもの伊上になった。
安堵の息を吐いて天希がぎゅっと抱きつけば、彼も応えて抱きしめ返してくれる。ぽんぽんと背中を叩かれ、思わず天希は胸元にすり寄った。
「よし、まずは風呂だ。あんたのも抜いてやるから、入ろう」
精神力で押さえ込んだ性欲もさすがに限界なのだろう。
スラックスがわずかに膨らんでいる。もちろん天希も先ほどからデニムがきつくて苦しい。
「またそうやってあまちゃんは色気もなく」
「色気はあとから出せばいいんだよ!」
ためらいもなく服を脱ぎだした天希に伊上は嘆息する。
しかしやる気になっている、据え膳の伊上を食べないのは非常にもったいなく、晩ご飯も楽しみな天希は食前の運動的感覚だ。
どうせ終わったらしばらく動けないのは目に見えている。
いまは十六時を過ぎたところなので、風呂を上がってひとやすみしたら良い頃合いだろう。
「夜か朝に露天風呂、入ろうぜ!」
「あまちゃん、計画的だねぇ」
「だから少しだけ俺の余力を残してくれよな」
「ふふっ、それはあまちゃん次第かな」
笑いを噛みしめきれずに声を漏らした伊上を、天希はもの言いたげに目を細めて見つめた。
するとわざとらしく首を傾げてみせるものだから、ぱぱっとすべて服を脱ぐと天希は浴室へ足を向ける。
離れに着いた時にも覗いたけれど、屋内の浴室は洗い場も浴槽も広々。
床面との段差が少なくフラットな浴槽で、露天風呂とガラス一枚で隔てられているため、湯に浸かると内庭が見渡せる。
夕刻なのでなかなか風情があると、しばし天希は立ち尽くした。
「風邪、引くよ」
「ん? あ、リセットされてる」
「あまちゃんもでしょ?」
「温泉だなーって感動してたら、つい」
お互い、顔を見合わせて苦笑し、普段一緒に入る時と同じパターンになってしまった。
伊上のアクセルがフルスロットルだと風呂場でも、と言うこともあり得るのだが、こうしてのんびりした雰囲気となればそうもいかない。
広い浴槽で二人並んで外の景色を眺め、しばらく温泉を堪能した。
それでも隣に裸の伊上、と思うとそわそわするのが天希である。相変わらず立派な体だ。
「物欲しそうな顔をしている悪戯な子猫ちゃん?」
「今度、筋トレのやり方を教えて」
横でつんつんと腕や背中、胸筋に触れていたら指先を掴まれた。
毎度おなじみの天希の行動だけれど、今日はあっさり封じられる。少しだけ体を移動させた伊上は、天希を背中から抱き込む。
「あまちゃんはいまくらいがいいよ。あんまり鍛えすぎても良くない」
「それは伊上の好みだろ~」
「触れると柔らかいあまちゃんの筋肉がちょうどいい。ガチガチに絞ったら怒るよ」
「伊上、あんた……おっぱい好きだな」
「あまちゃんのに限り、ね」
後ろから思いきり胸を揉まれて天希はため息をついた。
鍛えてもふわふわしすぎな胸が、天希のコンプレックスだというのに、逆に伊上はお気に入りだ。
「んっ、どさくさに紛れて、触るな!」
「なに言ってるの? 触ってくださいと言わんばかりなのに」
胸を堪能していた伊上の指先が時折、ツンとした胸の尖りをかすめる。
最初から弱かったのに、近頃ますます感度が上がった気がして、天希は逃げ出そうともがいた。
「駄目、駄目だって! ぜってぇのぼせる! 温泉ってちょっと温度が高いだろ」
「そう、嫌なんじゃなくてのぼせるから場所を移そうって意味かな?」
「ん? あっ、ちが……」
自分の失言に気づいた時にはもう遅い。
立ち上がった伊上が浴槽のフチに腰かけ、天希の体をあっという間に脚のあいだへ収めてしまった。
本当に先ほどと場所が変わっただけの体勢だ。
「体が冷えるといけないから、足湯してて」
「ん、ゃっ、お湯が汚れたらどうすんだよ!」
ふっくら赤く色づいた果実の如き尖り。伊上は感触を楽しむみたいに、何度も指先で軽く弾く。
この場所をいじられ、イカされた経験が両手で足りない天希は、じわじわと湧き上がる感覚に声を上擦らせた。
「大丈夫。それよりもこっちに集中して」
「やだ、やだっ、伊上っ」
「やだとか言いながら復活しちゃったねぇ」
指先で押し潰すように先をつままれ、ゾクッとする感覚に天希は顎をのけ反らせる。
下手をしたら足を滑らせ、湯に落ちそうで怖い。しかし伊上の手に与えられる気持ち良さにも抗えない。
「あまちゃんはお尻の次に乳首が好きだよね。可愛い」
「ふぁっ、耳、囓るな!」
耳元で喋られるだけでもゾクゾクしてくるのに、耳のフチや耳たぶを唇で食んでくる伊上が恨めしい。
絶妙なタイミングで舌を這わせてくるのも、快感を助長させる。口を閉じる余裕がなく、天希の口からは甘い声がこぼれっぱなしだった。
「気持ちいい?」
「……ふっ、んっ、いい。気持ちいい」
「可愛いね」
「ぁっ」
首筋がちりっとして痕を残されたのに気づく。
ちゅっちゅと鳴るリップ音と天希の嬌声に混じり、甘い低音で囁かれる「可愛い」の言葉が耳の奥へ染み込んでくる。
(待って、俺……なんのためにここにいるんだっけ?)
「あまちゃん、ほかのこと考えない」
「やぁっ」
ぐっと腰を掴まれ、膝の上に載せられたかと思うと、伊上の足で下腹部をぐりぐりと刺激された。
胸への愛撫も続いているので、あちこちいっぺんにいじられた天希の昂ぶりが、切なげにふるふると震える。
「すごくいい眺め」
「いが、み……キス、したい」
「おねだりするときはなんて言うの?」
「こーいち、キス」
「お利口さんだね」
背後の伊上を見上げれば、瞳に熱を灯らせて天希を見下ろしてくる。
普段から名前で呼んでもいいと言われているのだけれど、名を呼ばれた瞬間の喜色を浮かべた伊上の目が天希は好きだ。
覆い被さるように身を屈めた伊上から口づけをもらい、渇ききった喉を潤す勢いで天希は彼の唇を求めた。
舌が絡まる水音と唇の合間から漏れる荒い呼気。
「はぁ……もう、イキそう」
「いいよ。いっぱい出しな」
「んぁっ、だめ、やっ、そんなにしたら……すぐっ」
首筋を吸われ、胸の先をいじられ、伸ばされた手に昂ぶるものを扱かれればあっという間だ。
こらえきれない声を浴室に響かせた天希は、込み上がる快感にぶるりと身体を震わせた。
吐き出された欲は伊上の手を濡らし、長い指の隙間からつーっと彼の手の甲を伝っていく。
気だるい感覚に、天希は胸を上下させながら呼吸をしていたが、再び口を塞がれてしまった。