甘露に沈み込むような感覚は一夜明けても抜けきらなかった。夢心地のように目が覚めて、夢でないことを噛みしめて胸を弾ませてしまうほど。
「……おい、九竜。なんだか今日は腑抜けてるな」
「ああ、野上さん」
ぼんやりと窓の外を眺めていたら、喫煙ルームのガラス扉が開いて見慣れた人が顔を見せる。ゆっくりとした歩みでこちらまでやってくると、野上は俺の隣で煙草に火をつけた。フーッと長く吐き出された紫煙が漂い、甘い煙草の香りが広がる。
「長く一緒にいるけど、お前が携帯電話を片手に煙草を吸ってるのは初めて見たな。なんだ、珍しく連絡取り合う相手でも出来たのか?」
「ああ、まあ」
「はぁ、お前がねぇ。いままで一晩限りの相手としか遊ばなかったのに。道理で今日は雨なはずだ」
昨日までの天気予報は降水確率もゼロの晴れマークだった。しかし朝になるとしとしと降り続く雨。窓ガラスの水滴を見つめながら、俺を揶揄する野上は肩を揺らして笑った。
「そんなにぼんやりしてしまうほどいい相手だったのか?」
「滅多にお目にかかれない極上品だ」
「女か?」
「いや、男だ。女に負けないくらいの色っぽい綺麗な男だよ」
「ふぅん、お前が言うんだから相当だな」
興味深そうな顔で目を細めた野上に苦笑いを浮かべていると、ふいに携帯電話が震える。メッセージを受信したそれに視線を落とすと、まだ見慣れない名前が目に留まった。長塚竜也――見た目と裏腹に男らしい名前だ。
俺の名前に同じ漢字を見つけて、一緒であることを嬉しそうにしていた。普段ならそんなくだらないことはどうでもいいが、あいつが言うとそれもなんだかひどくいいことのように思えてしまう。
「あーあー、だらしない顔しちまって。惚れたのか」
「……どうだろうな」
「惚れただろう」
「……まあ、そうかもしれないな」
ニヤニヤと笑みを浮かべる野上に押し切られるように肯定してしまった。だが珍しく相手に興味が湧いている。普段なら言われた通り一夜限りの相手としか遊ばない。情を湧かせた相手に言い寄られるのが面倒だからだ。
けれど昨日会ったばかりの竜也とは、連絡先を交換してしまった。また会いたいという甘えた言葉に易々と乗せられていた。
「ついに九竜も収まるところに収まるか」
「相手が本当にその気なのかわからないがな」
「いつになく弱気な発言だ。本気で惚れたんだな」
「見た目がこの上なく好みなんだ」
「よっぽど美人なんだな」
見た目があれほどでなかったら、最初の接触の時点で追いかけていなかった。おそらくそのまま通り過ぎていただろう。一目見た時からひどくそそられるものがあった。だから興味を引かれて追いかけてしまったのだ。
「今日は会いに行くのか?」
「まあ」
「それなら残業せずにまっすぐ行けよ」
「え? 新しい案件、これからだろう」
「お前が午後の仕事をフルパワーでやっつけてくれればなんてことない」
「俺任せかよ」
ニヤリと笑みを浮かべて野上は煙草をねじり消すと喫煙ルームを出て行った。その後ろ姿にため息がこぼれたが、携帯電話のメッセージを見下ろすと口の端が持ち上がる。
「フルパワーでやるか」
浮き立つ気持ちとは裏腹な短い返信をして、携帯電話をジャケットに突っ込んだ。そして短くなった煙草を押しつぶして、野上のあとを追うようにガラス扉を押し開けた。
午後の仕事は大きなトラブルもなく順調に進んだ。いつも以上にやる気を見せる俺に同僚たちは目を丸くしていたが、野上だけが訳知り顔でにやついていた。最後の打ち合わせが終わる頃には、その顔はさらに楽しげなものに変わった。
それでもその顔を無視しながらさっさと仕事を切り上げる。もちろん明日のスケジュール組みまで終わらせた。納期のある仕事なのでスケジュール調整は必須だ。
「野上さん、九竜さんがなんか鬼のように仕事こなしていくんですけど」
「まあまあ、いいじゃないか。早いに越したことない」
「じゃあ、俺は帰る」
十九時きっかりにパソコンを落とす。あまりにも早い行動に全員呆気にとられていたが、そんなことは気にせずに早々に会社を出た。
目的の駅までは電車で三駅ほど。混雑した電車に迷わず乗り込み先を急ぐ。
しかし思えばこんなに早く会社を出るなんてここ最近なかったなと、少ししみじみしてしまう。一時間二時間の残業は当たり前。仕事の納期が近づく頃には終電間際の帰宅も余裕であるくらいだ。
毎回こんな時間に会うことは出来ないだろうが、いまのうちだけでも時間を作りたいと思う。それほどまでに会いたいのかと少し自分でも驚いてしまうけれど、これも熱に浮かされているいまだけかもしれない。
そのうち熱が冷めたら少しは冷静さが戻ってくるだろう。しかしいつか飽きて手を離す時が来ると言うのはあまり想像ができない。あれを手放すなんてもったいなくて出来やしないだろう。
だからいつかこちらが愛想を尽かされるんじゃないかという懸念がある。だがそんなことをいまから考えていても仕方がない。その時はその時だ。
「九竜さん、いらっしゃい」
マンションに着いて、部屋の呼び鈴を鳴らすと数分もしないうちに扉が開かれる。至極嬉しそうな顔で出迎えられて、また気持ちが浮き立った。このいちいち反応してしまうところに自分で呆れてしまうが、目の前の笑みにそんなことは帳消しにされる。
「どうぞ入ってください」
「仕事は一段落したのか?」
「はい、九竜さんが来るってわかったら捗りました」
男性恐怖症気味な竜也は、会社勤めが苦手なため在宅の仕事だ。家にこもりきりだが時間が自由でいいと笑っていた。数年ほど会社勤めもしていたようだが、セクハラがひどくて続けられなかったらしい。
まあ、こんな美人がいたらそわそわして仕事にならないだろう。俺だって会社に竜也がいたら気が気ではない。
「あ、ご飯まだでしょう?」
「作ったのか?」
「ええ、簡単なものですけど。あ、迷惑でした?」
「いや、ありがたい」
「よかった」
ふんわりと笑った顔がやけにあどけなくて可愛い。その表情に思わず手を伸ばせば、目を瞬かせて驚きをあらわにする。しかし驚きはしたが、俺の手を避けることなく大人しく頬を撫でさせた。
それに気をよくしてゆっくりと顔を近づければ、頬を染めながら目を伏せる。
「……んっ」
食むようにやんわりと唇を味わう。厚みのある唇はマシュマロのように柔らかく、不思議と甘さを感じた。それと共に食らい尽くしたい衝動に駆られる。けれどその感情はなんとか押しとどめて唇を離した。
けれどうっとりとした目でこちらを見上げる表情に、胸を鷲掴まれるような思いがする。
「いまは飯よりあんたが食べたいな」
「……昨日の続き、してくれますか?」
「もちろん。今日は最後までしてやるよ。ベッドに行くか?」
「はい」
従順な瞳が期待を孕んで艶めく。その目にいますぐこの場所で目の前の身体を暴いてやりたい気持ちになるが、乱暴にしたいわけではない。もう一度優しく口づけてから廊下の先へと足を進めた。
リビングと続き間になっている寝室に足を踏み入れると、竜也は待ちきれないと言わんばかりに抱きついてくる。
「そんなに続きがしたいのか」
「はしたなくて、すみません。でも九竜さんに触れられるの好きです。こんなにドキドキするの初めてで」
「可愛いことを言うんだな。うんと甘やかしてやらないといけないな」
両手で頬を撫でるとその先を請うように顔を上げた。けれどじっと視線を絡めたまま見つめ続ければ、ぎゅっと目を瞑り、耳まで真っ赤に染めながら触れるだけの口づけをしてくる。
押し当てられるだけの拙いキス。色気なんてものはないが、それでもたまらなくそそられた。舌を伸ばして唇を割ると、応えるように開かれたそこから赤い舌が覗く。おずおずと差し伸ばされたその舌は、俺のやり方を辿るように絡みついてくる。
「女より男のほうが感じるか?」
「わ、わからないです。これがそういう気持ちなのか、九竜さんだからして欲しいのか」
「後者のほうが俺は嬉しいけどな」
「ぁっ」
恥じらいながら目を伏せるその顔に誘われる。シャツの裾から手を忍ばせれば、インナーを身につけておらず、なめらかな肌に触れた。大胆に手を這わせて胸の尖りまでたどり着くと、それを指先で押しつぶしながらきつくつまみ上げる。
「ぁ、んっ」
それだけで竜也の身体は跳ね上がり、腰を揺らめかせた。