知らなかった素顔
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 無遠慮に口の中に突っ込まれた舌に、好き勝手に撫で回される。舌を噛んでやろうか、そう思うけれど、それもできずに天希は身体をよじる。
 それでも振り上げた手で雪雄の身体を力一杯叩いた。

 しかし天希をその気にさせるのに必死なのか、怯んだ様子を見せない。それどころか勝手に身体をまさぐりだして、肌が粟立つ。
 乱雑に股間に手を伸ばされ、ベルトを外されそうになり、天希は彼の唇を噛んだ。

「サイテーだ、お前」

 辛うじて目尻に留まっていた、涙がこぼれ落ちる。悔しくて唇を引き結ぶと、雪雄の顔は戸惑いに変わった。
 しかし彼がとっさに天希に手を伸ばした瞬間、さらに後ろから手が伸びてくる。その手は雪雄の後頭部を鷲掴んだ。

「触るな。誰のものに手を出している」

 地を這うような声――形容するにはぴったりな言葉だ。ひっと小さな悲鳴を上げた雪雄は顔を蒼白にして、顔を歪める。そして力ずくで身体を沈められ、地面に膝をついた。
 逃げるように彼が身体を丸めると、容赦なく横っ腹を蹴り飛ばされる。呻いた雪雄は腹を抱えて、胃液を吐いた。

「ゆ、雪雄っ」

 驚いた天希が声を上げれば、目の前に立つ人物が雪雄の襟首を掴んだ。

「ああ、早川雪雄、か。……お前の借金、チャラにしてやってもいいぞ。その代わり、四肢を刻んで魚の餌にしてやる」

「おい、物騒なこと言うんじゃねぇよ」

「物騒? どこが? 当然の代償だ」

 暗がりに射し込んだ月明かりで、ようやくそこに立つ人の顔が見えた。いつものにこやかさが欠片もない、冷ややかな表情。
 大きな手で雪雄の首を掴んだ彼は、そのまま指先に力を込める。それにためらいなど微塵もない。

 どんどんと白くなっていく幼馴染みの顔を見て、天希は慌てて彼の背中に飛びついた。

「伊上っ、やめろよ。死んじまう」

「殺してやろうと思っているからな。人のものに手を出した挙げ句、泣かせておいて、ただで済むと思ってるのか?」

「い、が……み?」

 ひゅっと息を吸い込んだ、雪雄がガタガタと震え出す。視線を持ち上げ、彼の顔を見た瞬間、もがくように暴れ出した。けれど伊上はそんな彼を虫けらのように壁に叩きつける。

「伊上! やめろよ! 俺は、こういうの嫌いだ!」

 額から血を流しながら後ずさる雪雄に、さらに追い打ちをかけようとする。彼を天希は必死で引き止めた。身体に腕を回して、力一杯抱きつくと、伊上は踏み出す足を止める。

「はあ、本当に君はお人好しだな」

「伊上」

「そういうところが、気に入っているんだけれどね」

 大きくため息をつき、呆れた顔で振り返る。けれど天希を見る顔が次第にいつもの笑顔を浮かべ、優しい手に目尻に溜まっていた涙を拭われた。
 ほっと息をつくといきなり両手に抱え上げられ、天希は慌てて首にしがみつく。

「まったく、デートの予定が総崩れだ」

「伊上、あの」

「君の幼馴染みにはそれ相応の対価は払ってもらう」

「さっきみたいなこと、すんの?」

「いや、僕は温厚なただのサラリーマンだからね」

 ちらりと後ろに視線を送ったけれど、伊上は天希を腕に抱いたまま路地を抜けた。車道にはいつもの車が止まっていて、すぐ傍に見慣れない顔の男たちが立っている。
 二人の男に伊上が目配せすると、彼らは先ほどの路地裏へと消えた。

「眼鏡、作りに行こうか」

「えっ? あ、ああ、うん」

 数分前の緊迫が嘘のような穏やかさ。いつものふんわりとした空気に、いささかついていけないけれど。ここはこの空気に従うのが正しいのだろう。
 運転席に乗り込んだ伊上を見ながら、天希は小さく息をついた。

 争いごとを好まなさそう、なんてとんだ勘違いだ。人を一人くらい、簡単に握りつぶしてしまいそうな一面を持っている。
 これまで彼の側面しか、見ていなかったのだと痛感した。現実味のなかった彼の肩書きが、いまになって突きつけられる。

 自分の平凡な日常――それとは大きくかけ離れている世界。きっと想像なんて追いつかないような。それなのに優しく笑いかけられるから、天希は離れられない気持ちになる。

「あまちゃんの眼鏡姿、ちょっとえっちで可愛いよね」

「えっ、ちっ? どこが!」

 こんな時間に眼鏡屋などやっているのか、そんなことを思ったけれど。平凡なサラリーマン、ではない彼には造作もないことだ。
 閉店した店でのんびり選びたい放題だった。

 しかし天希としては、眼鏡など毎日かけるわけではないので、なんでも良かった。それなのに自分のことのように、真剣に悩んでいる横顔がある。

「このフレームの色、いいね。あまちゃんに似合うよ」

「って、何本目だよ。俺は一本あれば十分だ」

「んー、また壊しちゃったら困るしねぇ」

「そうそう壊れねぇよ! てか、近いって」

 先ほどから伊上は天希の腰に腕を回し、べったりだ。店内に誰もいないけれど、そわそわとした気持ちにさせられる。
 しかし文句を言いながらも、気分はいい。近づくほどに伊上の甘い匂いが香って、天希は胸をときめかせた。

 とろみを感じるような甘い香り。たとえるなら蜂蜜のような。けれど匂いはきつくない。それどころかその匂いに包まれてみたいとも思う。

「あまちゃん? 顔を赤くしてどうしたんだい?」

「な、なんでもねぇよ。それより、そんなにいらねぇからせめて二本にしろ」

「そうだね。あ、眼鏡は明日でも平気?」

「え? まあ、バイトの時にあれば」

「じゃあ今日はお願いして、明日取りに来ようか」

 数本のフレームの中から、さっと二本だけ取り上げた伊上は、カウンターへと向かう。あんなにあれこれ悩んでいたのに、一瞬だ。
 端からもう決まっていたかのような、早さ。

 それに面食らい、天希は肩をすくめる。
 視力検査は先に済ませてあるので、彼が注文をしているあいだ、店内をぶらぶらとした。店の時計を見ると二十二時を回っている。

 このあとは? なんてことを考えると、落ち着かない気持ちにさせられた。数時間でクリスマスイブ――お預けはクリスマスまでか。
 あの時の反応を見たあとでは、期待をせずにはいられない。少しは自分に執着してくれている。そう思わずにいられなかった。

「あまちゃん、お待たせ」

「うん」

「ご飯、食べに行く? お腹空いただろう?」

「うん」

 小さな期待を湧かせながら、天希は彼の隣に並び立つ。そっと手を握られて、胸を高鳴らせたのは言うまでもない。

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