Key02

 ある日突然、一方的に――いや強引に突きつけられたものは、俺の想像を斜め上を行く内容だった。その中身が親公認というのが更に納得がいかない。
 俺の人権は? 意志は?

「どこにやったぁっ!」

「なに? どうしたの慎一さん。朝から騒々しいね」

 白々しいくらいに爽やかな笑みを浮かべて首を傾げる、この男こそ最悪。俺の災いの元凶だ。
 向島隼人――母方の従兄弟である隼人は、十年ぶりに俺の目の前に現れたかと思えばとんでもない厄を持ち込んだ。

「あれどこにやった」

「あれってなに?」

 怒鳴る俺に反して、隼人はニコニコと柔らかい笑みを浮かべこちらに歩み寄ると、俺のワイシャツのボタンを上まできちりと留め、首にぶら下がるネクタイを器用に結ぶ。
 そして「うん、バッチリ」と小さく呟き、再び何事もなかったかのように、俺に背を向け台所に立った。

「しらばっくれんな」

「はいはい、朝御飯だよ。慎一さん座って」

 尚も言い募る俺にくるりと振り返った隼人はニッコリと微笑んだ。しかしムカつくぐらいにイケメンオーラ満載なその笑みは、優しげに見えて有無を言わせない微かな殺気に似た気配がある。
 その事はここ一ヶ月ほどで嫌と言うほど追い詰められ、身に染みて覚えた。だが、もういい加減この男に振り回されるのはこりごりだ。

「朝飯どころじゃねぇ」

「食べないの? のんびりしてると遅刻しちゃうよ」

 俺の声など華麗にスルーして、ダイニングテーブルの上に艶やかな白米が盛られた茶碗、だしの香りが食欲をそそる味噌汁を並べる隼人。
 一人暮らしじゃ忙しくて絶対に朝から食えない、焼き魚に煮物、そして色見も綺麗な玉子焼きは正直今すぐ食いたい。食いたいがあれは俺にとって大事なことだ。

 大事だが――。

「……食う」

「はーい、じゃぁいただきます」

 向かい合わせに座った隼人の声と同時か、俺は食欲に負けて目の前の朝飯に飛びついてしまった。

「男を落とすには胃袋からって言うよね」

「うるせぇ」

 黙々と飯を頬張る俺を見ながら、ニヤリと笑った隼人。そうまさに胃袋を鷲掴まれると共に、弱味まで握られていく気分だ。
 一ヶ月ほど前、突然現れた隼人から突きつけられたものは「六ヶ月以内に向島隼人に恋愛感情を持ったら、婿養子に迎え入れる」というとんでもない代物だった。

 勿論、俺は隼人のようにゲイでもないし、間違ってもバイでもない。それに同意などしていないし、今後する気もない。

「お前、こんなとこで主婦みたいなことしてっけどニートだぞ。わかってんのか」

 六ヶ月後、二十一歳になったら父親の決めた相手と婚約しなくてはならなくなった隼人は、俺の母親と妹である自分の母親を味方につけてその結婚同意書なるものを作ってきた。
 しかも有名大学を勝手に退学して、実家を飛び出してきたと言うのだ。今は俺の家に転がり込み、朝から晩まで俺の身の回り全てを世話焼きしている。

「んー、だよね。俺も親の金で慎一さん食べさせていくのは嫌だったし、バイト先は考えてた」

「あん? お前、今までどっから金出してきた」

 食材の出所はなんとなく気になっていた。うちの冷蔵庫に入っているものだけでは、朝昼晩と俺に飯を用意できるはずがない。

「一応俺名義のクレジットカード」

「クレジットカード? ガキにんなもん簡単に持たせやがって。これだから金持ちの坊っちゃんは」

 しれっとした顔で答えた隼人に眉を潜めつつ、俺は食器の全てを空にして箸を置いた。

「あ、食費とかいらないからね。今までの分は自分で払うし、これからの分もちゃんと稼ぐから」

「ガキが生意気言うな」

 顔をしかめる隼人を無視して財布から万札を数枚取り出すと、俺はそれをテーブルの上に乱雑に叩き置く。
 七つも年下の男に食わされてたまるか。

「意固地だな。そういう変に頑固なとこは昔から変わらないね」

「うっせぇ」

 ため息混じりでテーブルに頬杖をつき、呆れたように苦笑する隼人に、カチンとくる。こいつはいつも、どことなく物言いが上から目線なんだ。

「でもまぁ、そういう所は可愛いなって思うよ。俺が好きになった慎一さん、想像以上に変わってなくて嬉しいし」

 俺が十七の精神年齢から変わってないと言いやがるかこの男。
 ふっと目を細めて笑う姿が様になりすぎて更に腹が立つ。半ば八つ当たりだが、今までなに不自由ない生活してきたクセして簡単に全部捨てて、当たり前みたいに物事なんでも器用にこなしてしまう隼人が、今の俺にとってコンプレックス以外の何物でもない。

「またそんな顔して。あんまり可愛い顔してると食べちゃうぞ」

「それ以上近づくな」

 満面の笑みで立ち上がった隼人の動きに、俺は反射的に後ずさりしてしまった。慌てすぎて、椅子の足が床を擦り嫌な音が響いた。そして自分で引き起こしたその音に肩を跳ね上げ、背もたれに掛けていたスーツの上着と鞄をとっさに掴むと、隼人に背は見せずそのまま俺は玄関へゆっくり後ずさりを続けた。

「どうしたの慎一さん」

 そんな及び腰な俺の姿を見つめる隼人の、語尾にハートマークでも付きそうなくらい甘ったるい声に頬が引きつった。

「なんでもない」

「ふぅん、そっか。そろそろ行かないと電車混むね」

「お、おぅ」

 ヤバい、このままだと靴が履けねぇ。
 玄関の掃きだしまで来たのは良いが、後ろ向きで革靴は無理だ。でも今は出来るだけ隼人に背中を見せたくない。一歩一歩と間合いを詰めてくる笑顔の隼人は油断ならないんだ。

「あ、こないだのまだ気にしてる?」

「してねぇよ」

「そうなんだ? 可愛い」

 笑いを堪えた隼人の喉がクッと鳴る。
 その瞬間、ビクリとしてしまった自分が情けない。つい最近、この出際に隼人に呼び止められ振り返った瞬間、いきなりキスをかまされた。本当にこの男は、一緒の空間にいるだけで油断も隙もない。

「慎一さん捕まえた」

 羞恥で顔をそらしたその一瞬、足早に近づき腕を伸ばした隼人に壁際へ追い詰められていた。
 どんだけ素早いんだこの男。

「……」

 呆気に取られている俺をよそに、隼人は至極楽しそうに微笑む。

「いつまで経っても慣れない感じがたまんなく良いよね」

「寄るな」

 近づく顔と身体を両手で押し退けようと力をこめるが、壁に手をついたまま隼人は俺の顎を容赦なく掴んだ。

「一生慣れねぇよ。何度も不意討ちされてたまるかっ! お前のストーカー行為は犯罪もんだからな。今度また部屋の鍵壊したら殺す」

「壊したんじゃないよ、壊れたの」

「んな訳あるかっ! 故意だろうが。無理やり開けなきゃあんな壊れ方するかよ」

 夜中に人の部屋へ入り込もうとしやがる隼人避けのため、内側から付けた鍵をこいつが力業で壊したのは、転がり込んで一週間後のこと。
 あれから部屋には何重にも鍵をつけた。自分の家にいて何度も貞操の危機をなど感じたくはない。

「とりあえず今は良いよ。まずはいってらっしゃいのキスから慣れてくれれば」

「慣れたく、ねぇ」

「可愛い」

 近づく顔を押し退けて、これ以上寄せぬよう距離を力一杯取る。身長差は多少あるが、力はほぼ互角だ。隼人が根負けするまで抵抗してやる。

「ひっ」

 そう思ったのも束の間。
 ニヤリと笑った隼人に指先と手のひらをベロりと舐められ、引きつった声を上げてしまった。その声は思いきり上擦り、ますます隼人は楽しげに笑う。

「隙あり」

「あ、やめ……ん、んーっ!」

 思わず手を引っ込めた途端、それを見計らっていたように隼人の唇が落ちてきた。人の唇を強く吸いながら、取り乱す俺を嘲笑うみたいにするりと口内に舌を滑り込ませてくる。
 壁についていた隼人の手はいつの間にか、腰を抱き寄せていて、俺はすっかり逃げ場を失っていた。

「ふ、ん……ぅん」

 ジタバタと隼人の腕の中でもがくものの、それをうるさいと言わんばかりに、顎にかけられていた隼人の指が離れ後頭部をしっかりと押さえつけられた。

「や、やめっ……ろ」

 尚も抵抗を試みるが、悲しいくらいに全くビクともしない。それどころか呼吸さえまともに出来ないくらい口内をまさぐり、舌を吸われる。半ば開けっ放しの口からこぼれる唾液が、どちらのものかわからないほど、何度も何度も角度を変えながら口づけられた。
 その度にぐちゃぐちゃと舌が絡み、唾液が混ざり合う音が聞こえてきて、気が遠くなりそうになる。

「ぅ……ぅん、もう、やめ」

 酸欠で頭が朦朧としてきてるのはわかる。でも変に身体まで熱くなって来てるのには気づきたくなかった。
 とっさにほんの少し身体を捩ったら、急に腰を強く引き寄せられた。

「可愛い」

「……」

 突然解放されぼんやりする俺の耳元へ、内緒話するかのよう唇を寄せた隼人は、ふっとそこに息を吹きかけ、いきなり耳の中に舌をねじ込んだ。

「ひ、わっ」

 よくわからない悲鳴を上げた俺などお構いなしに、舌はいやらしいぴちゃぴちゃという水音を立てて中を這いずる。時折耳の輪郭まで舐めあげられ、今度は背中の辺りがぞわぞわしてきた。

「隼人、や、やめろ」

「どうして? 気持ち良いんでしょ?」

 まだ逃げようとする俺に呆れているのか、隼人は目をゆっくりと細めて、顎に垂れた唾液を舌先で拭う。その瞬間、思わぬ刺激に身体がビクリと跳ねてしまった。

「違っ」

「嘘ばっかり、ここは正直なのに」

「うわっ、馬鹿、やめろっ」

 寄せた腰と腰とを擦り合わせられ、腰が引けた。少し反応を見せていた俺と、デニムの上からでもわかるほど明らかに硬くなっている隼人のものに、もう泣きたくなってきた。

「お前はっ、なんで勃ってんだよ!」

「だって慎一さんが可愛い顔してとんでもなくエロい声出すから」

「そんな声出してないっ」

 今なら羞恥で死ねる。男にキスされてちょっと良い気持ちになってる自分を、今すぐ抹殺したい。

「会社休んで続きもしようか」

「やっ、休まねぇよ! 続きってなんだ続きって!」

「わかってるくせに」

 完全にドン引きしている俺を無視して、またキスをしようとする隼人の気配に、精一杯の力で俺は身を捩り逃げを打った。しかし隼人の腕が緩んだのは一瞬で、すぐさま背後から抱きしめられてしまった。

「これこのままにして会社行くの? 電車混んでるかもよ。そんなエロい顔してたら痴漢されちゃうんじゃない?」

「誰もしねぇよっ! そんな変態お前くらいだ。ってか触んな馬鹿」

 背後を取られたら、ますます不利な体勢になったような気がする。腰の辺りから前に回された隼人の腕は、ガッチリと人の身体をホールドしてる。しかも片方はこともあろうか、人の股間に遠慮なしに伸ばされた。
 そこを肩越しに覗き込む隼人の息が耳にかかる。どことなく熱いそれに顔が紅潮するのが自分でもわかってしまう。

「ほら、このままじゃ可哀想でしょ」

「触んなって」

 わざとらしく形をなぞるように指を這わせる隼人の動きに、身体が小さく震えた。

「可愛いなぁ、ホント。彼女とかいなくて良かったよ」

「良かねぇよっ! 絶対すぐに作ってやる」

 別に俺だってモテない訳じゃない。会社でもそれなりのアプローチはあるし、最近はいないが彼女の一人や二人いないことの方が少なかった。ただ今は昇任して仕事も忙しくて少し面倒くさくなっていただけで。こいつの現れるタイミングが悪すぎるだけなんだ。

「ふぅん、じゃぁ俺は全力で邪魔してあげる」

「マジやめろっ! 遅刻する」

 首筋に感じた生暖かい感触と、チリチリとした鈍い痛みに肩が跳ねる。

「だから、休んじゃいなよ」

「ざけんなっ、ニートが偉そうに言うなよ」

 世の中そんなに甘くないんだよ。この金持ち坊っちゃんは発想が軽すぎる。
 苛っとして思いっきり腕を振り上げたら、さすがに肘鉄を食らうのは避けたのか、ため息混じりに隼人は一歩後ろへ下がった。

「ちゃんと仕事するって言ってるでしょ?」

「さっさと働いて出てけ」

「駄目だよ。慎一さん六ヶ月は置いてくれるって言ったじゃない」

「お前がこんなに最悪だってわかってたら言わねぇよ。大体な、俺はあれに同意した覚えないからな。どこやったんだよ」

 そうだ――すっかり忘れていたが、あの同意書とやらの行方がわからないのだ。初めて隼人がうちに来た時に見たきりで、どこかへ隠していているらしく、いくら家探ししても見つからない。
 あれに署名捺印することはあり得ないが、その存在が気になって仕方がない。今すぐにでも破棄してやりたいのに、いつも隼人は笑って同意書のありかをはぐらかす。

「教えない。慎一さんが俺と一緒にいたいって言うまでは内緒」

「……ぜってぇ言わねぇぞ。お前の誕生日には無効な紙切れにしてやる」

「どぉかなぁ。楽しみだね」

 ふふっと綺麗な笑みを浮かべる隼人の表情には、相変わらず腹黒い何かを感じさせる。
 この微笑みを見るたび、絶対にこの男の良いようにされてたまるかと決意を固める俺がいた。