二人で交わす酒
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「すみません。まだ時間、大丈夫ですか?」

「ああ、そろそろ」

 礼斗が一人でのんびり酒を飲んでいたら、ふいに格子戸が開く音がした。もう閉店間際で、こんな遅い時間に客かと腕時計に視線を落とす。
 二十一時半を回ったところなので、残業帰りのサラリーマンかなにかだろうと思い、気にせずまた酒を口に運んだ。

「あれ? アヤ?」

「え?」

「やっぱりアヤだ。偶然だね」

 思いがけず名前を呼ばれて、礼斗はとっさに振り向いてしまった。のれんをくぐって現れた長身の男。
 それは今日も一日、言い合いを繰り広げた相手、直輝だ。

「お知り合い? どうぞ。なんなら座敷にでも」

「なっ、馬鹿っ! 余計なこと」

 しれっとした顔で、直輝を招き入れる幼馴染みに、礼斗は小声で文句を言う。けれど素知らぬふりで、どうぞどうぞと、信昭はさらに彼を席へと勧めた。

「アヤ、久しぶりに一緒に飲む?」

「……や、俺は」

「彼、なんだろ? せっかくの運命的な出会いだ。仲直りしてこいよ」

 信昭は及び腰になる礼斗を、せっつくように肩を叩いた。
 その手を払いながら、なんとか回避する策はないか、必死で考えを巡らせる。だがじっと見つめられると、言葉が続かない。

「アヤ?」

「い、一杯くらい、なら。付き合ってやってもいい」

 結局言えたのは、まったく可愛げのない言葉で、礼斗は自分自身にげんなりとした。
 それでもどこか嬉しそうに笑みを返されて、渋々とっくりとおちょこを手に、座敷へ移動する。

「いつもここに来てるの?」

「まあ、たまに、……よく?」

「どっちだよ、それ」

 なぜだかはっきりしたことが言えずに、もごもごとしていると、直輝はぷっと吹き出すように笑った。
 昔と変わらない笑み。久しぶりに笑った顔を見た。再会してからずっと、顔を合わせれば口論ばかりで、そんな余裕もなかったことを思い出す。

 あの頃よりさすがに大人びてはいるが、無邪気な笑顔を見ると懐かしさを覚える。しかしまじまじと、礼斗が見つめていることに気づいたのか、直輝は訝しげな顔をした。

「どうかした?」

「なんでもない。それより飯は食ったか?」

 ぱっと視線をメニューに向け、礼斗はそれを目の前の直輝に差し出す。いまだに窺うような目をしているけれど、彼は黙って受け取った。

「ご飯は食べてきた、けど。なにか、お酒と一緒につまみたいな」

「おーい、信昭! いまなにがある?」

「んー、魚が余ってる」

「余ってるとか言うな! 刺身か? 煮付けか?」

「刺身かな」

「じゃあ、それと……焼酎、水割りで。あ、芋があったよな、そっちにして。あとは」

 カウンターのほうを向いて、お通しを準備している信昭に注文を告げると、ちょいちょいと隣を指さされた。
 それにつられて礼斗が向かいを見ると、直輝がなんとも言えない苦笑いを浮かべている。

「あっ! あんたは魚あんまり好きじゃなかったな。いつも飲むの、芋焼酎じゃなかったっけ?」

 自分が一方的に注文を決めてしまったことに気づき、慌ててメニューに視線を向ける。そうするとそんな礼斗を見て、直輝はふっと柔らかい笑みをこぼした。

「うん、芋焼酎の水割り。よく覚えてたね。最近は魚も食べるようになったし、刺身でいいよ」

「……そうか。じゃあ、それで」

「アヤは変わらないな。仕事場では鬼気迫る感じがあって、びっくりしたけど。普段は昔と一緒だ」

「あんたも大して変わってない」

 酒に口をつけながら、礼斗は目を伏せた。
 強がりを言った自覚はある。あれから六年ほど経ったけれど、直輝は随分と男らしくなった。

 昔はまだ幼さもあって、可愛いところも大いにあったが、いまは前より顔立ちも精悍で、意志の強い眼差しには男の色気があった。
 身体付きも以前にも増して逞しく見える。抱きしめられると、すっぽり収まる感じが良かったよな、などと考えてしまうくらい。いまも直輝は礼斗の好みど真ん中だ。

 しかしそれを言葉にするのは、さすがに躊躇いを覚える。ちらりと見た指には、指輪の痕は見当たらない。
 とはいえ――信昭の言葉に乗せられたのだとしても――好みだから寄りを戻したい、は自己都合すぎる。

 どうせ戻っても、仕事と一緒でぶつかり合うのが目に見えていた。また喧嘩になるよりも、遠くで眺めているだけが丁度いいと思えた。

「アヤ」

「ん? ああ、ぼーっとしてた」

「結構飲んでる?」

「別に、それほどじゃ」

 ふと礼斗が視線を落とすと、いつの間にかテーブルの上に、刺身の盛り合わせが載っている。
 直輝の手元には水割りのグラス。信昭が来たことにも気づかないくらい、ぼんやりとしていた。

 黙って見つめられていた直輝は、居心地が悪かったのかもしれない。
 礼斗がもう一度視線を向けると、彼の目線は手元へ落ちた。けれどそんな小さな仕草よりも、動かす箸先のほうが気になった。

「あんたさ、なんでいつもそう……刺身にびちゃびちゃ醤油をつけるの? 味がわからなくなるだろう」

「え? 普通じゃない? アヤがつけなさすぎるんだよ」

「そんなにつけなくても、素のままでも旨いと思う」

 醤油に浸す勢いで、刺身をくぐらせる直輝に、礼斗の眉間に深いしわが刻まれた。だがその表情に彼は、不思議そうな顔をして首を傾げる。

「そう? でもここの刺身醤油はおいしいから、もうちょっとつけて見なよ」

「だから! つけなくたって、……いや、えっと」

 思わずムッとしたが、礼斗はまたけんか腰になるところだったと、紡ぎかけた言葉を押し止めた。
 そんな礼斗の反応に、直輝がまっすぐとした眼差しを向けてくるので、ますます言葉が継げなくなった。仕方なしにいつもより多めに醤油をつけると、礼斗は刺身を口に運んだ。

「どう?」

「ん、まあ」

 醤油のしょっぱさが、もっと先に立つと思っていたけれど、案外さっぱりと食べられる。それどころかとろりとした刺身醤油は、ほのかな甘みがあり、魚の脂と相まって旨味が増すように感じた。

 黙って礼斗が口を動かしていると、直輝はにこにことした笑みを浮かべる。その顔にふと、いつも自分が一方的にキレるから、喧嘩に発展するのかと気づいた。

「う、旨いよ」

 ここは素直に――そう思い立って、礼斗は精一杯の笑みを浮かべて見せる。すると目の前の顔が、呆気にとられた表情に変わった。

「やっぱりアヤ、酔ってる?」

「はっ? 酔ってねぇよ!」

 ひどくぎこちない笑いをした、自覚はあったけれど、あからさまに驚かれて、恥ずかしさのあまり礼斗は悪態をついた。
 その気持ちを助長するように、カウンターのほうからは信昭の笑い声が聞こえてくる。

「お兄さん、気をつけたほうがいいよ。その人、酔うと絡むから」

「……知って、ます」

「信昭は引っ込んでろ!」

「今日は酔っ払っても、うちに泊めてやらないからな」

「酔ってないって言ってんだろ、馬鹿!」

 まだ腹を抱えて笑っている信昭に、礼斗は舌打ちして酒をあおる。けれどなにげなく視線を目の前へ戻すと、やけに真剣な眼差しがあった。

「なんだよ」

「アヤ、あの人と付き合ってるの?」

「は? なに言ってんだよ。あいつは、ただの幼馴染みだよ」

「すごく穏やかそうだし、きっと優しいんだろうね」

「確かにあいつは、いいやつではあるけど。それとこれとは別……って言うか、なにを怒ってるんだよ」

 急にむっつりとして、黙々と酒を飲み始めた直輝に、首を傾げずにはいられない。グラスに焼酎をロックで注ぎ始めるのを見ると、さすがの礼斗でも焦りが湧く。

「あんたこそ、飲み過ぎじゃないか?」

「全然」

「んー、まあ、いいけど。あんたは酔っ払っても潰れないし」

 機嫌を損ねた理由はわからないが、明日になれば戻っているだろう。その時は、のんきにそんなことを考えていた。

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