常連客の話を聞きながらカウンターの中で客の好みに合わせて酒を作る。シェイカーを振ることも多いが、カクテルの基礎であるビルド、ステア、ブレンドそれぞれの技法もひと通り覚えた。
ウィスキーは柚崎から指導を受けてまだまだ勉強中だが、有名どころに至ってはほとんど覚えた。
「糸瀬くん」
あともうひとつの仕事と言えば、時折名指しされてホールにオーダーを取りに行くことか。甘味もうまいと評判がいいので女同士のグループ客も多い。そういった客は柚崎か俺をオーダー指名してくる。若さが取り柄のバーテンか、壮年の色気が売りの店長かと品定めされるわけだ。
大学進学とともに始めたこのバイトは三年目、営業スマイルも板についたものだ。だから今日もそつなくこなし、いつもと変わらぬ一日を終えるつもりでいた。
「いらっしゃいませ」
けれど扉につけられたドアベルを鳴らして入ってきた客に気づき、視線を向けた俺は一瞬そのまま固まったように動けなくなった。
その場の社交辞令のようなものだと思っていた。名刺を興味深げに見ていたが、今日その日に来るとは思いもよらなかった。お互いそのまま忘れてしまうのだろうと思っていた。
「啓、お客様」
ふいに耳元で名前を呼ばれて、手にしていたグラスを滑り落とすところだった。ひとり慌てふためいている俺の横で、小さく息を吐きながら柚崎がカウンターの上にそっとメニューを滑らせる。
「こんばんは、さっきはどうも」
「いえ、無事にお店には行けましたか」
俺をまっすぐに見つめ、微笑んだその表情に言葉はそれしか出てこなかった。うまく愛想笑いが出来ていないのか、口元がなんだか引きつったような違和感を覚える。
「ああ、行けた。用事は早く済んだから来てみた。君、中と外だと雰囲気違うな」
「そうですか?」
「髪型、かな。髪の毛を後ろに結わえてるし、あとは話し方が違うからさっきと別人みたいだ」
「一応仕事なので」
頬杖をつきながら小さく首を傾げた彼は少し酔っているのか、ほのかに頬が赤い。酔うほどに誰と飲んできたのだろうと、余計なことが胸の奥から湧き上がって俺は瞬きをしてその感情を追い払った。
「どうぞ、キューバ・リブレです」
「ああ、ありがとう」
酔っている彼は初めて出会った時よりも饒舌だった。飲んでいない時と酔いが回り始めた頃では雰囲気が変わる。その変化はどこか無防備で、目が離せない気分にさせられた。
そんな彼がいつしか店の常連になった頃、少しずつ彼のことがわかり始めた。
名前は砥綿将吾、アパレルショップに勤めている。歳は二十九歳、俺の八歳上だ。店には週に二度三度、休みの前日は閉店近くまでいることが多い。けれど酒は好きなのだろうが強くはない印象だ。
「将吾さん、そろそろ」
「あー、うーん」
今日は休み前なのか随分のんびりしている。いつもより飲んでいる量も多い気がした。あまり飲ませすぎるのはバーテンとしては見過ごせないので、程よい加減でとめておくのも仕事の内だ。自分の限界を知っている相手には不要な配慮だが、彼は絶対にとめたほうがいいタイプだと思った。
「啓は明日も大学か?」
「え? ああ、午後からですけど」
「バイトが終わったら一杯付き合わないか」
思わぬ申し出に少しだけ心臓が動きを早めた。けれどそれとともに警戒心も芽生える。じっとこちらを見る黒い瞳はまっすぐと俺を捉えている。なんだか喉がカラカラに乾いたみたいな錯覚に陥り、思わず唾を飲み込んでしまった。
「将吾さん飲み過ぎじゃない?」
思う気持ちとは裏腹に言葉は警戒心を選んだようだ。顔を合わせる機会も話をする機会も増えて、自分の中にある違和感には気づいていた。それがなんなのかも気づいていた。けれどそれは手を伸ばしていいものではないのだということにも、充分すぎるほど俺は気づいている。
だから彼にこれ以上近づいてはいけない、踏みとどまるしかないのだ。
「なんだ俺とは飲めないのか? 柚崎さんの話ではお酒強いらしいじゃないか」
「今度ね、今日は飲みすぎだよ」
グラスに水を注いで差し出すと、彼は一瞬むっと顔をしかめた。けれどそれは見ないふりをして、俺は小さく笑う。それ以外に出来る反応が見つからない。こんなにも自分は不器用な人間だっただろうか。
「柚崎さーん、今日は啓を持ち帰りしてもいいか」
「ちょ、ちょっとなに言ってんですか」
閉店も近いので客は数える程度しかいないが、急に声を上げた彼に視線は自然と集まる。
「砥綿さんならいいですよ」
彼の声が響いたのかキッチンのほうから顔を出した柚崎は、なんてことないような口ぶりで快諾する。そしてそんな言葉に俺は軽いめまいを覚えた。急いで柚崎のもとへ行ってその身体をキッチンに押し戻すと、俺は思いきり目の前の肩を叩いてしまった。
「おいおい、そんな泣きそうな顔で見るなよ」
「誰がそんな顔にさせてるんだよ」
うるさいくらいに心臓の音が耳元で響く。どうしたらいいのかわからなくて、肩口に押し当てた拳を握り締めて視線を落としてしまった。
「脈はあるからちょっとは気合入れていけよ」
「は? なに言ってんの、あの人どう見たってノンケだろ。脈なんてあるわけないだろ。大体」
「しっ、声」
突拍子もない言葉に、まくし立てるような勢いで喋ってしまい、思わず声が大きくなりそうになる。けれど口元で人差し指を立てた柚崎の手のひらに言葉は吸い込まれた。けれどなんだかそれが悔しくて、奥歯を噛み締めてしまう。
子供っぽい感情表現なのはわかっていても、胸の中でくすぶる感情はなかなか消えてはくれない。目の前の人は自分よりもずっと大人なのだと嫉妬に似た気持ちが湧き上がってくる。
「しょげんなよ。俺が手放した意味ないだろ」
「……悪い」
額を指先で弾かれて言葉が喉奥に詰まる。けれど俺を見つめる視線には非難するようなものは欠片もなく、少しばかり呆れたような優しい色だけが浮かんでいた。
「わかればいい。まあ、俺はお前がまともな恋愛するまでの繋ぎ役だったからな」
「そういう言い方するなよ」
あの日あの時までなにもかもが順風満帆だった。なにひとつ不自由さも不足もなく過ごしていた。それなのにいつの間にか俺の中には行き場のない気持ちがあふれて、いまでは時折息をするのも苦しいほどだ。
大きな手のひらに久しぶりに頭を撫でられて、思わず鼻をすすってしまう。
「けーい?」
けれど自分を呼ぶどこか子供みたいな甘えた声が聞こえて、俺はその声にすぐさま反応してしまった。
「ほら、しゃんとしていけよ」
頬を軽く二度三度叩かれ、身体をくるりと反転させられた。そして押し出すように背中を叩かれて、思わず喉が熱くなりそうになった。
決して愛情がなかったわけではない。あの時まではまだ背中を押すこの手をこの人を愛しいと思っていた。けれどあの人に出会ってしまい、あの人から目が離せなくなってしまってからは、いままでの自分が足下から崩れ去っていくような気がした。経験したことのない高揚感、焦燥感。もどかしさが胸に広がる。
「なに、なんの相談?」
「将吾さんのウザ絡みにつき合って来いって」
「別に、嫌ならいいんだ。俺は無理強いしてるつもりないから」
ツンとひねくれたことを言う天の邪鬼な口も、もはや可愛いとしか思えない。大体こちらが本当に手を放そうとすれば、不安げな眼差しを俺に向けてくるのだ。さらに放置したならば見る間に自己嫌悪で肩を落とすことだろう。
「俺のマンション、この近くなんだけど。うちで飲みます?」
「学生の分際で、この近所ってことはいいとこに住んでるんだろう」
「まあ、そこそこ。どうします?」
脈が本当にあるなら思いきり押してやる。そう強気なことを思いながらも、少し逡巡した表情を見せる彼に表では涼しげに笑いながら、裏では俺の心臓はおかしいくらいに早くなっていた。握り締めた手のひらには汗が滲んでいる。
「明日休みだし、泊めてくれるなら行ってやってもいいぞ」
そしてその言葉に内心ガッツポーズをしてしまった。