長編

末候*梅子黄(うめのみきばむ)

 居間と台所の間にある柱には、小さな傷がある。たくさん、というわけではないが、暁治の腰くらいの高さから、肩の辺りまでさまざまだ。 その犯人の一人である暁治は、刻まれた傷のひとつをするりとなでた。 柱の傷がどうのと言ったのは、端午の節句の歌だ…

初候*螳螂生(かまきりしょうず)

「ねぇっ、はるっはるっ!」 背中から声をかけられて振り返ると、赤茶色の髪をした少年が、手にした枝をゆらゆらと振った。 青々とした葉をつけた、のびやかな若枝だ。「ねぇ、これって、お豆腐みたいじゃない?」 言われてみると、枝の先にふわふわぷるん…

末候*麦秋至(むぎのときいたる)

 この歳になって、指切りをすることがあるなんて思いもしなかった。目の前で結ばれた小指と小指。ぶんぶんと縦に振られるそれを暁治は呆れたような目で見つめてしまった。「ゆ~びきりげんまん、うっそついたら針千本の~ますっ」 どこ間延びしたような歌声…

次候*紅花栄(べにばなさかう)

 絵を描くのが好きで、子供の頃から色々なものを描いてきた。けれどただ一つだけ、暁治には苦手なものがある。それは――人を描くことだ。これだけは昔から得意ではなく、絵の品評会などでは見向きもされない。 ひどくデッサンが崩れているわけでも、ひどく…

末候*竹笋生(たけのこしょうず)

 子供のころはさほど気にしたことはなかったのだが、採れたての野菜の美味さは格別だ。 野菜はもいだ瞬間から味が落ちる。 先日も兼業農家を営むお隣の山田さんが、差し入れのトマトを食べて唸る暁治を見て、胸を張って言ったものだ。とうもろこしもキャベ…

次候*蚯蚓出(みみずいづる)

 ――解せぬ。 徒歩で三時間ばかり歩いた山道。その先にあったのは、白い河原と澄んだ水の流れる川だった。キャッキャうふふとはしゃいで釣り糸を垂れる少年二人を横目で見つつ、暁治は岩のひとつにぐてりと腰をおろした。 なんであいつらはあんなに元気な…

初候*蛙始鳴(かわずはじめてなく)

 そういえば、ここは田舎だったな。 色々あって超してきて早四ヶ月。確かに周りは田んぼや畑。駅まで遠いわ、家の前の路は辛うじて舗装されてはいるものの、近所のバス停から学校へ向かう道すがらはまだ砂利道という。 もしかしてここは新しい年号を迎えて…

末候*牡丹華(ぼたんはなさく)

 気にかけたのなら、きっといまよりもっと――そう言われてからしばらくして気づいた。校舎の中で生徒たちと会話を交わす赤朽葉色。 これまで目に映っていなかったものが、ふっと現れたような不思議な感覚だけれど、おそらく単にタイミングが合わなかっただ…