あれから仕事は定時きっかりに終わった。いや、終わらせた。
時刻が切り替わった瞬間に席を立ち、周りに挨拶を済ませるやいなや、雄史は会社を飛び出した。待ち合わせ時間には十分余裕があるのに、なぜだか気持ちが急いている。
駅までの道のり、メッセージを打ち込んで、志織にこれから向かうことを連絡する。ここから急行電車で十二、三分ほど。時間には早いので、駅前で待てばいいだろうと思った。
しかしすぐさま来た返事には近くにいるから待っている、との文字。
それを目に留めると、不思議と胸がわくわくとして、気持ちを表すように自然と唇が笑みをかたどる。
電車に乗って、移り変わる駅の表示案内を眺めた。一つ、二つ、指折り数えるような気持ちになりながら、駅に到着すればまた飛び出すように電車を降りた。
平日の真ん中にもかかわらず、繁華街であるこの駅は今日も人が多い。そんな人波をすり抜けて、雄史は目的の場所へと急いだ。
うんざりするほどの人の多さ、その雑踏の中でもあの人は特に目を惹いた。
広場のコーヒーショップのワゴン。その傍に立つ人を見つけて、急いでいた雄史の足がふいに止まった。
決して大柄ではないけれど、男性らしい広い肩幅と、長い手足は周りと比べても歴然の差があった。
グレーのミリタリージャケットに白のニット、スリムなブラックデニムが様になっていて、惚れ惚れするほどだ。
それとともにふと自分を見下ろして、雄史は眉間にしわを寄せる。今日はわりと新しいスーツを着てきたけれど、ノーマルなグレーにネイビーのストライプネクタイ。
それほど決まっているわけではない。
あれほど格好いい人の隣を歩くことが、なんだか申し訳ないような気になった。
それでも遠くを見ていた視線がこちらを向き、雄史を認めた途端に、ブルーグレーの瞳が柔らかな色を見せる。
その眼差しを見ると、気後れしていた気持ちが前を向く。いつもより幼さを感じさせる表情が可愛くて、立ち止まっていた足が自然と前へ出た。
傍まで行くと、志織は優しく頭を撫でてくれる。
「お疲れ」
「志織さんお待たせしました。早かったのに、待っててくれてありがとうございます」
「いや、いいよ。……ん? どうした?」
「な、なんでもないです」
じっと見つめていると、にこやかな笑顔が訝しげな表情に変わり、慌てて雄史は首を振って誤魔化した。今日の彼は遠くから見ても、いつもより機嫌が良さそうに見えたが、近くで見るとそれがよくわかる。
自分との時間を楽しみだと言ってくれていた、あの言葉は社交辞令ではなかったのだなと、ひどく嬉しくなった。
「まだちょっと時間ありますね。どうしましょうか」
「近くをぶらつくか。なにか見たいものはあるか?」
「んー、とりあえず道すがら」
「そうだな」
頷き合うと目的地の方角へ歩き出す。
賑やかな街なので、歩いているだけでも色々なものが目に留まる。けれど雄史はつい隣の顔を見つめてしまい、そのたびに振り返られて頬が熱くなった。
いつもカウンター越しで、向かい合うことがほとんどだったから、こうして隣を歩くのがとても新鮮だ。気持ちがふわふわと浮き上がっていくような気になる。
「あ、志織さん! これ、お店にどうですか?」
「ん? どれ?」
小さな雑貨屋に立ち寄って、ふと雄史は目に留めたものを、棚から取り上げる。振り向いた志織の目先に差し出せば、彼は瞳を瞬かせてからじっとそれを見つめた。
それは銅製のメモ差しで、カフェで伝票をまとめておくのにいいだろうと選んだ。けれど雄史がそのメモ差しを選んだのには意味がある。
デザインが志織の好きな猫をモチーフにしていたからだ。
猫の後ろ姿が可愛いそれは、しっぽにメモを挿せるようになっている。色合いはトルコ石に似た水色に近いブルー。穏やかなカラーなので、店の片隅にあっても景観を邪魔しないだろう。
渋めのブラウンもあったけれど、雄史的にはこちらが可愛いと思った。目の前の反応を窺うと、少し目が輝いているように見える。
にゃむを飼っているだけあって、猫が好きなのは最初からわかっていたが、彼はなかなかの猫マニアだった。カフェの小物に猫グッズが多いのだ。
レジの横にある卓上カレンダー、傘立て、シュガーポット、ナプキンスタンド、トイレットペーパーボックス。
主張するほどではないが、店の中にはワンポイント、猫があちこちに散りばめられている。以前お店の名前にちなんで? と聞いたら、それもあるけれど好きだから、とこっそり教えてくれた。
「すごく可愛いと思いませんか?」
「うん、可愛いな」
「じゃあ、買ってきます!」
「え?」
「いつもご飯とかご馳走してくれるから、お礼です」
なにか言いたそうに口を開いた志織が、言葉を発する前にくるりと雄史は方向転換する。そして足早にレジへと向かった。ぼんやりしていると、彼にプレゼントするタイミングがなくなる。
「えっと、この包装紙で、リボンはこれ! これがいいです。あ、これも一緒に。……あ、待ってください。こ、これも」
「かしこまりました」
レジの横にあった木製の猫型クリップとメモ帳。それもチョイスして、しっかりと小箱に入れてもらい、ブルーシルバーのリボンを結んでもらった。
誰かにプレゼントを贈るのは、久しぶりの行為で気持ちが少しばかり高揚する。本当はもっとたくさん、箱の中に詰め込みたかったのだが、もらうほうも気が引けるだろうと思った。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます!」
満面の笑みで紙袋を受け取ると、受付の女性にまで笑みが移ったのか、にっこりと笑い返された。その反応が少し照れくさくもあったけれど、雄史はウキウキとした気持ちを隠さず踵を返す。
手にした小さな重みに、顔が緩んで仕方がなかった。
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