キッチンいっぱいに広がる甘ったるい匂い。シルバー製のボウルの中、ゴムベラで掻き回される見るからに濃厚で甘そうなそれは、慣れない不器用な手に絡みつく茶色い甘い雫。
それに悪戦苦闘しながら神谷雪羽はそろそろ深夜と呼べる時間、午前一時半を迎えていた。作り始めたのは家族の皆が寝静まった一時少し前。今はこんなにも時間がかかるものなのかと若干飽きて、それを持て余し始めた頃合である。
けれど微かにため息を吐きつつも、雪羽は作業をやめることはしなかった。そして更に三十分くらいが過ぎた頃、とりあえず形になったものを見下ろした。
「こんなもんか?」
シルバートレイの上に点々と並べられたそれを見つめながら、雪羽は思わず首を傾げる。形になったはいいが目の前にあるそれは些か微妙である。しかしまた同じ手間を繰り返していたら、朝になってしまいそうな気もしていた。
「ちょっと雪羽なにしてんの?」
「……っ!」
しばらく悩んでいると、誰もいないはずの場所でいきなり名前を呼ばれる。その声に雪羽は大げさなほど肩を大きく跳ね上げた。聞き覚えある声を恐る恐る振り返れば、姉の鞠子がキッチンの入り口で訝しそうな表情を浮かべている。
その存在を認めると雪羽は慌てて姉に向き直り、キッチンテーブルに置かれたものを背後に隠した。しかし時すでに遅く、それは鞠子の目に留まってしまう。彼女は小首を傾げて不思議そうに慌てふためく雪羽を見つめた。
「なにそれ、チョコレート?」
「なんでもいいだろっ、なんでこんな時間に起きてんだよ」
無遠慮にキッチンへ足を踏み入れてくる鞠子から、なんとかそれを隠そうと雪羽は両手を広げてジタバタするものの、肩ごしに覗き込まれてしまう。
高校一年になりながらもまだ百六十センチほどしかない雪羽と、女子高生にしては背の高い百七十五センチの鞠子では、簡単に見下ろし背後を覗けてしまう身長差がある。雪羽の必死な抵抗虚しく、それをまじまじと見た鞠子は目を丸くした。
「これどうするの? 誰にあげるの?」
「……えーと、ひ、日向」
姉の性格上、口を噤んでも口を開くまで追求されるのは目に見えていたので、雪羽は渋々といった態で小さく名前を紡ぐ。
すると鞠子は眠たげな眼差しを一転し、目を見開き驚きをあらわにした。その表情の変化は驚きよりも驚愕の方がしっくり来るなと、雪羽は重たいため息を吐きながら思った。
「ひゅうがって、あんたと同じ一年の葛原日向? なんであんたがあの男にチョコレートなんか作ってんの? あいつは黙ってても腐る程チョコもらうわよ」
「わ、わかってるよ。でもあ、あいつが欲しいって言うから」
驚きで上擦っている鞠子の口から出た言葉に、自然と雪羽の口が引き結ばれる。葛原日向という男は、雪羽から見ても同じ年齢とは思えないほど大人びていて男前で、学年問わず女子達から人気がある。
男から見てもその作りの整った顔は、嫉妬を通り越して羨望の眼差しを向けてしまうほどだった。雪羽のように背も低く、顔も平凡でなんの取り柄もない人間からすると雲の上にいる存在のような人、だった。
「その地獄絵図みたいなのを本気であげるの?」
「形悪いけど、味は悪くねぇよっ」
ムッとして顔をしかめる雪羽を尻目に、いつの間にか自分の横に立ち、チョコレートを見下ろしていた鞠子が苦々しい顔でそれを指差している。
確かに型を取っていないのでそれは丸くも四角くもない。溶けかけたスライムのような、いびつなチョコレートだと雪羽自身も思っていた。けれど他人に指摘されると少しばかり腹立たしく思える。
一番小さく形の悪いものを摘み鞠子に差し出すと、彼女は恐る恐ると言った様子でそれを手のひらで受け取り口に運んだ。しかしチョコレートを口に入れてしばらくすると、目を丸くして瞬きを繰り返した。
「あ、ホントだ。美味しいこれ。ナッツとかドライフルーツ入ってる」
「それ以上は食うなっ」
二、三個更に摘んで食べ始めた鞠子の手を雪羽は慌てて止める。この調子では目の前のチョコレートが、自分の努力の結晶が姉の腹に収まってしまう。
「ねぇ、あんた達ってほんとに付き合ってるの?」
冷えて固まったチョコレートを小さな箱にそそくさと詰めていた雪羽の手が、鞠子の一言で止まる。しかし返事をしかねて身動きさえも出来ずにいる雪羽の反応に、長いため息を吐き出した鞠子が肩をすくめた。
「うちの高校一の男前が、よりによってあんたを選ぶとはねぇ。姉として同情すら感じるわ。女子から虐められてないの? なんかされたらあたしに言いなよ」
見下ろされる視線を感じてちらりと雪羽が視線を持ち上げると、腕組みをした鞠子が小さく首を傾げる。
平凡な弟のコンプレックスでもある平凡ではない姉。背も高く目鼻立ちがはっきりとした美人。性格もサバサバとして男気にも溢れている。しかし小さい頃から姉はいつでも弟の味方であった。
「虐められてはねぇよ。たまに性格きっつい女子もいるけど、一応俺も男だし」
「ふむ、否定もないってことはやっぱり付き合ってるんだ」
「悪いかよ」
長い髪をかき上げながら目を瞬かせた鞠子は、ほんの少し拗ねたような顔をする弟をじっと見つめた。確かに雪羽は一見するとそう目立つ存在ではないが、明るい性格と勝気で素直で優しいところが魅力であると鞠子は思っている。実際にそれゆえ昔から上辺ではない友人にも恵まれていた。
男前であるが、気難しいと評判の葛原日向が振り向くには充分な要素はあるとも思えた。この可愛い雪羽を独占したくなる気持ちは鞠子にもよくわかる。日向などにくれてやるには惜しいと、正直言えば今そう思ってさえいる。
「別に悪くはないけど、嫌になったら即行で振ってやるのよ」
「なんだそれ」
本音で言ったつもりの鞠子だったが、それを冗談で受け止めたらしい雪羽は吹き出すようにして笑う。いつも雪羽はくしゃりと表情を和らげて至極楽しそうな笑顔を浮かべる。この世界で一番可愛い弟をやはりくれてやるのは惜しいと鞠子は改めて思った。
「よし、出来た」
不器用な手で箱にチョコレートを収め、これまた不器用な指先で雪羽はその箱にリボンをかけて結んだ。そして満足げに口角を上げて、いそいそとそれを冷蔵庫へしまう。
「雪羽、もう寝なよ。あたしが後片付けしておいてあげる」
「は? てか姉ちゃんなにしに来たの?」
「喉が渇いて目が覚めたの。あんたがちんたら片付けてたら朝になるわよ。それでなくても朝ギリギリなんだから早く寝なさいよ」
犬猫でも払うように片手を振られて、雪羽はほんの少し躊躇したが「わかったよ」と呟くと姉の言葉に従った。何度も振り返る度にさっさと行けと言わんばかりに手を振られ、「おやすみ」の言葉と共に雪羽は二階の自室へと向かうべく階段を上った。
部屋に戻って着替えをして布団に潜れば、雪羽は数分も経たぬうちに寝入っていた。普段しないことをして余計疲れていたのかもしれない。そしてそんな疲れは深い眠りへと誘う。
眠りからふっと意識が浮上した時には、部屋に鳴り響く破壊力抜群な強力目覚まし時計の音と、部屋の扉を叩く音。そして「早く起きなさい」と言う母の怒声が響いていた。
それに気がつき雪羽はハッとして目が覚めた。慌てて身体を起こして目覚まし時計に手を伸ばすと、ガンガンと鳴り響くアラーム音を止める。それと同時か部屋の扉を叩く音も止んだ。
「雪羽、早くしないと遅刻するわよっ」
扉の向こうから聞こえてきた母親の声に、手元の目覚まし時計に視線を落とした雪羽は慌てすぎて、ベッドから転がり落ちた。時計の針は七時半を過ぎている。あと三十分で家を出なければ遅刻ギリギリの電車に間に合わなくなってしまうのだ。
寝間着を脱ぎ捨てた雪羽は制服のズボンを穿いてシャツを羽織ると、ネクタイやブレザーをハンガーからもぎ取り抱える。そして携帯電話を鞄の中へ突っ込み、それを掴んで部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、手にしたものを一階のリビングにあるソファに放り投げ、洗面所に駆け込む。顔を洗い寝癖を急いで直して、そこですでに十分経過していた。
「雪羽、トーストくらい食べていきなさい。お昼までもたないわよ」
ダイニングには毎日の光景に呆れた表情を浮かべる母の姿しかなかった。姉や父はもう学校や会社へ向かってしまっている。今日は早く起きて余裕を持って出掛けるつもりでいた雪羽だったが、目覚まし時計を早めることをすっかり忘れていた。
制服をきちりと着替え終え、「いただきます」と立ったままトーストやホットカフェオレを口にする雪羽に、母親は苦笑いしか浮かべない。けれど時間ギリギリになろうとも、出されたものは残さず食べるのが雪羽だった。
「ごちそうさま」
そして食べる前とあとには必ず挨拶も忘れない。
また洗面所へ走り歯磨きを終えた雪羽は鞄を掴み玄関へ走る。しかし慌てた様子で母は雪羽を追いかけてきた。
「雪羽、雪羽っ、待って忘れ物。鞠子が絶対忘れるから渡してって言ってたけど本当ね」
「あっ」
振り向き様に小さな紙袋を差し出されて、雪羽は一瞬冷や汗をかいた。今日一番重要なものを忘れる、という大きな失態を犯すところだった。深夜に鞠子に見られていなかったら、学校に着いてからその失態に気づくところだったと、心臓が走ったあとのように早鐘を打つ。
「さ、さんきゅ」
受け取った瞬間、あとで鞠子に礼を言わなければと雪羽は小さく紙袋に頭を下げた。
「じゃ、行ってきます」
玄関扉を開けて飛び出すと、鞄を肩にかけ雪羽は紙袋は振り回してしまわぬように小脇に抱えた。駅まではいつものダッシュで五分、なんとか間に合うと確信すれば、安心感からなのか、それともこれからのことへの高揚感からなのか自然と雪羽の口元には笑みが浮かんだ。
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