二人で抱きしめ合って、二人の音が混ざり合うような不思議な感覚になった。触れている熱が伝わっていくようで、ひどく安心する。胸元に頭を預けている日向の髪を撫でながら、雪羽は愛おしさが募るような温かい気持ちにくすぐったさを覚えた。それでもその気持ちがなによりも大切に思えて、日向への想いの深さを実感する。
「日向が育ったところはどんなだった?」
「大きい綺麗な街だった。観光客もよく訪れるような誰もが見知ったところだ。俺みたいな人間でも生きていくのに息苦しさはそんなに感じなかった。批判や反対がなかったわけじゃねぇけど、この国ほど閉鎖的じゃない」
「そっか、日向は息苦しかったんだな。気づいてやれなくて、ごめんな」
「別にいいさ。俺も大して気にしてない。それに家に帰りゃそんなこと誰も気にしないしな。俺は恵まれてるよ」
「そうだな。いい家族だと思う」
初めて日向に家族を紹介された時、雪羽はひどく怖くて足が震えていた。一体どんな顔をされるのだろうと、正直言えば胸が押しつぶされそうなくらい不安で仕方がなかった。けれど日向が引き合わせてくれた家族は、一度も嫌な顔を見せずに雪羽を迎え入れた。
そのことに驚きはしたが、同時に日向の振るまいがなぜあんなにもまっすぐなのか、その理由に気がついた。胸に芽生えるその感情をいままで日向は否定されたことがない。
間違いであるとは誰も言わなかった。それも確かな愛情の一つなのだとみんなに愛されてきたのだ。決してその環境が悪いわけではない。その理解が得られなくて苦しんでいる人は多くいる。
けれど場所が変われば人も変わるのだと言うことを誰も教えてくれなかった。それにいま気づかされて、日向は胸を痛めている。雪羽が人の目にさらされて、自分だけの感情ではどうにもならないことがあるのだと現実を突きつけられた。
「雪羽」
「なに?」
「きっとこの先もこんなことが起きるかもしれない。それでもお前は俺と一緒にいるか?」
「……そんなこと、今更聞くなよ。俺は、日向だから好きになったんだ。男だとか女だとか、そういう問題じゃない。一緒にいるのが本当に楽しいし、本当に一緒にいるだけで幸せなんだ。多分、俺はあそこで日向に出会った時から、ずっと好きだった」
初めて日向と顔を合わせた日のことは、いまでも鮮明に雪羽は思い出せる。それは時折紛れ込んでくる猫が雪羽の足元を通り過ぎた時だ。
小さな野良猫はお腹が少し大きくて、どこか居場所を探しているようだった。それに気がついた雪羽が慌てて自分のブレザーを脱いで抱き上げた時、猫は甘えるような声でひと鳴きした。そしてその鳴き声に気づいた日向が教室の戸を開けて、初めてまっすぐに二人の視線が重なり合った。
けれど出会った頃の日向は、雪羽に対してまったくの無関心でひどく素っ気なかった。それでも小さな動物に向ける笑みは優しくて、さらに小さな子猫が生まれる頃には、時々その笑みを雪羽に見せてくれるようになった。
「葛原、もう一ヶ月くらい経つし、猫の里親どうしたらいいと思う?」
「里親? 別に無理に引き離すことはねぇだろ。子育てしてんだし」
「え、でも学校に野良猫が増えるとまずいだろ。五匹もいるのに」
のんびり母猫がタオルの上で寝そべる傍らで、まだ小さい子猫が日向の持つ猫じゃらしに飛びついている。放課後の喧騒が窓の外から届く秋冷の候。和やかなその光景は随分と見慣れてきた。それをしみじみ実感しながら、ふっと柔らかい笑みを浮かべた横顔を雪羽はじっと見つめる。
一緒にいてなにか特別な会話をするわけでもない。ただ猫と戯れて、ぼんやり時間を過ごすだけ。それでもその瞬間が心地いいと雪羽は感じていた。いままでの友達とはどこか違う不思議な感情が胸の中に生まれてくる。けれどその感情と共に戸惑いも生まれた。それはうまく整理できない、つかみ所のない想いに心を引っかかれるような感覚。
「もらい手がいないか聞いておいてやるよ」
「あ、うん。俺も誰かいないか聞いてみる」
「お前ら、母さんとはお別れだってよ。いまのうちに精々甘えておけよ」
小さな子猫たちを一匹ずつ優しく撫でる手。どこか寂しさを滲ませる綺麗な横顔。なぜだかそんな仕草や表情に胸を高鳴らせてしまい、その感覚に雪羽は何度も首を傾げた。胸から聞こえてくる鼓動が少しずつ早まって、日向が訝しげに振り返った瞬間、それは跳ね上がる。
「神谷、熱でもあるのか? 顔が真っ赤だぜ」
「あ、いや、なんでもない。ちょっと、用事を思い出したから、帰るな」
どんどんと早まる鼓動にうろたえる。自分がどこかおかしくなったんじゃないかと、そんな焦りさえ湧く。けれど声を聞いただけで胸が甘く痺れるようになる、それ自覚をするのにそれほど時間はかからなかった。
ずっと横顔を見続けて、それが振り向いて、優しく笑みを浮かべた時からもう、心にある針は刻刻と想いを刻み始めていた。その感情を自覚したらあっという間だった。気持ちが溢れて、どうしたらいいかわからなくなる。知られるのが怖くて、会いたいのに会えなくなった。
「神谷、最近来ねぇけど、なんかあったか?」
「いや、ちょっと色々予定が立て込んでて」
「ふぅん、それはそうと。最後の一匹、もらい手が決まったから」
「そ、そっか、じゃあもう、会えないな」
初めて教室までやって来た日向に、雪羽の心臓は壊れそうなくらいドクドクと脈打ち鼓動を早めた。話す声は少し上擦って、それを誤魔化すのも必死になる。しかしそれと同時に、もうこうして会うこともできなくなるのだと知って、避けてしまった時間が惜しくなる。
こんなことになるならもっと傍にいればよかった。もっと思い出を作っておけば――それなのに、なんの躊躇いもなく目の前に携帯電話が差し出された。
「神谷の連絡先教えろよ。猫の写真送ってやる」
「え?」
「え、じゃねぇよ。ほら出せ」
「あ、ああ、うん」
携帯電話に日向の名前があることにどれほど胸が騒いだかわからない。そんな食い入るように携帯電話を見つめる雪羽に「またな」と言って日向は優しく頭を撫でてくれる。遠くなる背中が滲んで見えるくらい胸が締めつけられた。もうこれ以上望んでは罰が当たるのではないかとさえ思えた。
「なあ、神谷」
「ん? なに?」
それでもなに気なく名前を呼ばれるだけでも気持ちは高まった。けれど苦しいくらいの感情を胸の奥底に押し込めて、雪羽は無理矢理に笑みを浮かべていた。目に映る感情が、大きく変化していたことにも気づけないくらいの余裕のなさで。だからそれはひどく突然で、思いがけない出来事だった。
それはいつものように旧校舎の教室で一緒に母猫と戯れていた時だ。なにか特別なきっかけがあったわけではなかった。
けれど振り返る笑みが穏やかになり、触れる手が優しくなって、名前を呼ぶ声が甘くなって――見つめる目に熱がこもるようになっていたことに気づいた時には、唇にぬくもりが触れていた。
「神谷、俺はお前のことが好きだ。神谷の傍にいると、すごく安心できる。だからこれからもずっと、俺の傍にいてくれないか」
目を丸くする雪羽に向けられたのは、想像もしていなかった言葉だ。
出会った時のことを忘れられないくらい覚えているのに、その時のことを雪羽はあまり記憶に残していない。それでも感情の糸が切れて、堰を切ったように泣いてしまったことだけは覚えている。
その日から二人は少しずつ歩み寄った。それまでの時間をやり直すみたいに、ゆっくりと時間をかけて想いを育て、それが解けないようにしっかりと結び目を作った。そして返事をする決断ができずにいた雪羽が日向の想いに応えたのが、今年の初めのこと。
「日向は俺の気持ちに気づいていたんだろう? だから応えてくれた」
「どう反応してやるのがいいのか、確かに悩みはした。お前は俺と違うって感じてたし。けど悩むよりも自分の気持ちに気づくほうが早かった。俺の言葉は嘘じゃねぇよ。雪羽だから傍にいたいって思えたんだ。他人が傍にいてあんなに落ち着けたのは雪羽が初めてだった」
「俺もさ、初めてだよ。あんなに自分の感情に振り回されて、どうしたらいいかわからなくなったの。だから、今更、もうやめようとか言うなよ。日向言ったじゃん。別れようとか、そんなの一切受け付けないって」
「……そうだな、今更だな」
「日向?」
ふいに身体を持ち上げた日向が雪羽の顔をのぞき込み、光を含んだ茶色い瞳がまっすぐに雪羽だけを映し込む。ただそれだけのことなのにたまらなく胸が震えて、雪羽の目に涙がじわりと浮かんだ。それをこらえるように唇を噛みしめると、そこにあの日のように優しい口づけが与えられる。
「雪羽、俺はこれから先もお前のことを手放してやらねぇよ。だから嫌になったって言っても無駄だからな」
「それは俺の台詞だ! 日向が飽きたって言ったって、俺は別れてやらないからな」
「だったら、俺たちはずっと一緒だ。誰になんて言われたって、俺が雪羽を」
「俺が日向を」
「守る」
「守るから」
――勢い込んだ二つの声が重なって、静かな部屋の中に響き渡る。その声にお互い驚いて、二人で顔を見合わせて吹き出すように笑い合う。その瞬間の空気が穏やかで、胸が甘く痺れてどんどんと高鳴っていく。
「好きだって思った相手が日向でよかった」
「俺みたいないい男はそうそういねぇからな」
「馬鹿、自分で言うなよ」
「本当のことだろ」
自信たっぷりに口の端を持ち上げて笑う日向に思わず笑いが込み上がる。それと共に目尻溜まった涙がこぼれ落ちて、濡れたその感触に瞬きをすれば、まつげから振り落とされた涙が雪羽の頬を濡らした。
「雪羽はやっぱり泣き顔も可愛いな」
「そういうの、ちょっといやらしくて変態くさい」
「なんとでも言え、お前の全部が可愛い」
こぼれ落ちた涙は柔らかな唇が拭い去ってくれた。そしてなだめすかすみたいに口づけをされて、ほんの少し癪だと思ったがそれでも雪羽の顔には笑みが浮かんだ。
「雪羽」
「ん?」
「いいことしようぜ?」
「馬鹿っ! いまは、しない」
「いまは?」
「……だから、いまは、しない、って」
「じゃあ、キスだけ、雪羽がして」
しぼんでいく声に甘えを含んだ言葉とやんわりと細められた目が向けられる。そんな気持ちを見透かすみたいな意地の悪い日向の顔を、じとりと睨むが先を急くように目を閉じられた。キスを待つその顔にむず痒い照れくささを覚えるが、雪羽は乱雑に日向の顔を掴み勢い任せに口づけた。
その勢いに歯と歯がぶつかった感触がする。けれど甘くもないそのキスに、目の前の顔は幸せそうに綻ぶ。
「可愛いな」
「か、可愛くないっ!」
「雪羽、愛してる」
「真顔で言うな恥ずかしい!」
むずむずとする心がその想いが嬉しいのだと伝えてくる。一緒に過ごす時間はなによりも愛おしさを募らせた。見つめ合うたびに恋しさが増して、触れ合うたびにそれが満たされていく。そんな瞬間が、二人の日々を色鮮やかに染めて、笑い声が重なるたび幸せが二人を包む。
君との日々がこの先ずっと続くように、これからも高鳴る想いを抱きしめていたい。
Days with you/end
2019/1/5
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