相手が自分より非力な生き物だと思うと、躊躇いが生まれる。しかし冷静になれ、これは我が人生において、もっとも危機的状況だ。
しかし勢いを付けて身体を起こそうとすると、次は腰をつつつ、と指先がなぞる。
するとまたぞわりとした感覚が広がって、固まったように動けなくなった。え、ちょっと待って、俺ってこんなにあちこち弱かったっけ?
いままでの自分を思い返しても、ここまで反応してしまうほどひどくはなかった。
頭の中で疑問符が飛び交って、焦りまで湧いてくる。ちらりと見上げれば企みを含んだような瞳で見つめ返されて、また汗を掻くような気分になった。
「こ、これ以上は本気でやめて!」
「え? まだこれからですよ?」
「ほんとにほんとに! 嫌いになるから!」
ちょっと子供みたいなこと言っているなと思ったけれど、嫌いになる、の一言が効いたのか手が止まった。じっと見つめてくる目が、時折パチパチと瞬いて、小さな顔が傾げられる。
次の反応を待つと人差し指を口元に当てて、んーと悩ましく眉を寄せた。なにを考えているのかわからないが、どうかまた突飛な方向に行きませんように。
「柚人さん、僕のこと好きなんですか?」
「えっ?」
「嫌いになるってことは好きっていうことが前提ですよね?」
「あー、そうねぇ。き、嫌いではないっすよ」
年のわりに、こういう細かいところにすぐ頭が回るのがちょっと怖い。なにげなく発した言葉を、さっとすくい取られて、それを目の前に突きつけられる感じがすごく苦手だ。
よく言えば聡い、と言うところなのだろうが。
「嫌いじゃないってことは好きですか?」
「ふ、普通?」
「……ふ、つ、う?」
あ――しまった、今度は機嫌を損ねたかもしれない。綺麗な顔が不服そうに歪んで、眉間にしわを刻んだ。
しかし人として嫌いか、と言われたらそこまで嫌いじゃないし、かと言って好きだと好意を寄せるほどではないし。
それ以上の言葉が見つからなくて、どうしようかと考えを巡らせていると、ふいに肩を掴まれて覆い被さられた。
驚いて身を固めたら、首筋に噛みつかれて牙が当たる。かじり付くみたいにがぶがぶと噛まれて、慌てて小さな身体を押し離した。
「い、痛いっすよ」
「僕は怒りました。普通って裏を返せば、なんとも思っていないってことですよね?」
「……うっ、でも俺はその場をやり過ごすための嘘は好きじゃないっす」
むぅっと口を尖らせて不機嫌をあらわにする拓実は、ちょっと目が据わっている。たまに怒ってご機嫌斜めになることはあるけれど、いままでで一番のお怒りのようだ。
だからと言って嘘をついて好きだ、なんて口が裂けても言えない。
子供のご機嫌取りなんて、口先でなんとでもなるだろうと、大抵の人は思うのかもしれない。
しかし嘘をついて喜ばせておいて、本当はなんとも思っていないと言うのは、子供であれ大人であれ俺はいいこととは思えない。
「拓実くんは言葉だけの好きが欲しいんすか?」
「……僕は柚人さんに好きになって欲しいです」
「人の気持ちを力ずくでなんとかしようとすれば、逆に離れていくものだと俺は思ってます」
「じゃあ、どうしたら僕のこと好きになってくれますか?」
「物事には順序ってものがあるんすよ」
「順序?」
不思議そうに首を傾げるこの少年に、どうして大人たちは大事なことを教えないのだろう。物事はスキップして進んだほうがいいこともあるが、人の気持ちはそれに追いつかないことが多い。
はい、俺はまったく追いついてません。って言うかこんな話をしていいんだろうか。これって順序立てて俺を攻略してね、ってことにならないか?
「うーん、それでも大人になってもねじ曲がったままだとよくないよな」
「柚人さん?」
「仕方ないな。うん、まず、人の気持ちはお金で買えないのは覚えたほうがいいっすよ」
「お金、嫌いですか?」
「……いえ、大好きです。いやいや! そうじゃなくて! お金やものをあげて傍にいてくれる人は、拓実くんが好きなんじゃなくてお金が好きなんすよ。金の切れ目が縁の切れ目って言うでしょ。拓実くん友達はいる?」
「学校で挨拶を交わす人はいます」
ああ、ものすごい訝しげな顔になってる。頭の上にたくさん疑問符が浮かんでいるのがよくわかる。これまですべてお金で解決してきたんだな。お金に不自由していない代わりに、人の縁を結べていないなこれは。
「なにか要求されたら、ものをあげれば済むと思ってないすか?」
「みんなそれで喜びます」
「拓実くんは誰かに喜ばせてもらったことは?」
「うちにいるみんなは優しいです」
「家族以外で」
「……ない、です」
しばらく考え込んで発した言葉はやけに小さかった。改めて周りを見回して、誰も傍にいないことに気づいたのだろう。少し俯きがちになったその様子にため息をついて、俺はようやく身体を起こした。
そしてバランスを崩して、ひっくり返りそうになった彼の手を引き寄せてから、両手を前に突き出す。しばらく拓実はじっと黙ってそれを見ていたが、ポケットから取り出した小さな鍵で手錠を外した。
「ごめんなさい」
「素直に謝れる拓実くんは、まだ救いがあるっすよ」
「柚人さんは、僕がお金を支払わなくても来てくれるんですか? 面倒になって来ないんじゃないですか? いまは時給がいいから来るだけなんでしょう?」
「んー、俺もいつでも時間があるわけじゃないんすよ。大学に行って仕事もしないといけないんで」
「やっぱり」
しょぼんと肩を落とすと拓実は悲愴な顔になった。自覚がないわけではなかったんだな、これがお金が絡むからこその状況だということに。しかしそれでも根っこにある部分は、子供らしく素直なんだよな。
その素直さをもっと別な方向で伸ばしていけば、友達だってできそうなんだけど。どこでそれがひん曲がったんだ?
もしかして親か? お金を与えておけばいいだろう的な?
「まあ、いつでもは駄目っすけど。休みの日は来てもいいですよ」
「えっ!」
「休みは全部明け渡せないっすけどね」
「うちに遊びに来てくれるってことですか? 僕に会いに来てくれるんですか?」
「考えてもいいです」
「なにをしたらいいですか!」
前のめりに両手を握ってくる小さな手、がちょっとだけ震えている。なんだかこう健気な雰囲気を出されると、ほだされてしまう。
考えるだなんて、安請け合いしている自分にめまいがしそうだ。
それでもまっすぐに見つめられたら、突き放すこともできなくなる。こんなに俺、子供に弱かったかな?
「じゃあ、まずは友達になりましょう」
「友達? 恋人じゃなくて?」
「よく考えてください。拓実くんは俺のなにを知ってます? ピザ屋でバイトしている大学生、ってくらいしか知らないんじゃないっすか?」
「それは、そうですけど」
「友達に遊びましょうって、誘われたら俺だって考えます。なにごとも順序っすよ」
とりあえずいきなりの展開は避けたが、あんまり納得いってるような顔ではない。確かに恋愛の好きが先行している頭に、友達でいましょうって言われたら納得はいかないな。
それはわかるけれど、俺だってここで頷くわけにはいかない。
「ずっと友達のままってこともあるんですよね?」
「ん、まあ、でもそこは拓実くんの頑張り次第、とも言えるっすよ」
やばい、また譲歩してしまった。いつもぐいぐい来る子が、縋るような寂しい目をしていると良心が、ぐらぐらと揺さぶられてしまう。遠回しにしようとするたびに、引っ張られて傾きそうになる。
「じゃあ、僕、頑張ります! 柚人さんを振り向かせることができたらいいってことですよね!」
そりゃあそうだ。そんなこと言われたら前向きになってしまう、よな。ああ、俺って馬鹿。バカバカバカ――このままでは、どこかで押し負かされてしまいそうだ。それはいかん、それだけは!
「とりあえず最後に、これだけいいですか?」
「え?」
目を輝かせたと思ったら、ふいに頬を染めて上目遣いで見上げてくる。それに思わず首を傾げたら、俺の両手をぎゅっと握って背を伸ばして顔を寄せてきた。
その先にあるものに、とっさに反応できずに固まっていると、ちゅっと小さな音を立てて唇にマシュマロが触れる。
「友達になったらキスできないですから、仕納めです」
「いや待って! 仕納めもなにも、恋人でもないんだからしちゃ駄目でしょ!」
「でも頑張るので! すぐにキスとか色んなことしましょう」
「イロンナコトッテナンデスカ」
「うふふ、頑張って勉強します」
「シナクテイイデス」
やっぱり小悪魔は小悪魔だった。一時の情に流されるなんて、俺ってなんて阿呆なお人好しだ。結果的に、拓実の行動を助長することしかしていない現実が目の前に。
どうして毅然と断ることができなかったんだ。
おかしい、こんなはずではなかった。なんでだ、なんでかこの黒い瞳にまっすぐ見つめられると弱い。あれか! 小動物みたいだから?
「全然、これって肉食系、デスヨネー」
「お肉が好きなんですか? 柚人さんの好きなものいっぱい覚えますね」
「ああ、もうなるようになって」
「そうだ! 一緒にお風呂入りませんか? 僕、背中を流します! それで今夜はパジャマパーティーをして、一緒に寝ましょうね」
前途多難――その言葉がぴったりな、舞台の幕が上がっちゃった感じ。ウキウキした様子で見上げられて、うな垂れるように両手で顔を覆った。
そんな俺の心情など、きっとわかっていないだろう拓実は、無邪気に勢い任せに抱きついてくる。
これが夢だったら、なんて現実逃避したくなるけれど、とっても危険なハロウィンの夜はまだ続く。
どうやらこの先の道のりはだいぶ険しそうだ。
今夜はクレイジー・ナイト/end
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