シアワセ

 もしも、もしもの世界。
 いまある現実とは違う道を歩いていたら、幸せだったかもしれないと思ったことはある?

 深夜一時。突然嫌がらせかと思うほど、インターフォンのチャイムが何度も部屋に鳴り響いた。眉をひそめ、立ち上がるのを躊躇っていると、二度、三度ドアを叩かれたあとに、玄関扉の向こうで鈍い音が聞こえた。

 その音の原因に気づき、俺は大きなため息をついて渋々立ち上がった。そして鍵を外し扉を押すが、なにかがつかえて開かない。
 仕方なく力任せに扉を押してみるが、それにもたれる重量に十五センチほど隙間が開いただけだ。

「おい、こら三木。邪魔だ身体どけろ、扉が開かねぇ」

 隙間から覗くと赤茶色い癖っ毛の頭が窺える。その頭に向かって声をかけるが全く反応がない。

「寝んな、玄関の前で寝んじゃねぇ。いま起きなかったら二度と家に入れねぇぞ、いいんだな」

 扉を蹴飛ばしその向こう側にいる男を揺り起こせば、小さく身動ぎして顔を上げた。ぼんやりとした表情のまま、こちらを見上げる三木に俺は大きく息をついた。

「酔っ払いが、早く家に入れ」

 のそのそと立ち上がった三木を、今度は俺が見上げる。普段から凡庸とした顔が、酔いでますます冴えない顔になっているが、まぁこれは愛嬌だろうと、ため息混じりに肩をすくめた。
 するとますます目の前の顔は、情けないものに変わった。

「広海先輩、ただいま」

「おう」

 そう短く答えてやると、三木は突然腕を伸ばし俺の首にしがみついてきた。

「おい、とりあえず家に入れ……どうした、誰かにいじめられたか」

 首に巻きついてきた腕をそのままに、三木の身体を玄関に引き入れると、俺は扉を施錠しそのまま歩き出した。

「先輩待って、靴脱ぐ」

 引き摺られるように家に上がりかけて、三木は慌てて靴を足で蹴飛ばし玄関に転がした。

「酒くせぇぞ」

 首や頬に顔をすり寄せてくる三木に、思わず顔をゆがめる。だが後ろの男は小さく返事しながらも、背後霊の如く背中に張り付いて離れない。
 仕方なく三木を無視して、俺は先ほどまで座っていたリビングの一角に腰を下ろした。

「いま忙しいんだ?」

 テーブルの上にあるノートパソコンを覗きながら、三木が小さく呟く。

「いや、今日はもういい」

 座ってもなお離れる気がないらしい背後霊は、俺を背中から抱え込むようにして背後に座っている。腰に両腕を回し、顎を肩に置かれている状態で、どうやって仕事をしろと言うのだ。
 ため息混じりにパソコンの電源を落とし、それを閉じた。

「今日、ダチの結婚式だったんじゃねぇの。なにそんな通夜みたいな顔してんだよ」

 そうだ、今日は朝から慌ただしく準備をしていた。
 いつもは癖毛なんだか寝癖なんだか分からない頭なのに、今日はしっかりセットされている。普段着ることの少ないスーツがさらに珍しくて、馬子にも衣装だと言ったらにやけた顔しやがった。

「先輩好き」

「答えになってねぇ」

「俺はずっと広海先輩が好きだよ」

 抱きしめられてるんだか、抱きつかれてるんだか分からないくらいに、ぎゅっと三木の腕に力がこもる。
 その様子に俺は視線を落としため息をつく。

「なんか言われたか」

 気落ちしている理由がなんとなく分かった。
 恐らくいまのこの状況を誰かに言われたか、遠まわしに否定されたかのどちらかだろう。

「好きだから、ずっとずっと好きだから」

「おい、自己完結すんな。俺の意思を尊重しろ」

 ますます腕の力を込める男の頭を叩き、肘鉄を食らわすと、無理やり身体を引き剥がした。
 小さく呻いた三木を振り返れば、涙目でわき腹を押さえて、恨めしそうな顔でこちらを見ている。

「なんだ、そろそろ目を醒ませとでも言われたか」

 元々三木はノーマルだ。
 大学の時に一体なにをトチ狂ったか、突然俺に告白してきた日には自分の耳を疑った。同じ匂いがする奴はなんとなく分かるものだが、こいつに関しては完全なるノンケだった。

「俺は最初から寝てなんかいません」

「馬鹿、そういうこと言ってねぇだろ」

「俺は先輩が先輩である限り、男だろうが女だろうが、犬だろうが猫だろうが……この際、猿でも羊でも馬でも象でも、なんだって好きです」

 真面目な顔をして、息も絶え絶えに捲くし立てる三木に、思わず唖然とした。

「いや、それは俺が困る」

 呆れた目で見ながらゆるりと首を振った俺に、三木は少しだけムッと口を尖らせた。

「とにかく! 絶対に俺は広海先輩じゃなきゃ駄目なんです」

 酔っ払ってんだか、真剣なんだか分からないが。とりあえず恥ずかしいことを言っているのはよく分かる。

「で? だったらなんで落ちてんだよ」

「先輩は……もし、俺と出会わなかったら、もっと幸せになってたかもって、思うことありますか」

「は? 俺?」

 何故そこで俺に順番が回ってくるのか。

「だって、元々先輩は男の人も女の人も平気だったでしょ。しかも俺のせいで立場逆になっちゃったし」

「いや、いつでも交換してくれて構わないぞ」

「絶対嫌です」

 間髪入れずに俺の言葉を遮りながら、三木はずいと間を詰めて俺を正面から抱きこんだ。

「みんな俺が先輩に告白しなければ、先輩もいい人見つけて、もしかしたら結婚だって出来たかもしれない、とか言うんです。確かに先輩は誰が見たってカッコイイです。シュッとしてて、手のひらに収まるくらい小さいこの秀麗な顔も、ちょっときつい感じの目も、色っぽい薄い唇も、サラサラな綺麗な黒髪も、すらりとして手足の長いモデルさんみたいなとこも、全部完璧ですっ。だからいくらでも相手は選り取り見取りなのは分かってます、けど……そんなの、俺は嫌です」

「お前、うざい」

 熱弁振るう三木を冷ややかな目で見て、こちらはかなりのドン引きだ。

「あのなぁ、ほんとに選り取り見取りで選ぶような俺だったら、お前はいまここにいねぇよ」

 顔や見た目の出来がいい中にこいつがいたって冴えやしない。もしも本当に選り取り見取りで選び放題だと言うならば、普通に考えたらわざわざこいつを選ぶ理由がない。三木は背が高いばっかりで、お人好しなくらいしか取り柄のない男だ。
 先ほどからどうにも言葉が飛躍している男に、俺はうな垂れ肩を落とした。
 
「ったく、馬鹿じゃねぇの。それは遠まわしに男なんか相手にしてんなって言われてんだろうが。俺がどうこうって話じゃねぇだろ」

 三木の単純過ぎる脳みそに呆れる。どう考えたって、みんなでこいつを軌道修正しようとしてるとしか思えない。

「俺はいまが一番幸せだからいいんです。でも、先輩がそうじゃなかったらって考えたら」

 自分で言いながら、一気にテンションの下がり始めた三木に俺は苦笑いを浮かべる。

「世界中探してもそんな物好きはお前くらいだぞ」

「先輩のよさを知ってるのは俺だけでいいんです」

「だったらもうちょっと俺の気持ちも尊重しやがれ」

 全く人の気持ちを無視した言い分だ。誰が興味のない奴に好き好んで抱かれてやるか。俺にだって選ぶ権利はある。

「先輩好きです」

「なにどさくさにまぎれて押し倒してんだ、こら」

 抱きつかれたまま身体を倒されて、俺は仰向けに床に転がる。人の言葉を無視して、首筋に顔を寄せる三木の肩を叩くが、びくともしない。
 そしていつの間にかシャツを捲り上げていた手が、その内側に入り込み、無遠慮に人の身体を弄り出す。

「三木、ちょっとこっち向け」

「……? って、痛っ!」

 首を傾げ顔を上げた三木に、間髪入れずに頭突きをかませば、額を押さえて床に転がった。そしてその隙を見て立ち上がると、俺は横たわる身体を跨ぎ越し、キッチンの冷蔵庫を開く。

「先輩っ、愛がないです」

「馬鹿が、愛の鞭だ。さっさと風呂入って酔い醒まして来い」

 冷蔵庫から取り出した、ミネラルウォーターのボトルを投げ、俺はもの言いたげな三木に目を細めた。

「超特急で行ってきます」

 ボトルを受け止め慌ただしく立ち上がると、三木は足をもつれさせ、あちこちにぶつかりながら風呂場へと消えた。

「手間がかかる奴。余計なことばっか考えてんじゃねぇよ」

 もしも、もしもの世界。
 いまと違う道を選んだとしても、自分はきっといまと同じ道にたどり着いている。
 ――それがきっと一番の幸せ

[シアワセ / end]

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