決別14
112/251

 酔っ払ってなにを話したのかわからないが、見知らぬ人間に気安く名前を呼ばれることがこんなに腹立たしいことだとは思わなかった。
 ふらついて歩く彼の腰を抱き寄せて、いまここでこのどうしようもない馬鹿な人にキスをかましてやりたくなる。もちろんそんなことは実際するつもりはないけれど、この苛立ちをどこに向けていいのかわからなくなる。胸の辺りに込み上がってきたムカつきを飲み込んで、代わりに大きなため息を吐き出した。

「ねぇ、ちょっと」

 ホールでエレベーターを待っていると背後から声をかけられた。無意識に俺は険しい顔をしていたらしく、振り返った先で呼び止めた人物は苦笑いを浮かべていた。

「なにかまだ用ですか」

 振り返った先にいたのは大広間で最初に声をかけてきた男だ。細身で華奢な体型とは裏腹に、意外と立ち上がった時の背は高く、目線を下げることなく視線が合った。こちらを見ながらにこにことした笑みを浮かべている顔は、人好きする雰囲気で自然と周りに人が集まるような気安さがあるように思えた。

「これお詫びに、君にプレゼント」

 手にしていたビニール袋を差し出され、それをじっと見ていたら片手を取られそれを無理やりに持たされた。透けて見えるビニール袋の中身はどうやらビール缶のようだ。

「この人、どのくらい飲みました?」

「あ、ああ、確かね。最初に一人で飲んでた缶ビールと、うちでハイボールと焼酎とカクテル系のやつ。四、五杯くらいかな? 途中でかなりやばそうだったから止めたつもりなんだけど」

 さすがにその有様を聞いて舌打ちしてしまった。飲んでいる量もひどいがちゃんぽんにもほどがある。なにが一口なら平気だ。それだけ飲んでどうなるか考えなかったのだろうか。彼の迂闊さにまた苛々が募る。

「はは、あんまり怒んないであげてよ。なんか悩んでるぽかったよ。あ、それは聞いてないから安心して」

「それはどうも」

 苛つきがさらに顔に出たのか、男はひらひらと手を振って笑うとおどけてみせる。
 けれどエレベーターの到着音に背を向けようとした時、ふいに浴衣の袖を掴まれた。その手を見下ろしその手の持ち主に視線を向けると、にこりとした笑みを浮かべる。

「君たち、夕方この近くでキスしてたよね」

「……」

「やっぱりそういう関係なの? あ、俺しか見てないから」

 食事の帰り道か。ひと気がないと思って油断していた。いや、人がいようがどうでもよかったというのが正直なところだが、面白半分で接触されるのが一番面倒くさい。それになんとなくこの目の前の男は嫌な予感がする。

「興味本位で近づかないでもらえますか」

 あの時のを見ていたのであれば、偶然この人に声をかけたわけではないだろう。なにか意図があって近づいたはずだ。裏の見えない顔で笑う目の前の男に自然と視線がきつくなる。

「あは、そんな怖い顔しないで、その人も可愛いけど、俺が興味あるの君だし」

 袖を掴んでいた手がゆるりとした動きで俺の手首を掴む。袖口から滑り込む指先に、思い切り顔をしかめると俺はその手を振り払った。弾いた手が乾いた音を立てるが、男は驚いた様子も見せずに口元を緩める。

「男漁りたいならほかを当たれ」

「ちぇ、やっぱり駄目か。いい男見つけたと思ったのに、残念」

 目を細めた俺に男は楽しげな笑みを浮かべる。面白半分というからかいが見て取れて、かなり苛ついた気分になった。けれどそれに乗せられるのも癪で、肩をすくめて笑う男を無視してエレベーターの呼び出しボタンを押した。
 一階で停止したままだったそれは間を置かずに扉が開く。後ろから視線を感じるが、これ以上関わり合いにはなりたくなくてさっさとエレベーターに乗り込んだ。閉まり始めた扉の向こうで男はまた笑ってひらひらと手を振った。

「飲めない酒を飲んで、なにやらかしてんだよ。おかしなのに引っかかってんなよ」

 八つ当たりに近い言葉を吐きつつ、肩にかけた腕を下ろしよろめいた身体を抱きしめる。すると彼はまたすり寄るように身体を寄せてきた。酔っ払って誰にでもこんなことするんじゃないかと思えば、気が気ではない。しかしスンと鼻を鳴らし肩口に近づけると、彼は腕を俺の背に回して抱きついてきた。

「藤堂」

「匂いで人を判別するなよ」

 呂律の回っていない拙い声で名前を呼ばれて、モヤモヤとした衝動的になりそうな、どうしようもない気分に陥る。それでもどうやら誰にでもこうして触れているというわけではないようで、ほんの少しだが安心して気持ちが落ち着く。
 エレベーターが部屋の階に止まると、手を引いてそこからエレベーターホールに彼を引き出す。そしておぼつかない足取りの彼では部屋にたどり着くのは時間がかかり過ぎると判断し、俺は彼を抱き上げてさっさと部屋に戻ることにした。

「佐樹さん、水飲む?」

 酔っ払ってほとんど意識のない彼をベッドに横たえて、布団を被せる。少し窮屈そうに身じろぎはしたが、そのうち枕の端を掴み彼はそこに顔をうずめて寝息を立てた。

「って、聞こえてないか」

 なんでこんなことになったのかと思ったが、やはり俺が原因なのは明確だろうという結論に達した。素面で戻ってくる勇気がなくて飲めない酒に手を出したのだろう。しかしなんだってあの集団に混じっていくんだ。
 時々彼の気持ちがよくわからなくなる。彼はいつでも俺がなんでも知っているようなことを言うけれど、ほんとのところはわからないことだらけだ。

「そんなに顔を合わせるのが嫌だった?」

 ベッドの端に腰かけて、眠る彼の髪を梳いて撫でれば、枕を掴んでいた手が俺のその手を掴んだ。ぎゅっと握られた手首をそのままにしていると、彼はもう片方の手を指先に絡めてくる。

「佐樹さん」

 目が覚めたのかと思い顔を覗き込むが、瞼は閉じられたままで、どうやら寝ぼけているようだ。子供みたいにあどけない顔で眠る彼を見ていると、愛おしくて仕方なくなる。寝息を立てる唇に口づければ、繋がれた手にほんの少し力が加わった。

「ねぇ、佐樹さん。俺、いま結構な我慢を強いられてるって気づいてますか」

 無防備に眠っているその姿。そしてその浴衣の襟元から覗く上気した白い肌は、俺の理性を揺さぶるには十分な威力だ。

リアクション各5回・メッセージ:Clap