決別15
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 正直言ってそこはかとなく漂う色気に、気の迷いを起こしそうなほどの雰囲気はある。しかしだからと言って意識もなく、酔っ払って明日には記憶すらもないだろうと思われる相手を、いまどうにかしようという気持ちにはなれない。
 確かにその瞬間はいいかもしれないが、あとに残るのは絶対に虚しさだ。目覚めた時に自分しか覚えていないなんて、やりきれない。しかもそれが初めての行為ならばなおさらだ。

「まったく、どうしてくれるんだよ」

 掴まれていた手をやんわりと解いて、また肩まで布団をかけてあげれば、再び規則正しい寝息が聞こえてきた。今夜は寝る気も起きないし、このまま傍にいると目の前にいるこの人に触れて、すべてを奪いたくなる。
 けれどそんな気持ちを彼にぶつけるわけにもいかない。仕方がないのでテーブルに置き去りにされて、汗をかいているビール缶に手を伸ばした。ビニール袋の中には三本ほど入っている。

「これだけじゃ酔えもしない」

 それでも飲まずにいられない気分だ。そもそも泊まりで行くと言った時に少し嫌な予感はしていたんだ。しばらく一緒にいる時間がなかったので、その分だけ彼に触れていない時間も長かった。

 だからこそ傍にいれば触れたくなるし、抱きしめたくもなるし、キスだってしたくなる。その先だって、嫌がられることがなければしたいに決まっている。
 けれど一緒に来て欲しいと言ってくれた純粋な気持ちは嬉しかったので、理性を総動員して挑む覚悟で来た。しかし彼のはしゃぎぶりと、その可愛らしさが俺の想像を遥かに上回っていて、こちらの理性はもはやボロボロだ。

「無自覚だから余計にタチが悪い」

 自覚があるなんて言っていたけれど、一体どんな自覚があると言うのだ。とはいえ、いままで男と付き合うなんて経験があるわけがないのだから、女性と付き合うような緊張感を持ちにくいのは仕方ないことなのかもしれない。お互い好きな気持ちはあるが、彼の場合はどこか友達と恋人のあいだ的な感覚が強い。

 もちろん触れればすぐに頬を染めるし、慌てた素振りを見せたりするし、ただの友達というわけではない。ちゃんと恋人と呼べる付き合いをしているつもりではいるが、なにかやはり彼と俺のあいだでズレを感じるのは、知識か意識の違いだろうか。
 それともやはり彼はあまり色事に興味がないのかもしれない。多分きっと一緒にいるだけで満たされてしまうタイプなのだろう。

「やっぱり全然足りない」

 気を紛らわそうと、一気に煽ったビールはあっという間になくなった。苛立ち紛れに缶を握りつぶすと時計に視線を向ける。時間はすでに二十三時を過ぎた。しかしもう売店は開いていないだろうから、自動販売機にでも買いに行くかと立ち上がった俺の背後で、微かに物音が聞こえた。慌てて振り返ると彼がベッドの端に腰かけこちらを見ている。

「目が覚めたんですか? 気分は悪くない?」

 まだ酔いでぼんやりしているのか、こちらの問いかけに答えはない。けれど視線はじっとこちらを見つめたままだ。黙ったままこうしていても仕方ないので、ゆっくりと傍まで近づいていくと、彼は立ち上がって俺に向かい腕を伸ばしてくる。いつもとは少し違う雰囲気に誘われるまま彼を抱きしめれば、俺の首元に絡んだ腕に力がこもった。

 そしてなんの前触れもなく彼に口づけられた俺は、思わず目を見開き驚きをあらわにしてしまう。けれど驚いている俺などお構いなしに、彼は性急に唇を合わせて早く口を開けと言わんばかりに俺の唇を舌先で舐めてくる。

 正直なにが起きているのかよくわからなかった。普段の彼なら絶対にこんな真似はしない。酔っ払ってどこかタガが外れてしまっているんじゃないかと、本気で心配になってきた。引き離そうとするたび力がこもる腕に冷や汗が出る。この程度の力ならば簡単に振り解くことは出来るが、彼を無下に扱うことも出来ない。

「……ちょっ」

 思わず言葉を発しそうになった隙をついて彼の舌が口内に滑り込む。微かなアルコールの味と、いつもより熱い舌の感触に一瞬くらりとした。これならば酔っ払って寝ていてもらっていたほうがまだマシだ。頼むから俺の理性を崩壊させるような真似だけはやめて欲しい。

「藤堂、いや?」

 やっと離れた唇から紡がれた言葉はぽつりと小さく。こちらを窺うように見つめる潤んだ瞳と唾液で濡れた唇が、やたらと色香を放っている。通常こういうのは誘われていると判断してもいいのかもしれないが、状況が状況だけにうっかりでも手を出せないジレンマがある。

 据え膳を食わぬはなんとやらと言われそうだが、やはりいまの彼は無理だ。ちょっとほろ酔いになったから、という程度ならいいかと思えるだろうが、明らかにこれは泥酔だ。
 いまは少し寝て落ち着いているように見えるけれど、俺がいままで見てきた経験上、確実にこのあいだの記憶は寝ている状態と一緒で起きた時は覚えていない。

「嫌とかそういうのじゃないですよ」

「だったら、なんで逃げるんだ」

「に、逃げてもないです」

 確かに若干後ろへ下がったのは認めるが、こうでもしないとどうとでもなれという気分になってしまいそうな自分がいる。でもそれくらい、いまの彼は色香が半端ではない。

「じゃあ、こっち来い」

 ベッドに座りその隣を叩く彼に躊躇ってしまう。しかしずっとこのままでいるわけにもいかないのも確かで、仕方なく俺は意を決して彼の隣に腰を下ろした。すると隙間を埋めるかのように彼が近づいてくる。とっさに身を引いたが、甘えるみたいに肩にもたれかかってきた。
 肩口に頬を寄せて満足そうに笑う顔は可愛いが、心臓が馬鹿みたいに速くなる。触れ合った場所から感じる熱に、焦りみたいな感情が込み上がってきた。これはなんとかして速くこの状況を脱さないといけない気がする。

「佐樹さん、眠くない?」

「眠くない」

「じゃあ、喉は渇かない?」

「渇かないから、どこかに行こうとするなっ」

 逃げるように立ち上がりかけた俺の気配を察したのか、腰に両腕を回して抱きついてきた彼にため息が出る。勢いよくタックルをかまされてお互いベッドに倒れ込んでしまった。身体の上に重みを感じてひどく動揺している自分がいる。
 これまでこんな場面に遭遇したことがなかったとは言わない。けれどこんなに感情が揺さぶられるのは初めてだ。大きな音を立てる心音に煽られるように気持ちが高ぶりそうになる。けれどその気持ちを俺は必死でなだめすかした。

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