別離15
あの日のことはいまでも覚えている。藤堂に再会した日だ。僕はまだ思い出していなかったけれど、あの日の藤堂にすごく惹かれた。優しい眼差しも声も手も仕草も、どれも忘れられない。抱きしめてくれたぬくもりさえ思い出せる。
あの晩の僕たちを知っているのは、僕と藤堂、あとは渉さん。そしてもう一人は――。
「ミナト、くん」
「え? なんで俺の名前知ってんの?」
記憶を掘り起こして見つけた名前を呼ぶと、青年――ミナトは目を見開いて驚きをあらわにする。あれから二年半ほどか、僕の記憶にあるミナトと目の前のミナトは印象がだいぶ違って見える。
あの当時は髪は肩先まであり、キラキラとした金髪だった。アクセサリーも首や指にたくさんついていて、派手目なブランド物のスーツやコートに身を包んでいた。
けれどいまの彼はふわふわとした柔らかいオレンジブラウンの髪で、ゆるく目もとにかかる前髪が少し色気を含んでいて大人っぽい雰囲気をまとっている。着ているものもブラックデニムにVネックの真っ白なセーターにライトグレーのガウン。
見た目や装い、話し方や雰囲気もあの頃とは全然違うし、顔つきもツンとしたところがなくなり、落ち着いた穏やかそうな顔立ちをしている。一度会ったきりだし、言われなければずっと気がつかなかっただろう。
「あ、あの時、藤堂が呼んでたから」
「ふぅん、ユウって藤堂って言うんだ」
「ああ、うん」
あれからのことは藤堂から聞いたことがない。過去はいらないといったのも自分だし、藤堂もそんなに聞いて欲しい話ではないだろうと思ったから。けれど気にならないと言ったら嘘になる。いまこうして過去の登場人物であるミナトが現れて、胸が少しはやる。
「ねぇ、いまからうちにおいでよ。いまのユウの話聞かせて」
「え? いや、でも」
「あ、俺、このすぐ傍で店やってんの。あとで駅まで送ってあげるからさ」
人懐っこい笑みを浮かべて僕の手を引くミナトに、はっきりとした否定の言葉が告げられなかった。少し期待している。僕がたどり着けずにいる藤堂の行き先がわかるような気がして、気づけば手を引かれるままに歩き出していた。
すぐ傍だと言っていたミナトの店は二、三分ほど歩いた先にあった。地下一階にあるそこは定員七名ほどの小さなカウンターバーだった。シックな黒とグレーで統一された店内はオープン前だからか明るい照明に照らされている。
慣れた様子で縦長の店内を進み、カウンターに入ったミナトは片手に提げていたビニール袋をキッチンと思しき場所に置いた。
「適当に座って、なに飲む? なんでも作るよ」
「あ、飲めないからソフトドリンクで」
「そうなんだ。じゃあ、オレンジジュースとかでいい?」
小さく首を傾げたミナトに頷くと、彼は足元にある扉を開いてガラスのボトルに入ったオレンジジュースを取り出した。その様子を見ながら彼の前にある椅子に腰かけると、タイミングよくグラスに注がれたオレンジジュースを差し出される。
「ありがとう」
「生のオレンジだからおいしいよ」
しぼりたてだからと笑うその表情につられてグラスを口にすると、甘いオレンジの香りと共にほどよい甘さが喉を通り過ぎていった。それは酸味がほとんどなく、市販の百パーセントオレンジとは違う舌に甘味がふわりと絡むような味わいだ。
「おいしい」
「そう、ならよかった」
「店は新しい感じだな。一人でやってるのか?」
広いとは言えない店内だけれど、隅々まで手入れが行き届いていて埃一つ見当たらない。床や壁も綺麗に磨かれていて、まだ真新しさを感じる。
「八月にオープンしたんだ。いまはバイトと二人でやってるよ。お喋りしにくるお客が多いからね」
「へぇ、そうなのか」
飲みに行くということはほとんどないので詳しくないが、こういったこぢんまりとしたお店は一人や二人で来て店主と話をするのが楽しみなのだろう。いまのミナトは人好きする雰囲気だし、一緒にいて和やかな気持ちになる。
「それにしても偶然だね」
「あ、ああ、そうだな」
しかしあれから藤堂とミナトはどうしたのだろう。あの時は付き合っているように見えた。けれどさっき僕を見て、藤堂が追いかけた人といったのが気になって仕方がない。
「お兄さん素直だね。顔に出てるよ。あのあとどうしたんだろうって」
「あ、悪い」
僕のために別れたのならいいのに、いまそう思っていた。それが顔に出ていたのか。なんて僕は強欲なんだろう。藤堂のこととなるとどうしても気持ちがねじ曲がってしまう。こんな感情は嫌だと思うのに、僕の中に生まれた独占欲はいつでも藤堂を欲しがる。
「いいよ別に、俺はあれからすぐに振られちゃったよ」
「それってやっぱり、僕のせいなのか?」
「まあ、正直に言えばその通りだね。だけど気にすることないよ。ユウは最初からきっとお兄さんのことが好きだったんだ」
「藤堂がなにか」
「ううん、なにも言わなかった。ただごめんって謝られた。でもいつからなのかは知らないけど、ユウは俺たちと出会った頃からずっと心に誰かいたんだよ。それはみんな気がついてた。でも優しくていい男だったからね。みんなほっとけなかったんだ。誰が一番にユウを落とすかっていつも躍起になってた」
当時を思い起こすかのようにほんの少し遠くを見ながら、ミナトはぽつりぽつりと昔の話を語ってくれた。
当時から一見した容姿よりも大人びた眼差しをする、少しミステリアスな雰囲気を持っていた藤堂。
そんな藤堂に周りのみんなは興味津々な様子で最初は近づいたのだという。しかし両手でも足りないくらいの人が熱心に藤堂に声をかけたけれど、しばらくは誰も振り向いてはもらえなかったそうだ。
それから数ヶ月くらいしてからやっと少しずつ応えてくれるようになったが、それでもどんな相手も付き合いが長く続く人はいなかったらしい。
そんな中でも最後まで諦めずに藤堂と付き合ったのがミナトだ。
「まあ、付き合ってたっていうのか正直微妙だけどね。付きまとってたっていうのに近いかも」
「けど一緒に出かけてくれるし、プレゼントだってくれたんじゃないのか」
「うん、無口だし意外と気まぐれだったけど、律儀だったよ。約束すっぽかされることはあったけど、ちゃんとその埋め合わせを言わなくてもしてくれたし、そういえば誕生日プレゼントもくれたな。よく知ってるね」
あの晩、藤堂は駅でミナトを待っていた。きっとあんな風にいつも待ち合わせて、一緒に歩いてたんだろうなと自然に想像できた。落としたライターだって、一目見ただけで彼のものだと気づくくらいだから、贈った本人でなければわからないなにかがあったんだと思う。
「けど優し過ぎて好きでいるのが辛くなるんだよ。みんな気づくんだ。ユウは好きで傍にいてくれるんじゃない。優しいから傍にいてくれるんだって。きっとこのまま隣にいても振り向いてはくれない。だからみんな離れていった」
数日、数週間、数ヶ月――傍にいればいるほど好きでいるのが辛くなる。それってどれほど辛いことだろう。優しさが苦しくなるって多分きっと涙が出るほど辛い。
だけど僕を諦めようと思っていた藤堂も必死だったのかもしれない。それを思うとひどく胸が痛くなる。無理に女の子と付き合ったり、ほか誰かを好きになろうとしたり。
僕が答えを出せないまま手を離してしまったから、藤堂に随分と遠回りをさせてしまった。初めて会ったあの日、僕が離れたくないと言っていたら、藤堂が苦しい思いをすることはなかったのだろうか。
「その点、俺は諦めが悪かったけどね。振られてからもしつこく会いたいって言って困らせた。二人きりでは会ってくれなかったけど、何回か時間を作ってくれた」
「そうだったんだ」
もしかして以前に飯田が言っていたのはこのことだったのか。峰岸と二人で未成年が立ち入るべきではない繁華街で目撃されていた。それは確か一年の時だったはずだ。
「一方的に振ったことを気にしてたから付け入ったよね。でも一緒に来てた子に怒られた。そんなことしてても罪悪感を生むだけで一生報われないって」
「いまは?」
「もちろん、大丈夫に決まってるでしょ。いまはもういい思い出だし、俺いま付き合ってる奴いるんだ。ユウに負けないくらいのいい男だから」
「そっか」
ずっと気になっていたことがいまようやく心の中で落ち着いた気がする。僕のことを覚えているくらいだから、彼は藤堂に思い入れが深かったに違いない。
だからいまもまだ心が残っていたらどうしようと、僕はずっと不安だったのだろう。もしかしたらそれを確かめたくてここに来たのかもしれない。自分の重たい感情に気がついてため息がこぼれてしまう。
晴れやかに笑うミナトを見ながら、僕は息苦しさを覚える胸をきつく押さえた。