夏日37
のんびりと和やかに食事を終えたあと、居間のソファで自然といつものようにくつろぎモードになった僕と佳奈姉をよそに、藤堂はなんの躊躇いもなくキッチンに立つ母の横で後片付けをし始める。
そんな藤堂に母は嬉しそうに目を細めて笑っていた。そして僕はというと、ビール缶をまた片手にしている佳奈姉に、「いい旦那もらったわね」とにやにやした笑みを向けられ、恥ずかしさと照れくささでむず痒い気持ちにさせられていた。
誰に対しても気配りを忘れない藤堂は、僕には本当にもったいないくらいの出来た恋人だ。そしてそれを察して受け入れてくれる母にはなにより感謝している。
「佳奈姉はなにも思わないのか」
僕の周りは特別だと思う。周りがすんなりと受け止めて後押ししてくれる状況が続いて、母も覚悟を決めて受け入れてくれた。しかしこんな幸運なことはそうそうあるものではなく、詩織姉のようにうまく受け入れられずに拒否感を覚えるのが普通だ。そんな中、佳奈姉の反応はほかとは少し違うように感じた。
「んー、思わないわけじゃないけど。そういう恋愛もあるよねって感じ。周りが騒いだところで頑固なあんたの気持ちがそう簡単には変わるとは思わないし」
「佳奈姉ってそんなに大らかだったけ?」
「うっさいわね。人間色んなこと学習して生きるのよ」
「ふぅん、最近は彼氏とかは?」
「あんたに心配されなくてもあたしはうまくやってるわよ」
至極真面目に聞いたつもりだったが、佳奈姉は少し眉をひそめて口を尖らせると、手近にあった箱ティッシュを投げつけてきた。それほど勢いもなく飛んできたそれを受け止めながら、僕は不思議に思いつつ首を傾げる。そういえば佳奈姉の付き合う男の人はいつも似通ったタイプが多い。それが誰に似ているかと考えれば、思い当たるのは一人しかいなかった。
「佳奈姉って明良のこと好きだった?」
「……あんたのその他人事にばかり勘の鋭いとこ嫌だわ。昔よ、遠い昔。あたしの青春の一ページはほっといて」
いまでも顔を合わせれば仲のよさげな佳奈姉と明良。明良は僕が中学に入った時からの友達だったけれど、一体いつの間にそんなことになっていたのか。いまの話の感じでは、佳奈姉は明良が同性にしか興味を持てないことに気づいている。
そしてそれを知って姉の淡い恋心は儚く散ったというところだろう。それでもいまも友人としての関係を築いているということは、お互いそれを理解しているのだろうか。
ふて腐れたような顔でビールを飲んでいる佳奈姉を思わずじっと見つめてしまった。
「そんなことより、あんたはもっと気にすることあるでしょ」
「え?」
僕の向ける視線に目を細めた佳奈姉は呆れたようにため息を吐く。
「あんたが守ってあげなきゃ駄目なのよ。彼、いくら大人びてたってまだまだ若いんだから、あんたがしっかりしなくちゃいけないんだってわかってる?」
「あ、うん。わかってるよ」
いつもとは違う真面目な眼差しでこちらを見る佳奈姉に自然と背筋が伸びる。今日のことといい、もっと僕はしっかりしなくては駄目だなと痛感した。僕の事情まで藤堂に背負わせるようになってしまっていては駄目だ。
藤堂は確かに強いと思う。けれどその強さは弱い心を補強するために作られた強さだから、強靱ではない。本当の藤堂は多分きっと目に見えるよりも傷つきやすかったり脆かったりする。
この先もずっと傍にいたいと思うならば、僕は藤堂に負けないくらいの強さと機敏さを身につけなくてはいけない。だから佳奈姉の言ったとおり僕の手で守ってあげられるように、藤堂の心を少しでも救えるようにならなくてはと僕は決意を固めた。
「ありがとう。それじゃあ、お願いね」
「はい」
「さっちゃん暇なら優哉くんのお手伝いしてあげて」
「ん?」
心の中で決意を新たにしていると、ふいにキッチンから離れた母が僕の肩を叩く。その手に顔を上げ母の顔を見上げてみれば、キッチンに立つ藤堂を指差した。
「お母さんお風呂のお掃除してくるから、食器の片付け手伝ってあげて」
「あ、うん。わかった」
パタパタとスリッパの音を響かせてリビングを出て行った母の背を見送りキッチンへ足を向けると、近づいた僕に藤堂はやんわりと優しく微笑んだ。そんな藤堂の手元を覗いて見れば、大きな調理器具は片付け終わっていて、シンクには小さな食器類だけが残っていた。
「洗ったの拭けばいい?」
「はい、お願いします」
「母さんどうしたんだ?」
丁寧に食器を泡のついたスポンジで洗っていく藤堂を見上げて首を傾げると、藤堂の視線がふいに流れた。その先を目で追うと壁掛けの時計が目に入る。時刻は現在十八時四十五分過ぎだ。けれどその視線の意味がよくわからなくて首を傾げたら、また微笑まれた。
「お母さんみんなが花火を見ているあいだに片付けをするって言っていたので、出来る範囲で手伝いさせて頂きますから、皆さんと一緒に見てはどうですかって言ったんですけど、迷惑だったかな?」
「え、あっ、そんなことない。なんかありがとうな。お前にばかり気を遣わせてるな」
思いがけない藤堂の言葉を聞いて反射的に首を大きく左右に振ってしまった。そしてそんな僕を見つめる藤堂の目が優しくて、思わず頬が熱くなってきた。
それにしても相変わらずの気遣いだ。毎年のことで気づかずにいたけれど、思い返してみれば母は僕たちを優先するので作業の合間に上がる花火を見ていた。
「そういえば、上のお姉さんたちの部屋からは花火見られないんですね」
「あ、そうなんだよ。だから僕たちは二階から見よう。庭からも見やすいけど二階のほうがもっと見やすいし」
せっかく日程を合わせてきているのに花火を見られないのは残念過ぎる。僕や藤堂がいては詩織姉は部屋から出て来るのを躊躇うだろうから、母には夕食前にそう告げておいた。些細なことだけど、藤堂も気にしてくれたのかと思うと嬉しくなってしまう。
水で綺麗に泡を洗い流された食器を拭きながら、こうして隣にいるのが藤堂でよかったなと改めて思ってしまう。それと共に自然と顔が緩んでしまうが、それはどうやっても止めることが出来なくて俯きがちに口元を緩ませた。
それからしばらくしてリビングに戻ってきた母と入れ違いに、僕たちは二階へ上がることにした。先にとりあえず藤堂に部屋へ行ってもらい、僕は飲み物などを調達してからあとを追うことにした。冷蔵庫を眺めて麦茶のボトルを小脇に抱え、グラスを二つ食器棚から取り出す。
食事をしたばかりだからつまみは必要ないなと、キッチンから出たところで詩織姉と保さんが階段を下りてリビングにやって来た。
僕がいるのは思いがけなかったのか、一瞬だけ目を見開いて驚きをあらわにしたけれど、近くをすれ違った際に詩織姉は「ありがとう」と呟いた。そしてそんなその言葉に僕は心底ほっとした。
いますぐに心の整理はつかなくても、藤堂がここにいるあいだに気持ちが落ち着いてくれればいいなと思いながら、僕は足早に階段を駆け上がった。しかし急ぎ足で部屋の前まで来たが、ふとその足は扉の前で止まってしまった。部屋の中から微かに声が聞こえたからだ。
静かで喧騒のない場所だけれど、部屋の外まで漏れ聞こえてくるということは、それなりに声が大きいことが推測出来る。
細かいことにまで気にかけてくれる藤堂がそんなに大きな声で話を、恐らく電話をするということは通常ではあり得ない。もしその相手が思い浮かんだ人物ならば心配がよぎる。
「大丈夫かな」
ふと写真部の校外部活動の日を思い出し、心に重石が乗ったような気分になった。あの日の帰り、マンションについてから藤堂の携帯電話が着信を知らせた。
二回ほど鳴ったそれは短い音だったのでメールだろうと思ったけれど、浮かない顔をして藤堂はその場をあとにした。それからしばらく待ってみても戻ってくる気配がなかったので、渉さんたちに別れを告げ藤堂のあとを僕は追った。
あの時も遠くからだったので話の内容までは耳に入らなかったけれど、電話で話す藤堂の様子から見てもあまりいい雰囲気でなかったのを覚えている。
それに以前もかかってきた電話に出なかったり、何度も電話が鳴って深夜にかかってきたりしたこともあった。また家のことでなにかトラブルでもあったのだろうかと胸がざわめいてひどく心配になった。