夏日35
僕はいつだって浅はかで、後手に回るばかりだ。臆病で恐れるものに蓋をしてしまうような卑怯者だ。
何度も同じことを繰り返しているのに学習しなくて、いつだって周りに救われてようやく気づく。どうしていまこの場所で、藤堂のことを隠してしまおうと考えたのだろう。後ろめたいから?
いや違う、僕は傷つくことから逃げ出そうとしたんだ。きっと大好きな家族に目を背けられるのが嫌で、それを隠してしまおうと思った。後ろめたいなんて考えたこともなかったのに、本当は否定されるのが怖いと思っていたんだ。
けれどこんなに狡くて弱い僕の手を、藤堂は強く握りしめていてくれる。本当に僕は馬鹿でどうしようもない人間だ。
その手が、その心が、藤堂が、僕はなによりも尊く大切な愛おしい存在なのだと、そう思っていたはずなのに、とっさに保身に走ってしまうなんて醜くて――心底自分が嫌になる。
「優哉くん、佐樹のことは小さい頃からずっと見てきたけれど、断言して恋愛対象は男性ではなかったと思う。いま付き合ってるってことが本当だとしたら、あなたからとしか考えられないんだけど」
きつい目で藤堂を見つめる詩織姉からは怒りに似た感情が伝わる。藤堂のせいで僕が道を踏み外したのだと思っているのかもしれない。その視線がまっすぐに藤堂を射る、それだけで胸が苦しくなった。
確かにずっと愛してくれている家族を僕は大切に思っている。けれどそれ以上に、僕は藤堂に家族を与えたかった。だからここで僕は躊躇っていてはいけなかったのだ。
家族のためにも藤堂のためにも、これ以上間違った選択をしてはいけない。僕はこの手を握ったから、もう逃げたりはしない。
「……最初に、佐樹さんに気持ちを伝えたのは、確かに俺です。それが間違いだったかもしれないと悩んだこともありました。それでも佐樹さんが好きです。子供の気まぐれ、気の迷いと思われてしまうかもしれませんが、俺は本気で佐樹さんと一緒にいたいと思っています」
眉をひそめていた詩織姉は藤堂の言葉に、少しムッとしたように口を引き結ぶ。明らかに不快をあらわにするその表情を見て、気づけば僕は大声を上げて二人のあいだに割り入っていた。
「詩織姉っ、藤堂を選んだのは僕だ。藤堂はいつだって僕の答えを待っていてくれた。僕が好きだって言ったんだよ。だから藤堂はなにも悪くないっ」
初めて会った時も、二度目に会った時も、受験の日も、まっすぐと告白してくれたあの時も、藤堂はいつだって僕に主導権を握らせた。
どんな答えを出してもいいように、決して無理強いをするようなことはしなかった。いつだって藤堂は僕に道を選ばせてくれた。そして道を間違えて立ち尽くした時には、手を伸ばして僕を引き戻してくれた。
「……佐樹」
足を踏み出し、藤堂を背に庇うようにして前に出た僕を、詩織姉は息を飲んで驚いたような表情で見つめた。
「藤堂がいるから僕はいまここにいる。もし藤堂に会わなかったら五年前に僕は悲観してここから消えていたと思う。藤堂と再会しなければ僕は過去のことに蓋をして感情を殺したまま生きてたと思う。藤堂が好きだって言ってくれたから、僕はみのりのことも清算して、自分の弱さや愚かさにも気づいて前を向けた」
いつだって藤堂は絶妙なタイミングで僕の前に現れて、そして僕を救ってくれた。それは意図されたものではない。偶然が奇跡を何度も呼び起こしたのだ。
いや、そんな偶然はもはやただ偶然のという言葉では片付けられない。その出会いを僕はいつしか必然だと感じた。運命なんてものは信じていなかったけれど、信じてもいいんじゃないかと思わせてくれた。
「だからって、よく考えても見なさいよっ。佐樹、あなたいまいくつ? 学校の先生をしている自覚ある? 相手はまだ高校生で、未成年で、男の子よ!」
怒鳴り声に近い声を上げて僕を諭す詩織姉の言葉は、正論過ぎるほど正論だ。怒りのためだろうか頬は少し赤く紅潮している。けれど僕をまっすぐに見るその目は微かに潤んで見えた。
「たとえ彼が学校を卒業して、成人したって、いまの世の中まだ理解は少ないってわかるでしょ。パートナーが同性であることは不利なのよっ。ましてやあなたは教育者なんだから、バレたら叩かれるに決まってる。免職にだってなるかもしれないっ」
怒ってはいるけれど本気で心配してくれているのはその声で、その目でひしひしと伝わってくる。それでも、姉を傷つけるとわかっても、僕はいま繋いでいる手を離す気にはなれなかった。
「覚悟はしてる。もしどちらかを選べと言われたら、僕は迷わず藤堂を選ぶ」
これは本心だ。藤堂との将来を考えた時に覚悟は決めた。僕が教師であることが藤堂の枷になるのならそんな枷や鎖は叩き壊してしまっていいと思った。
もういい歳だし、すぐには新しい職にありつけるとは思っていないけれど、ありがたいことに結婚するまで実家暮らしをさせてもらえていた僕には、少なからず蓄えがある。
もしそれでも駄目なら、いまのマンションを売り払ってもいい。築年数は経っているけれど、好立地なのでそんなに安くはならないだろう。
「僕の気持ちを理解してくれとは言わない。認めて欲しいとも言わない。でも藤堂を否定されたくない。僕は藤堂と別れるつもりはない」
はっきりと言い切った僕に詩織姉の目は大きく揺れて、浮かんだ涙がいまにもこぼれ落ちそうになる。そしてそれは静まり返っていた空間に乾いた音が響いた途端にぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……」
突然頬に感じた衝撃に、一瞬頭がついていかなかった。それがゆっくり脳にたどり着いた時、ようやく左頬がジリジリと痛み出しそこが熱を帯びたように熱くなる。けれど手を振り上げ、それを打ち付けた本人が誰よりも傷ついているように見えて、僕は涙をこぼす詩織姉を見つめるしか出来なかった。
しかしそんな視線や静まった空間に耐え切れなかったのか、詩織姉は身を翻すと僕に背を向けてリビングから駆け出して行った。
とっさに追いかけようと身体が動くけれど、すっとソファから立ち上がった保さんがそんな僕を制してゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫、俺が詩織と話をするから。いまはまだ戸惑ってるだけだよ。もちろん、僕も戸惑ってる。だから少しだけ時間をくれないかな」
「……保さん、すみません」
優しい姉と旦那さんを困らせて戸惑わせてしまった罪悪感が胸を過ぎる。けれどそれを払拭するかのように保さんは優しく微笑んだ。
「謝ることじゃないよ。大丈夫、大丈夫だよ。君のお姉さんは君の気持ちをないがしろにするような心の狭い人じゃない」
頭を下げた僕に小さく笑って、保さんはゆっくりとリビングを出て行き、詩織姉が駆け上がって行った階段の先へ姿を消した。その瞬間、ふっと足の力が抜ける。
「佐樹さんっ」
すとんと床にへたり込んだ僕の腕は、立っている藤堂の手にぶら下がってしまう形になった。それに慌てた藤堂が僕に合わせて片膝をついてしゃがみ込む。ぼんやりと目の前を見つめていた僕は、視界に入った藤堂の心配げな瞳を見て、思わず腕を伸ばして抱きついてしまった。
「藤堂ごめん。僕は弱くて、お前のことちゃんとわかってあげられていなくて、誤魔化そうとした」
「そんなことないですよ。佐樹さんはいつもまっすぐで優しくて、家族のこと傷つけたくなかったんでしょう? 俺はそんなあなたが好きです」
「そんなんじゃない、僕は狡い人間なんだ。ごめん、ごめんな」
優しく抱きしめ返してくれた藤堂の胸に頬を寄せると、そっと髪を撫で打たれた頬を手のひらで包むように触れてくれた。