別離31
藤堂から発信された「助けて」の言葉は――初めてこぼれた彼の本心だ。もう限界だったのかもしれない。いまにも壊れてしまいそうな繊細な心が、ひび割れ軋みを上げていたのだろう。きっと砕け散る寸前だったに違いない。
僕を抱きしめて何度も「離れたくない」と泣いてすがる藤堂の背を抱きしめ返し、僕は必死で考えた。どうしたら藤堂のためになるのか、僕たちの最良の選択はどれなのか。
「藤堂はどうしたい?」
僕たちに与えられた選択肢は二つ。どちらかを選ばなくてはならない。それは簡単な答えではないからこそ、しっかりと僕たちはそれを選び取らなくてはいけないと思う。
そしてなによりも藤堂が納得する形を選択したい。僕はもうすでにどちらの答えでも心構えはできている。藤堂が本心で選び取る答えを受け入れるだけだ。
「僕はどちらでも構わない。離れるのが辛いなら、一緒に行こうか。藤堂と一緒なら、僕はどこにだって行ける。新しい生活だって悪くないよ」
離れたくないとそう思ってくれるのなら、藤堂と二人で時雨さんの元へ行ってもいい。日常すべてが変わってしまうけれど、それは藤堂も同じことで、二人一緒ならば怖いことはない。
「……それは、できない。駄目だ」
「どうして? 僕は平気だ。向こうへ行ったからって二度と帰ってこられないわけじゃない」
「それでも、駄目なんだ」
首を大きく横に振り、しがみついていた腕を解くと、藤堂は僕の肩を押し離した。俯く顔を覗き込むように僕が顔を傾けたら、藤堂はまた首を左右に振る。その様子はひどく頑なで、きつく唇を引き結んでいた。
離れたくないと言っていたのに、どうして一緒には行けないのだろう。僕に日常を捨てさせることがやはりできないのだろうか。
「先生って言う職業は、佐樹さんの天職だと思う」
「え?」
「俺は、それを佐樹さんから奪うことは、したくない」
思いがけない言葉だった。藤堂が躊躇っている原因がそんなことだとは思いもよらなくて、僕は驚きに目を見開いてしまった。けれどいま藤堂は僕のことを尊重しようとしている。
天職――教師という仕事をそんな風に考えたことはなかったけれど、僕が精一杯にできる最良の仕事であるのは確かだ。藤堂に出会ってその楽しさも思い出した。そういえばこの道を決めた時、この先一生続けていく仕事なんだろうなとも思った。
「俺のために、大事なものを捨てさせたくない」
なにかがあった時に僕はいつでもすべてを投げ捨てる覚悟はできていた。それに藤堂も気づいていたのだろう。だから自分の選択肢にそれを加えることをしたくないんだ。僕が簡単に手放そうとしているものを、藤堂は大切に思ってくれている。
「離れたくない、けど。佐樹さんからなにも奪いたくないんだ。仕事を辞めさせたくない。あんなに大事にしてくれる家族がいるのに引き離したくない。俺のせいで人生変えさせるようなことはしたくない」
「藤堂、僕のために我慢しなくていいんだ。答えは一つじゃない」
「したくない、それは嫌なんだ」
心の矛盾が胸を苦しめている。せめぎ合う感情がこんなにも藤堂を追い詰めていたのか。僕のことを思ってくれている、それは正直言えば嬉しい。けれど僕は藤堂の枷にはなりたくない。
俯く藤堂の頬に両手を添えて上向かせると、僕は涙で濡れる目尻に唇を押し当てた。
「藤堂、考えよう。目の前のことだけじゃなくて、これから先のこと。五年、十年先、僕と藤堂が一緒にいられる選択をしよう」
「これから、先……」
頬を伝う涙を拭ったら、もうそれはあふれては来なかった。藤堂は僕との未来を描いてくれるのだろうか。どんな形でもいい、僕とどこかで繋がる未来であればいい。願いを込めて僕は彼の唇に口づけた。
「俺は、やっぱりあなたからなにも奪いたくない」
「……藤堂」
「でも佐樹さんと離れていると、息ができないくらい苦しくて辛い」
跪き背を丸めるいまの藤堂はとても小さくてか弱い。膝を立てて立ち上がると、僕は藤堂の頭も肩も背中も全部、自分の全身で包み込むように抱きしめた。守ってやりたい、どんなことからも救ってやりたい。僕の心だって藤堂でいっぱいだ。
「俺はあなたがいないと生きていけない」
僕たちはもしかしたら強い依存関係にあるのかもしれない。お互いしか見えなくなるような、それ以外しか求められないような、ひどく危うい関係だ。それはなにかの拍子に絡まり切れてしまいそうな細い糸で繋がっている。
「失いたくない、けどもう傷つけたくないんだ」
強く惹き合いながら、藤堂も僕もこのままではいられないことに気づいている。もっと確かな絆になるよう、やはりどこかでこの関係は修正しなくてはいけない。もしかしたらそれがいまなのだろうか。
「あなたを俺の中に閉じ込めておきたい。でもそれはできないのもわかってる」
伸ばされた藤堂の手が僕の背をかき抱く。けれど痛いくらいの抱擁を僕はただ黙って受け止めた。藤堂はいま必死に自分の気持ちと向き合って、前を向こうとしている。彼の言葉すべてを受け入れるように僕は耳を澄ませた。
「佐樹さん、俺は何年先でもあなたといたい。俺のこの先の未来すべてを捧げてもいい」
「ああ、僕もだよ。それは僕も同じだ」
僕も同じことを思っていたよ。未来をすべて藤堂に預けてもいいって本気で思っている。だから何年先でも僕は藤堂のものだ。だから選んでいいよ――僕は藤堂が信じる道を選び取って欲しい。
きつく僕を抱きしめていた腕がゆっくりと解けていく。多分すでに僕は藤堂が選ぶ答えを知っている。
「藤堂、本当はもう決まっているんだろう」
「……」
「まだそれに迷いがあるから苦しい、そうだろ」
頑なに僕の日常を守ろうとする藤堂。僕を繋ぎ止めたいと願う藤堂。二つの想いは相反するけれど、そんな彼が導き出す答えは一つしかないんだ。彼は自分の苦しみや痛み、悲しみを抱えても僕を守ろうとする。
「僕は離れても、お前と共にあるよ」
ゆっくりと身体を起こした藤堂は、やがて顔を上げて僕をまっすぐに見つめる。悲しみをたたえていた瞳にはいつしか光が宿り始めた。その瞳を見つめて僕は言葉の先を促すように彼の両手を握った。
助けてくれとすがった藤堂に必要だったのは、腕に閉じ込めて守ることじゃなくて、踏み出せずにいる背中を押すことだったんだ。
「佐樹さん」
「ん?」
「俺のこと、どれだけ待っていてくれますか?」
「いくらでも待つよ。お前が僕のところへ帰ってくるまでずっと」
離れるのが辛いと泣いていた藤堂の心は、本当はもうすでに答えを出していた。決まっているからこそ、気持ちのバランスが取れなくて涙がこぼれてしまったのだ。
僕がこうして目の前に現れなかったら、もしかしたらなにも言わずに藤堂は旅立っていたのかもしれない。僕の前から姿を消したその時から、もう答えは決まっていたんだ。
でもなにも言わずに藤堂がいなくなっていたとしても、僕はきっと待っていただろう。これからそうするように、藤堂のことをずっと待ち続けて、遠い空を見上げていたと思う。
「ずっと待ってるよ」
「佐樹さん、こんなに身勝手な俺のこと、許してくれるの?」
「ああ、弱くて脆くて、すぐ逃げ出してしまう。そんなお前でも僕は好きだよ」
握りしめた手を強く握り返してくる藤堂の手は震えている。俯きかけた頬に口づけたら、温かな雫がこぼれ落ちてきた。次々とこぼれるその雫を拭って、僕は引き結ばれている唇にそっと自分の唇を重ねる。
どんなことがあっても僕は藤堂を想い続けるだろう。それが何年先だとしても、想いは絶対に色褪せない。僕はなんにだって誓える。僕の人生すべてを賭けて藤堂のことを愛し抜くことを。だからその気持ちが少しでも伝わるように、強く背中を抱きしめた。