始まり02
人を手のひらの上で転がしてしまいそうなところは相変わらずだが、峰岸の教師としての評価は高いと言ってもいいだろう。生徒に人気があるのはもちろん、父兄たちの評判もいい。
顔のよさもそれに含まれているかもしれないけれど、元々スキルが高いので気配りも根回しも完璧なところがある。飯田の後釜的な立ち位置でやって来たが、二年生の英語の成績が全体的に少し上がった。それは驚くべき結果だろう。
結局なにをさせても峰岸はそつなくこなしてしまい、在学期間中と同様の圧倒的な存在感はさすがとも言える。
「それにしても、センセはなんでマミちゃん許しちゃったんだか」
「まだ言ってるのかそれ」
こちらに腕を伸ばし肩に手を置いた峰岸はじっと僕を見つめる。間宮と一緒にいると峰岸はいつも思い出したように同じことを言う。
「お前も知っていながら黙ってたのは同罪だからな」
「それは、謝っただろう」
「だったらもうこの話は終わりだ」
間宮が僕のあとをついて回っていた、約四ヶ月のあいだの出来事を峰岸は気づいていた。気づいていてずっと黙認していたのだ。
実害はないだろうという判断は間違いではないと思うけれど、知っていながら止めないのもどうかと思う。暗に気をつけろと忠告されたけれど、あれだけでははっきり言って僕にはわからない。
「間宮のこと言うなら、お前とも口を利かないからな」
「相変わらずお人好しだなぁ、センセは」
「そんなつもりはない」
別に間宮のことは許したというわけではない。元々あのことについてそんなに怒っていたわけでもないし、驚きとか呆れのほうが大きかったせいもある。だから大げさに捉えられなくて、むしろいきなり距離を置いてきた間宮に腹が立ったくらいだ。
まあ、懐いていたものが急にそっぽを向いた気がして、寂しかったのかもしれないけれど。だからお人好し云々ではなく、これは僕の勝手なのだ。
「ほら、邪魔だ。僕は井戸端会議に参加しに来たんだよ」
肩に置かれた峰岸の手をよけると、僕は峰岸の背後にある扉を引き開ける。すると中から少し賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「おや、西岡先生おかえりなさい。忠犬も帰ってきましたね」
「忠犬?」
教室内にいた先生たちがこちらを見てくすくすと笑みをこぼしている。そんな中で新崎先生が至極楽しげな顔をして、僕やその後ろにいる間宮と峰岸を見た。先生たちの笑みの元がわからない僕は、新崎先生の言葉に大きく首を傾げてしまった。
「西岡先生はどうしてるかな、と言ったら、すぐさま二人が出て行ったんですよ。ご主人様を迎えに行く忠犬のようでしたよ」
「そ、そういうこと言うのはやめてください。お前たちも僕のことばかり気にするのはやめろよ」
微笑ましそうに見られているが、恥ずかしいことこの上ない。熱くなった頬を誤魔化すように後ろにいた峰岸と間宮を前に突き出すと、僕は二つの背中を押して職員室に足を踏み入れた。しかし二人ともまったく悪びれた様子はない。恥ずかしい思いをしているのは僕だけのようだ。
「まあまあ、こっちへ来て美味しいお菓子でお茶にしましょう」
「センセ、顔真っ赤。可愛い」
「うるさい」
人の顔を覗き見て笑う峰岸の背中を叩きながら、僕は誘われるままに和やかなお茶会の席に着いた。
今日は珍しく人数が少なく、僕たちを除いて四人しかいない。紅一点は峰岸と同じ新任の若い先生だ。ハキハキとした元気のいい印象で生徒からの好感度も高い。峰岸と違いまだ不慣れな感じで初々しさがある。
もう一人の先生は間宮よりもあとに入ってきた先生で、確か今年で三年目くらいだったのでまだまだ若い。あと一人は新崎先生に年も近い年長の先生だ。
「峰岸は西岡先生に憧れて教師になったくらいだからなぁ」
「余計なことは言わないでください」
「まさかお前がわしに敬語を使う日が来るとは思わなかったぞ」
「最初に言葉がなってないとか言ったの重田だろうが!」
そういえばこの年長の重田先生は、峰岸が三年の時に担任だった先生だ。峰岸が赴任してくるのを知って驚かなかったのは、この先生と新崎先生くらいだった。一体いつ峰岸は教師になろうと思ったのだろう。そんな素振り全然見せなかったのに意外過ぎる。それにきっかけが僕だったなんて初耳だ。
「大学なんて入れればどこでもいいって言っていたのにねぇ」
「峰岸は西岡先生に出会ってよかったな」
「俺の話はいいんだよ! もっとほかにあるだろう」
新崎先生たちに話のネタにされているのは恥ずかしいのか、峰岸は珍しく慌てた様子で話を遮る。さすがの峰岸もこの二人の先生の前では子供同然なのかもしれない。
けれどそんな様子を見るのはなんだかほっとするし嬉しい。普段は相も変わらず大人びているから、時々とても心配になってしまうのだ。
「峰岸先生の学生時代って気になります」
「生徒会長していたんですよね。貫禄ありそうだ」
「峰岸の話題なら事欠かないぞ」
興味津々な若い先生たちに教え子の自慢話が始まる。盛り上がる三人に当事者である峰岸は苦い顔をしていた。そんな様子をにこやかに新崎先生が見つめている。
「峰岸くんがいると一番賑やかだった生徒会を思い出しますね」
「マミちゃんまで昔話を始めるなよ」
「いまも充実していますが、あの当時が一番大変で楽しかったですよ。全員卒業してしまって少し寂しかったです。なのでこうしてまた峰岸くんと一緒に仕事できるのは嬉しいなと思ってます」
「そうかよ、それはよかったな」
まっすぐな間宮の言葉が照れくさかったのだろう。峰岸の頬が微かに赤く染まる。それに気づいているのかいないのか、間宮はにこにことした笑みを浮かべて峰岸を見ていた。
「あ、そういえば、前にさ。なんで僕に教師になったんだって聞いてたけど。あの頃から考えてたのか?」
「……まあ、そうだな」
「ふぅん、そうなんだ。お前に与えた影響があるなら、正直言って嬉しいよ」
「センセを見てたら、そういうのも悪くないかと思ったんだよ」
「でもモデルの仕事もかなり充実してたのに、迷わなかったのか?」
何度も雑誌の表紙を飾ることもあったくらいだ。人気だってかなりあったのだろう。地味に教師をするよりも、峰岸にはそっちのほうが似合っている気がしたのだが。
「あれは俺みたいな中途半端なのが続けていい仕事じゃねぇし、最初から大学卒業までって決めてたからな」
「お前は偉いな。ちゃんと自分の道を選択してる。僕なんて最初からこれしか考えてなかったから、駄目だった時のことすら考えてなかった。いま続けられているのも周りの人のおかげだし、一人じゃきっとなにも選択できなかったよ」
「センセはいまのままでいいんだよ。あんたがいるから俺たちはまっすぐに歩いてこられたんだ」
「や、やめろよ。峰岸に褒められるなんて、なんかくすぐったい」
どこにでもいるようなごくごく平凡な教師である僕が、誰かのためになっているのかと思えばそれ以上に幸せなことはない。教師としての役目をしっかり果たせていると言うことだ。
あの時、あのまま辞めてしまうことにならなくてよかった。まだ僕が頑張る場所を与えてくれたみんなには感謝をしなければいけない。
「センセは俺たちの指針みたいなもんだ」
「そんなに大層なことしてるつもりないけどな」
「そこがセンセのいいところだろ」
「褒め過ぎだ」
僕たちの時間は確かに流れているけれど、変わらぬものがそこにはあってほっとした気持ちになる。新しいことを始めたり、新しい場所でスタートしたり、みんな色んな道を歩き出した。だけどそこにある温かさはなに一つ変わらない。それがひどく嬉しいなと思った。