夏日07
僕が油断をし過ぎているのも確かで、隙があり過ぎるのも確かだ。でもこうも容易く弄ばれると、色んな意味でへこまずにはいられなくなる。そしてそのたびになんと言って藤堂に謝ればいいのかわからなくて、どん底まで落ち込んでいく自分がいる。
あれからしばらくして藤堂から「学校へ行きます」とメールが届いた。そのメールにも驚いたが、メールから四十分後。電話に呼び出され校門前へ行くと、しゃがみ込んだ藤堂が塀にもたれていた。よほど急いできたのか、頭を下げ少しばかりぐったりとした様子だ。
陽も暮れかけて直接的な暑さは弱まったと言えど、アスファルトに蓄えられた熱はまだ汗ばむほどの熱気を持っている。夏休みのためか駅から出る学校行きのバスが少ないこの時間、区間のふた駅を歩いてきたのか走ってきたのか――この様子では後者だろうか。淡いブルーの半袖シャツが汗で濡れて、中に着ているタンクトップがほんの少し透けて見えていた。
「大丈夫か」
俯いた顔を覗き込み、汗のにじむ横顔をハンカチで拭ってやれば、藤堂はゆっくりと顔を上げた。普段はレンズ越しの視線が、今日は遮るものなく直接こちらを見る。
あまり見る機会の少ない素顔に、自然と胸の鼓動が早くなっていくのに気づくけれど、じっとこちらを見る瞳から目を離せなかった。
「藤堂?」
夕焼けに染まる景色の中では、少しうるさいくらいに蝉の声と部活動の生徒の声が響き渡っている。けれど周りの景色や音は学校での日常なのに、制服姿ではない私服の藤堂が目の前にいるせいか、頭が少し混乱する。隣に並んで同じようにその場にしゃがむと、藤堂の手がゆっくりとこちらへ向かい差し伸ばされた。
指先は髪を梳き、優しく頬を撫でる。その感触にその先は容易に想像出来た。間近に迫る藤堂から離れなければと、頭の片隅で思うけれど、身体は一ミリも動かなかった。そっと唇に触れたぬくもりに思わず目を閉じてしまう。
頭ではわかっている。ひと気がないとはいえ学校で、しかも外でなにをしているのだと理性が問いかける。でもいまは触れたいと思う気持ちが優ってしまった。
「佐樹さん」
柔らかなぬくもりが唇から離れ、耳元で名前を囁かれる。閉じた目を開くと、至極機嫌のよさげな藤堂の顔が目の前にあった。
「藤堂、怒ってない?」
笑みを浮かべている藤堂からは、苛立っているとか怒っているとか、そんな気配はまったく感じられない。藤堂を焚きつけるような真似をした峰岸が悪いのだが、元を辿れば油断しまくりの自分が一番悪いような気もしてふと不安が募る。けれどそんな僕の心の内に気づいているのだろう。やんわりと小さく笑ってから藤堂は様子を窺う僕の頭を優しく撫でた。
「大丈夫、佐樹さんのことは怒っていませんよ」
子供をあやすみたいに優しく触れてから、クシャクシャになるほど髪をかき乱される。くすぐったい感触に驚いて目を瞬かせれば、藤堂はにこりと綺麗な笑顔を浮かべる。
「本当に?」
含みのある言葉に首を傾げると、ますます笑みが深くなった。
「えぇ、本当に」
多分きっと僕には怒っていないけれど、峰岸に対しては腹の奥に苛立ちを抱えているのだろう。綺麗な笑顔の裏にはいつもなにかが隠れている。いまではわかりやすいその感情は、最初の頃はまるで気づかなかった。けれど一緒にいる時間が増えて、間近で藤堂のことを見てきて、やっと言葉にしなくとも感じるようになってきた。
「喧嘩、するなよ」
「殴り合いの喧嘩はしないので心配しないでください」
すかさず返って来た返事に苦笑いを浮かべたら、含みのない無邪気な笑顔を返されてしまった。口喧嘩くらいならいいのだけれど、本当に藤堂と峰岸は水と油だ。
「なんか、ごめんな。こんなことで学校にまで来させて」
たまたま今日バイトが休みだったからよかったものの、これでバイトが入っていたらどうなっていたことだろう。普段はしっかりしているくせに、藤堂はとっさの出来事に対して時折周りが見えなくなることがある。今日はバイトをすっぽかしてでも来そうな勢いだったから、休みで本当によかった。
「こんなこと、じゃないですよ。俺にとっては重要なことです」
ほっと胸をなで下ろしていると、藤堂は少し不服そうに眉を寄せた。
「申し訳なく思うならどんなに仲がよくても、周りを少しは警戒するようにしてください」
「ああ、うん……気をつける」
藤堂をこんなに困らせるなら、危機管理能力というものについて改めて考えなくてはいけないなと、今更ながらに思ってしまった。けれど普通に生活をしていて同性相手に危機感はなかなか持ちにくいものだ。とりあえずは峰岸や渉さんなどわかりやすいところから気をつけようと思う。
「今日は、何時に終わります?」
「え?」
突然の問いかけに思わず首を傾げてしまった。
「せっかくここまで来たんで、家まで送ります。というより、送らせてください」
藤堂の言葉にまた気持ちが浮ついた。一緒に帰れるなんて想定外で、でもそれが嬉しくて、つい顔が緩んでにやにやとしてしまう。
「あ、えっと」
けれど僕はそんな情けない自分の顔に気づき、それを隠すように腕時計の文字盤に視線を落とした。
「佐樹さん?」
「もう、帰れる。今日は特にすることは、もうないから」
訝しむ藤堂の声に慌ただしく立ち上がり、僕は挙動不審なまま校内へ戻ろうと踵を返した。しかし歩き出そうとした僕を藤堂の手が引き止める。手首を掴まれた感触に驚いて振り返れば、藤堂は僕を見つめて苦笑すると肩をすくめた。
「そんなに慌てなくていいですよ」
「え、あ……うん」
驚いて瞬きを繰り返す僕を見ながら藤堂は肩を揺らして笑っている。少し気恥ずかしいその雰囲気に顔をそらしたら、じっと顔を覗き込むようにして見つめられた。そしてまっすぐな視線にやたらと僕の心臓は忙しなく動き始めてしまう。
「佐樹さん可愛いね」
「可愛くない」
手首を掴んでいた手が僕の手のひらを握り、優しく繋がれる。ひどく甘やかされているいまの状況がむず痒くて、ふて腐れたように唇を尖らせたら、ますます藤堂の頬が緩んだ。
「可愛いですよ」
優しく微笑まれて、指の先に口づけを落とされる。触れられた場所から熱くなっていくのがわかって、思わず手を振りほどきそうになってしまう。けれどそれは容易く遮られ、指先を掴む手に力が込められた。
「すぐ、戻るんですよね? だったら俺も一緒に行っていい?」
「え?」
「離れたくないって言ったら怒ります?」
多分きっとわざとだと思う。けれど上目遣いに首を傾げる、甘えを含んだその仕草にこちらはまんまと撃沈する。普段のなに気ないギャップにも弱いというのに、こうも甘えを全開にしてこられると抗いようがない。首を横に触れというほうが無理だ。
「ほんとに行って戻るだけだぞ」
「それでも構いません」
嬉しそうに笑われてしまうと、それだけで幸せに浸ってしまう自分がいる。
どうせ校内はいまの時間は人がほとんどいないし、私服の藤堂がいても大して目立つことはないだろう。
「じゃあ、さっさと行って帰ろう」
「そうですね」
「うん……って、これ」
立ち上がった藤堂を見上げ、いざ行こうと歩き出したのはいいが、繋がれた手が離れていかない。それを持ち上げて藤堂の顔とその手を見つめるが、それでもにこやかに笑っているだけだ。僕はその藤堂の笑みにひどく戸惑ってしまった。