店の中に入ると好奇心旺盛な子犬がこちらに向かって尻尾を振っていたり、マイペースにお腹をさらして寝ている姿が窺える。スタッフの女性は先ほどまで彼が見ていた子猫をケージから抱き上げた。
「マンションって、確かペット可ですよね? どうせなら飼えば良いのに」
「んー、そうだけど。面倒を見るのは大変だろう」
「面倒見に来ても良いですよ」
手渡された小さな子猫を抱き寄せながら、難しい顔をする彼に思わず笑ってしまう。いまはしり込みをしているが、彼は案外飼ってしまえばちゃんと面倒を見るタイプだとは思う。
「うーん」
「どうしたんですか」
なぜかひどく考え込む素振りを見せる彼に首を捻ると、またじっとこちらを見つめてくる。しかしその視線の意味がわからず、俺はその目をまじまじと見返してしまった。
「んー、やっぱりいい」
「どうして?」
「……猫のために来るんだろ」
「え?」
急に少し拗ねたみたいに口を尖らせる彼。その仕草に俺は目を疑った。しかしそんな俺の驚きをよそに、彼は子猫と無邪気に戯れる。
「なんかすっごい噛まれてる」
「そろそろ歯が生え替わる頃なんで、痒いんですよ」
「こう小さいと噛まれてもまだ痛くないもんだなぁ」
指先を噛む子猫に頬を緩める彼の様子は、思わず笑ってしまうほど微笑ましい光景、ではあるが――。
「ねぇ佐樹さん、俺も佐樹さんに噛みつきたいです」
可愛いことばかり言うこの人のせいで、俺はこんな小さな生き物にさえ嫉妬してしまう。さり気なくじゃれつく子猫の口元から彼の指先を抜き、そっと耳打ちするよう彼の耳元で囁く。するとボッと音でもしそうな勢いで目の前にある顔や耳、首筋までが赤くなった。
「……」
「どうしたんですか?」
信じられないものでも見るみたいに目を丸くしながら、真っ赤な顔でこちらを仰ぎ見る彼に意地悪くそう聞くと、一瞬だけ彼は泣きだしそうな表情を浮かべる。
「佐樹さん、やっぱり帰りませんか。猫は俺がいない時に見に来てください」
ムッと口を引き結んだ彼の手から子猫を取り上げ、近くでこちらを見ながら不思議そうに目を瞬かせていたスタッフの女性に返した。
「猫は一緒に暮らすようになってから飼いましょう」
「……しばらくは、いい」
ほんの少し物足りなさそうな顔をしていたが、彼は予想に反して小さく首を振った。そんな思いがけない反応に首を捻る俺の腕を取り、慌ただしく彼は会釈して店を飛び出していく。そしてそれに半ば引きずられながら、またお待ちしています――と言う声に送られ、俺もまた店をあとにした。
「佐樹さん?」
振り返ることなく歩き続ける彼の背中に戸惑うが、無言のままエレベーターへ押し込められると、部屋にまで急くよう押し込められ正直言って焦った。
「もしかして、怒ってます?」
少々悪戯が過ぎただろうかと、後ろ手で扉を閉めたまま俯いている彼の顔を窺う。
「……いい」
「え?」
ぼそりと呟かれた言葉がさっぱり聞き取れず、首を傾げればふいに両腕を引かれた。胸元に収まる体温に驚くが、背中に回された腕にぎゅっと強く抱きつかれ、情けないくらいに心臓が跳ね上がる。
本人はそこまで考えていないのだろうと、そうわかっていてもこの無自覚さにいつも自分の理性を試されている気がした。
「佐樹さん、なに?」
「お前だけでいい。しばらくは他のものいらない」
「……どうして、そういうこと言うかな」
これ以上、俺にどうしろと言うのか。無理やりに押し倒しても罰が当たらないんじゃないかと、そんな思いも脳裏をかすめたが――そんなことをこの人にできるはずもない。
「迷惑か?」
「そう、じゃなくて。迷惑なんかじゃないですよ」
いまだって泣きそうな顔をしてこちらを見上げるのだ。他の誰が泣こうと構わないけれど、この人に泣かれるのは困る。
「とりあえず、上がりましょうか。佐樹さんもご飯を食べてないでしょ?」
「……ん」
なだめるよう頬に口づければ、やんわりと彼の目元が緩む。機嫌はどうやら損ねていないようだ。
「もしかして藤堂、眠い?」
「え? ……まあ、少し」
安心をした途端に力が抜けて、急激に眠気が襲ってきたのは間違いではない。いち早くそれを見抜いた彼に手を引かれ、俺はソファに座らされた。
「僕はあんまり腹も減ってないし、ご飯は昼にして少し寝たらどうだ?」
「……じゃあ」
確かに時間は朝にも昼にも、食事をするには少し中途半端ではある。それにちょっと横になるくらいならば、さすがの俺も爆睡はしないだろう。
「佐樹さんの膝を借りても良いですか?」
「は? 膝?」
返事を聞く前に腕を取って隣へ座らせると、俺は状況をイマイチ理解出来ず目を瞬かせている彼の膝に頭を乗せた。
「えっ、あ……このまま寝るのか?」
「痛くなったら俺を避けてくれて良いですよ」
うろたえながら瞬きを繰り返す彼に笑みを返せば、ふいに頬を朱に染める。
「えっと、ああ、うん。……わ、わかった」
「じゃあ、よろしく」
小さく頷いた彼に満足して、俺は眠気に誘われ目を閉じる。そして意識の片隅で感じた躊躇いがちな指に思わず口元も緩んだ。そんなに優しく頭を撫でられては、正直いますぐにでも落ちてしまいそうだ。
しかし――。
「お前、寝てる時はほんとに可愛いよな」
呟く彼の声に眠気が若干覚めかけた。
「……それじゃあ、まるで普段は可愛げがないみたいじゃないですか」
楽しそうに小さく笑う彼の反応に瞼を持ち上げようとすれば、やんわりと手のひらで遮られる。
「普段もたまに可愛いけど……いつもは大人過ぎてちょっと可愛くない」
「なんですかそれ」
「別に、悪い意味じゃないぞ。ちょっと敵わなくて悔しいだけだ」
彼の言葉に思わず起こしかけた身体は、慌ただしく押し戻される。目元を覆われ表情は見えないが、きっと彼はまた顔を真っ赤にしながらあたふたしているに違いない。
「まあ、佐樹さんの可愛さには敵わないですからね」
「うるさいぞ! 早く寝ろ」
添えられた彼の手を握り、笑いをこらえて肩を揺らせばまたそわそわしだす。俺にとってこの人以上に可愛いものがないのだから仕方のない話だ。
「やっぱり佐樹さんも一緒に寝ませんか」
「良いんだよ、お前が寝てるのを見るのが好きなんだ。なんか幸せな気分になる」
「……またそうやって、天然もほどほどにしてくださいよ」
「天然じゃないっ」
「違うって言う人がそうなんですよ」
全力で否定する彼が可愛い過ぎて、込み上げてくる笑いが止まらない。
「馬鹿にするな」
「俺はそういう佐樹さんが好きだよ」
「もう、早く寝ろって」
「はいはい、わかりました。じゃあ昼前には起こしてくださいね。昼ご飯を作りますから」
「……うん」
小さな彼の返事に頬が緩む。
何気ない日常の中で、彼と笑い合うこの時間が変わらずこの先も続くのだとしたら、俺という人間は本当に幸せ者だとそう思わずにはいられない。
「藤堂、寝た? 起きるなよ。……僕も、お前のことが好きだからな」
彼と過ごす温かくて優しい日々、俺はそれだけを望む。小さな囁きと優しいキスに、心地よい眠りへと俺は落ちた。
[Pure Days / end]