陰日向01

※日常/引力以降のお話
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 バラバラと生徒たちが教室や校舎から吐き出されて、にわかに辺りは人の気配を感じさせた。
 そんな放課後の慌ただしさを横目にしながら、のんびりと渡り廊下を歩いていた僕は、ふいにかけられた声に呼び止められる。足を止めて振り返れば、見覚えのある女子生徒が二人そこにいた。

「どうした?」

「あの、に、西岡先生。いま良いですか?」

 そう落ち着かない様子で話す生徒と、その横でじっとこちらを見ている生徒は、僕が教科担当する二年生だった。
 僕が振り返ったことになぜか驚きをあらわにし、肩を跳ね上げたショートカットの子は確かクラス委員長だった気がする。その隣に立つ長い髪の子は、委員長といつも一緒にいるクラスのムードメーカー。対比的な二人が並んでいるので、普段から彼女たちは目につきやすい。
 今日も見かけたその二つの顔を見やり、僕は小さく首を傾げながら、目の前に立つ委員長の手元へ視線を落とした。

「なにか今日の授業でわからないところあったか?」

 委員長の手には教科書が握りしめられていた。
 普段から真面目で、飲み込みの早い彼女がまさかとは思ったが、このシチュエーションで考えられるのはそれしかない。

「あの、えっと」

「ん?」

 しどろもどろで顔を真っ赤にさせる委員長の様子に、僕が目を瞬かせれば、業を煮やしたらしい隣の生徒が彼女の手から教科書を奪い取り、開いたそれを僕の目先に突きつけた。

「先生、ここの話が難しかったので詳しく教えてもらえますか」

「あ、あぁ、構わないぞ。時間あるなら準備室に行くか?」

 挙動不審と猛烈な勢いにいささか気圧されながら、僕は目の前にある教科書をさり気なく避けると、渡り廊下の先を指差した。
 すると――途端に視線が右往左往していた委員長の顔がぱぁっと華やいだ。

「あります! すごくあります」

「そ、そうか」

 あまりの変化に面食らいながらも、僕は足早に準備室へと向かった。

「あれ?」

 ふと戸にかけた手が止まる。誰もいないはずの準備室に明かりが灯っていた。

「西岡先生?」

「あ、いや。なんでもない」

 急に固まった僕に、委員長たちは不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる。その二つの顔に我に返りながら、僕は準備室の戸を引いた。

「……あ、藤堂」

 西日が射し込み始めた室内にいた人物――その正体を知った僕の心臓が、驚きと高揚で大きく跳ね上がった。そして入り口で立ち尽くすそんな僕に気がついた藤堂は、俯いていた顔を持ち上げてこちらへ視線を動かした。

「先生、お疲れ様です」

 ふっと目を細めて笑った何気ない藤堂の表情に、ますます心臓が忙しなく動き始める。

「お、王子がいるっ」

「本物だよ、どうしよう」

 しかしうっかり彼の笑みに見とれてしまったのは僕だけではないようで、背後の二人が急にそわそわし始めた。なぜかやたらと背筋まで伸びて、ひどく緊張した面持ちが見て取れる。

「どうしたんですか。そんなところに立ち尽くして」

「あ、なんでもない」

 訝しげに眉をひそめた藤堂の視線に僕はふと我に返った。僕たちは三人揃って置物のようにして固まっていた。

「……そうか、今日はあれか」

 ふいをつかれ思わずうろたえてしまったが、今日は水曜日だった。毎週この曜日に藤堂は放課後ここへやってくる。

「西岡先生、あれってなんですか?」

 しかしそれは僕と彼との間にある暗黙の了解。つい口に出してしまった言葉に、委員長が首を傾げた。

「え? あー、それは」

「本棚整理の手伝いですよね」

 一瞬言葉に詰まり口ごもった僕に対し、藤堂は手にしていた古書を閉じながら、ゆるりと口の端を上げた。

「ん、あっ! そう、そうなんだ。この準備室にある蔵書をそろそろ整理しないといけなくて、頼んだんだ」

 そして僕はというと、とっさに藁にもすがる勢いで藤堂の言葉に便乗した。

「でも、先生がいない時に勝手に出入りしてるのがバレると困るから、今日のことは内緒にしていてくれないか」

 慌てふためく僕とは対照的な彼は、急な展開に疑問符を頭に乗せて首を捻る二人へ向け、人差し指を口元に当てて片目をつむった。その瞬間、二人の顔が赤く染まる。

「する」

「します!」

 急に宣誓のように声を揃えて挙手した二人に面食らいながらも、なんとなくもやっとした胸の奥に気分がひどく落ちた。後ろの二人にバレないように、僕はこっそりと藤堂の顔を盗み見た。

「先生? どうしたんですか」

「なんでもない」

 こちらが気を使っていることなど素知らぬ顔で笑う藤堂が、いまだけひどく恨めしく思えた。