第09話 異世界へのいざない
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 日が傾き始める頃までバザールを楽しんで、そろそろ城へ戻らなくてはならない時間が近づいた。
 雪兎は夕刻にリューウェイクと別れ、部屋へ戻ってしまうと、以降は宮殿内でしか動き回れなくなる。

 過ごす時間を不自由に管理しているようで、毎回申し訳なさが募った。
 護衛をつけ、自由に動けるよう体制を整えたいところだが、王族の宮殿も警備対象になる。

 元来、担当の兵や騎士が決まっているので、アルフォンソの許可が下りないと、なにもできないのが現実だ。

 一度、申請をしたものの曖昧に濁され、雪兎に対し人員を割きたくない雰囲気が感じられた。
 そうなるとリューウェイクが常に同行する形になる。

(少し今後の予定を調整しないとな。またノエルが怒るかな?)

 今日も苦々しい顔をしていたノエルの顔を思い出し、リューウェイクは小さく息をつく。
 しばし歩きながらどうしようかと考えを巡らせ、ふともう少しだけ雪兎と過ごせる場所を思いついた。

「ユキさん。部屋に戻る前に寄りたい場所があるんだけど」

「どこ?」

「うん、城壁の上」

「面白そうだな」

 乗り気になった雪兎にリューウェイクはほっとする。
 早速と騎士団の詰め所に顔を出し、軽く挨拶を交わしてから馬を引き取った二人は、まっすぐに王城へ至る石畳を進む。

 城壁と城下町のあいだは、壁の如く横に伸びる森林に隔てられているため、正門にたどり着くまで距離があった。
 のんびりといつものように、他愛ない会話をしながら進めば、二人が操る馬は森を抜け、跳ね橋を通過して正門をくぐった。

 厩舎は騎士や衛兵の寄宿舎が建ち並ぶ方向にある。
 普段はそのまま直行するのだが、今日は城壁の一部である見張り台へと馬を進める。

 城の門兵や城壁の見張り番は、第二騎士団の新人騎士や衛兵が交代で立つのがほとんどだ。
 見張り台に繋がる入り口に立った、第二の赤色の騎士服を着た少年たちは、リューウェイクを見るとすぐさま背筋を伸ばした。

 敬礼する彼らを片手で制して「ご苦労さま」と声がけをすれば、嬉しそうに瞳を輝かせる。
 所属は違っても団長、副団長クラスは新人には雲の上の人物なのだ。

「リュイはほんと騎士たちに慕われているな」

「うーん、純粋さがあるうちは憧れって強いものだし。僕は十九で第三の副団長にって団長から指名があったけど、団内より外野のやっかみが多かったよ。第一、第二はいまだに年功序列だったり、階級差別があったりするから、実力者でも上に行けない場合がある」

「なるほど、色々闇が深いな。それが嫌でいまの場所を選んだんだったな」

「そう、試験を受けて第三に入れたなら、自分の力で立っているような気になれるからね。あぁ、ユキさん。ちょうどいい頃合いだよ」

 見張り台へ続く狭い石階段を上りきって、外に繋がる扉を開けば、目に眩しいほどの夕焼け色が広がった。

 いまの時刻は巡回が終わったあとなので、見張り台にいるのはひと組の青年騎士たち。
 彼らはリューウェイクに気づくと会釈をし、席を外してくれた。

 眼下には森、その先には王都の街並みが見渡せる。
 さらに向こうは農地が広がっていて、空もとても広大に感じられた。

「時々ここへ来るんだ。僕がいる場所、守るべき国を再認識するために。……あとは単純に夕焼け空が綺麗でしょう? 深呼吸するだけでなんとなく心が洗われる気がするんだ」

「確かに美しい景色ではある」

 見張り台のヘリに体を預け、遠くを見る雪兎の隣でリューウェイクは目を細める。
 女神が護るこの国はこの上なく美しい。

 肥沃な大地で、資源も豊富な魅力に溢れた国が他国から侵略されないのは、加護があってこそだった。
 王都に騎士団、辺境に軍隊が存在していても、大きな戦争など一度もない。

 恩恵はリューウェイクも存分に受けている。それでも――

「父上がグレモント陛下に譲位した時、数十年は間違いなく安寧が維持されるからなんの心配もないと、そうおっしゃったらしいんだ。女神さまの大いなる祝福があると、父上はなぜか確信を持っていたみたいで」

「もう十年だったか? 言葉どおりなにごともなく平和なんだろう?」

「平和すぎたのが良くないのかな。目に見える奇跡がないから陛下は安心できなかったんだ」

「次兄は腹黒い狐のようだったが、国王は臆病なんだな。案外、平凡なタイプなのかもな」

「変わらない、平和な毎日のなにがいけない? 歴史に残る太平を築いた時代の王に――なんて感情は、私利私欲でしかないと思えてしまう」

 国民は日々の暮らしが保証されていれば、十分に幸せだと口を揃えて言う。
 奇跡が起きれば感動し、喜びはしても彼らの日常に必須ではない。

 国に不利益を生んでいないので、グレモントは愚王ではない。
 だとしてもリューウェイクから見ると、動かす国力に無駄が多いように感じた。

 言葉だけ聞くと大した話ではないように感じるが、国力とはすなわちそこに生きる〝民の力〟だ。

「わざわざユキさんたちを呼び寄せずに、自分たちの力で解決策を見出せば良かったのに。僕は他人の力に頼りきり、他人の人生を軽んじる考え方にはどうしても、納得できない。記録にないからと言って、これまでの聖女たちが一度も故郷を偲ばなかったなんて、どうして言えるんだろう」

「リュイ」

「あっ……ごめんなさい。愚痴を言うために来たわけじゃないのに」

「違う。リュイはもっと吐き出したほうがいい。せめて俺がいるときくらいは自由に」

 握りしめたリューウェイクの拳に温かな手が重なり、優しく手の甲を撫でる。
 宵闇の空間に立つ雪兎の姿は一枚の絵画のようだ。艶やかな黒髪がいつしか、空気に溶け込んでしまいそうにも見えた。

 視覚とぬくもりから与えられる温度差で、リューウェイクは身動きがとれなくなる。

(ユキさんはあとどのくらい、ここにいられるのかな。帰還の研究は進めているけど、なんだか複雑だ)

 そのままぼんやりと立ち尽くし、目の前の光景を見つめていたリューウェイクだったが――突然、雪兎に手を握られ強く引き寄せられた。
 瞬間、さすがのリューウェイクも我に返った。

「ユキさん?」

「倫理感がおかしい人間しかいないと、正しいはずの感覚が異常になる。本当にリュイには生きにくい世界だな。ここで一人では消化できない、吐き出せない気持ちをリセットしてきたんだろう?」

 体を抱きしめられて、大きな手でトントンとあやすように背中を叩かれる。
 最初はなにが起きたのか理解できずにいたけれど、感じる温かさや柔らかい声音に、リューウェイクの肩の力が抜けた。

 しかし状況を正確に把握したあとも、自分の意志で腕の中からどうしても抜け出せない。
 いたわりや愛情を込めて抱きしめてもらうのが初めてで、リューウェイクは自ら手放すのが惜しくなった。

 弱気な心に負け、雪兎の肩口に額を預ければ、黙って髪を梳き、頭を撫でてくれる。

「もし俺たちの世界に、リュイも行けるとしたらどうする?」

「……え?」

「もっと自由に、他人に縛られずに生きられる世界だ」

「僕、は……」

「リュイが許してくれるなら、俺が君の傍にずっといる。我慢なんてせず、素直に笑える場所で一緒に暮らそう」

(どうして急に――まるで自分の気持ちを見透かされたみたいだ)

 異世界の聖女たちも、こんな風に女神に誘われたのだろうか。
 居場所のない人間にとって、抗いがたい甘美な誘惑は、ある種の現実逃避とも言える。

 だとしても冷静さを取り戻した時には、引き返せない逃避――人生をかけた選択でもある。

 元の世界で貧困に喘いでいれば、裕福な生活は満たされるかもしれない。
 愛に飢えていれば、敬い大切にされる生活は幸福かもしれない。

 それでも自分はここまで本当に、たった一人で生きてきたのか。
 問われたらリューウェイクは、否と答えるだろう。

 たとえ家族や友人と呼べる存在がいなくとも、気を許した仲間や愛すべき民がいる。
 繋がった縁を放り投げてまで選択するべきか判断ができない。

「いますぐ応えてくれなくてもいい。少しでもいいから考えてほしい」

「……うん」

「このままリュイをここへ残していくのは、後悔が残りそうなんだ」

「ありがとう」

 結局答えは見つからず、日が沈みきるまで染み入る体温に身を任せるしかできなかった。

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