心の熱
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 好き――そんな気持ちがよくわからなかった。誰かに甘い想いを抱いたり、心焦がれるような気持ちになったり、そんなこといままで一度もなかった。でも時折一人が寂しいと感じることはある。そんな時に誘われると好きな気持ちが湧かなくても、まあいいかと頷いてしまうことはよくあった。

 もちろんそんな関係は長く続くはずもなく、相手は我慢しきれず離れていく。好きになってくれなかったね、と言って涙をこぼすのだ。自分は人を好きにはなれない人間だからと最初に言っていても、自分を恨みがましく見つめて去っていく。
 けれどそれも慣れたし、付き合うという期待を持たせる自分も悪いのだ。だからもう誰かと付き合うのはよそうと思っていた。そもそも一人が寂しくなるなんて稀なことで、少し我慢すればそんな気持ちはすぐに薄れる。

「聞いてよ先生。俺このあいだのテスト学年で三十五位だった」

「へぇ、頑張ったね。最近は授業も受けられるようになったみたいでよかった」

 けれど最近は少し気持ちが揺れ動くようになった。ある一定の人物にだけ、胸が時折きゅっと締め付けられる時がある。それはなんだかむず痒くて、そして時々苦しくて、心が乱れてしまう。おかげでいまはそんな自分の変化に戸惑う日々だ。

「卒業まであと一息だよ」

 静かな白い空間。自分のテリトリーであるここにいつものように現れて、胸が温かくなるような朗らかな笑顔を浮かべる彼が件のその人だ。
 彼にこんな感情を抱いていることはまだ知られていないと思う。自分はどちらかというとポーカーフェイスだから、あまり人に感情を読みとられることはない。

「早く卒業したい」

「穂村は気が早いな。進級して二ヶ月経ったばかりだろ」

 本当に待ち遠しそうに呟くものだから、思わずペンを動かす手を止めて笑ってしまった。自分が仕事をしている傍らで、彼はいつものように椅子にまたがり背もたれを抱え込んでいる。

 今日は特に上機嫌なのか、頬の血色もよく瞳もきらきらと輝いている。最近は熱を出すことも少なくなってきたので、学校にいられる時間もかなり長くなった。
 このまま免疫力もついて丈夫になっていってくれればいいのだけれど、そう思いながら笑顔の彼にほっとした気持ちになる。

「去年の一年は結構早かったから、今年もあっという間な気がするんだよな」

「もうちょっとゆっくり学生生活を楽しんだらいいのに」

 せっかくほかの生徒たちと同じような生活を送れるようになってきた。前までは特別クラスで一人授業だったけれど、いまは一般生徒と同じクラスに出席するようになったのだ。
 一見した見た目は金髪につり目と派手でキツそうだが、接するとすぐに彼の優しくて包容力のある性格に気づく。

 だから友達が増えたのも知っている。いつでも彼の周りには人が集まって、笑い声や笑顔が絶えない。ずっと学生らしい生活とは言えなかったのだから、あと一年楽しめばいいのにと思う。

「先生は野暮だな。早く卒業して先生を手に入れたいからに決まってるだろ」

 すっとこちらへ伸びてきた手が自分の赤茶色い髪を梳いて撫でる。長い襟足をすくうようにして触れるその手にドキリとした。髪を梳くたび指先が首筋にかすかに触れて、胸の鼓動が少しずつ速まっていく。

「前の長い髪もよかったけど、いまの短いのも似合ってる」

「んー、頭は軽くなった」

 ずっと長く伸びた髪を切れと言われ続けて意地になって伸ばしていたが、向こうが諦めて言わなくなったのを機にばっさりと短く切った。元々無精して伸びていただけだったので、長いのが好きだったわけではない。
 ようやくさっぱりしたというところだ。一つ困ることがあるとすれば、長くても短くなっても、彼は自分の髪に触れてくる。短くなった分だけ肌にも触れられることが増えた。そのせいで動悸がやまない。

「やっぱり長いと重さあるんだ」

 くすくすと肩を揺らしながら笑い、大きな手のひらで頬を撫でてくる。彼のことはまだ子供だと思っていたけれど、その手は男らしくて触れられると胸が高鳴る。そういえば最近少し目線の高さも変わったような気がする。もしかしてまだ成長期なのだろうか。

 しかし十八、今年で十九になるくらいの歳なのだから、成長してもおかしくない。そんなことを考えてふと自分との距離を感じた。彼と自分は七つも歳が離れている。この先、彼との時間は共有できるのだろうか。

「どうしたの先生」

「なにが?」

「なんだか少し浮かない顔」

「……そんなことは、ない」

 一年前、彼に告白をされた。高校を無事卒業できたら付き合ってほしいと。それに自分は卒業できたならと頷いた。彼の気持ちが嬉しいと感じたし、そのやる気が身体を大事にすることにつながるならばと思ったからだ。
 けれどいまの彼を見ていると、自分なんかよりももっとふさわしい相手が現れるんじゃないかと考えてしまう。

 これまでは自分がいるこの空間が彼の学校のすべてだったけれど、いまはもっと広がってたくさんの人と触れ合っている。
 この先、高校を卒業すればまた新しい人とも出会う。それを思うと自分への感情は、熱に浮かされたいまだけなんじゃないかとも思ってしまう。

「先生、不安そうな顔してる」

「なに言ってるの」

「俺にはわかるんだよ。どれだけあなたが好きだと思ってるの。俺の気持ち、疑わないでくれる?」

 見透かされている。そう感じた瞬間に頬がカッと熱くなった。それを悟られたくなくて俯いたけれど、遅かった。椅子を降りた彼が自分の横に立ち、引き寄せるように頭をぎゅっと抱きしめる。

「あんまり触れると我慢できなくなりそうでしたくないんだけど、先生いま俺を見て不安になってるから」

 違うって言葉を紡ぎたいのに声が出ない。もっと毅然とした態度で接したいと思うのにうまくいかない。抱きしめられて胸がきゅっと締め付けられてしまう。
 こんなふうに自分がコントロールできないのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。誰かに自分の心が翻弄されるなんていままでなかった。

「先生のその顔好き。俺のこと考えて戸惑ってどうしたらいいかわからないって顔してる。うぬぼれちゃってもいいよね」

 もしかしてばれているのか。彼に向かうこの気持ちは隠せていないのかもしれない。そう思ったら心臓が馬鹿みたいに早くなった。どうしてそんなに彼は聡いのだろう。

「好きな人のことならなんでも知りたいって思うの当然だろ。だから先生の表情は見逃さないよ」

 心を読んでいるかのような言葉に驚いて顔を上げたら、至極嬉しそうな笑みを浮かべて彼は自分を見下ろす。頬が熱い――きっと目に見えるほど赤くなっているに違いない。けれどまっすぐと見つめるその視線から目をそらすことができなかった。

「穂村……」

 これ以上触れられていると奥底までのぞかれそうで、離してとそう言いたかった。けれどその言葉は紡ぐ前に柔らかな唇に押し止められる。なにが起きているのか一瞬わからなかった。
 驚いて目を見開く自分の視界には瞼を閉じた彼の顔がある。それをしばらく見つめてようやくいまの状況に気づく。あまりにも突然のことで反応が遅くなってしまった。慌てて彼の肩を押すと触れていた唇が離れていった。

「嫌だった?」

「……」

 言葉に詰まる。嫌ではなかったから、嫌悪も感じなかった。そんな自分の反応に戸惑ってしまう。好きだとは言われた。付き合ってもいいとも答えた。けれどそれはちっとも現実的じゃなくて、いままでは甘い言葉の囁きでしかなかった。
 それによくよく考えなくても自分たちは男同士だ。いまだ世間は同性同士の恋愛に寛容ではない。そんな恋愛を自分は本当にしたいのだろうか。しかし考えてみても心にある感情は消せなかった。

「穂村は男性が好きなの?」

 自分は男である前に一人の人間として彼が好きなのかもしれない。けれど彼の心はどうなのだろう。これは一時の浮かされた熱なのではないのか。

「んー、どうだろう。自分でもよくわからない。けどいまは好きになったのが先生だっただけ。それじゃ駄目?」

「それは」

 やっぱりその気持ちは熱のせいだ。そう紡ぎたかったのに、また言葉を押し止められてしまった。柔らかく触れる唇は温かく、思わずうっとりと目を閉じてしまう。すると触れるだけだった口づけは唇をついばむように吸い付き、ぺろりと唇を舐める。
 驚いて彼の名前を呼ぼうとしたら、その隙に濡れた舌が口内に滑り込んだ。その舌は口の中を撫で回し、逃げを打つ舌を絡め取る。

「んんっ、ほ、むら」

「先生忘れた?」

「なに、を」

「先生だけ、ずっと好きって言ったこと」

 ほんのしばらく離れた唇はまたすぐに触れ合う。抱きしめられて身体を抑えられてはいるけれど、きっと抵抗を示したら彼は離してくれるはずだ。それなのにされるがまま、身体が動かない。
 それは抱きしめられていることも、キスをされていることも嫌じゃないからだ。むしろ自分は喜んでいるんじゃないだろうか。

「先生可愛い。もしかして見えない誰かに嫉妬してるの?」

 嫉妬――この胸のわだかまりは彼の目に映る誰かに向ける嫉妬なのか。そんなことないと思いたいのに、その言葉はすとんと胸の中に落ちてきた。
 それとともに自分がどれほど彼を好きになっているかに気づかされる。誰かを好きだなんて気持ちいままで知らなかったのに、どうしてこんなに彼を好きになってしまったのだろう。

「好き、大好き、愛してる。言葉じゃ伝えられないくらいだよ」

 愛されることに慣れていないからだろうか。それなのにこんなにまっすぐに愛されて、心が揺り動かされる。彼の熱に引きずられているのかもしれない。だからこんなにも胸が苦しくて仕方がないのだ。

「待ってて先生。必ず俺があなたを幸せにしてみせるから」

 その言葉に胸がまた高鳴る。けれど自信ありげな顔でそう囁く彼の胸の音は少し早かった。彼の熱が伝染するように自分もまた心の熱が高まっていく。そっと腕を伸ばし背中を抱きしめると、ぬくもりが心を満たしていくそんな気がした。

[心の熱/end]

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