伝わる熱01
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 少しずつ流れていく時間の中で、自然と彼の姿を追いかけることが増えた。彼はいつでも楽しげに笑い声を上げ、光の粉をまとっているかのように煌めいている。
 でもそれはたぶん自分から見えるフィルターで、特別に見えているんだと思う。それが眩しくて自分はいつも目を細めてしまう。

あぁ、眩しいな――そう思うたびに胸が痛くて苦しくてたまらなくなる。
 自分の前で見せる彼の笑みが大人びて、乱雑だった言葉が柔らかくなって、触れる手が優しくなって、どんどん胸が痛くなる。いつか呼吸が止まってしまうじゃないかって思えるくらいに。

「湯川先生」

 しんと静まった室内にガラガラキリキリと雑多な音が響く。最近滑車の滑りが悪くなった戸は耳障りなほどうるさい。けれど自分の世界に没頭している自分に来訪者を知らせるには丁度いい。紙面にペンを滑らせていた手を止めて呼び声を振り返る。

「タオルを貸してもらえませんか」

 振り返った先にいるのは彼ではない。足音も戸を開く音も違う。だから愛想笑いどころか表情筋すら一ミリも動かない。しかしそんな自分の反応に相手もさして気にする様子はなく、こちらを見てへらりと笑うだけだった。

「鹿島先生、水遊びにはまだ早いですよ」

「まったくですね。びちゃびちゃでかなり寒いです」

 今春やって来た新任の教師は髪の毛から水を滴らせながら、両手で身体を抱くと小さく震えた。そして大きなくしゃみをしてこちらをじっと見つめてくる。
 夏にはまだ少し早い六月。さすがにそのままにして風邪を引かれても面倒だ。仕方なしに椅子から立ち上がると、棚に備えていたタオルを二枚ほど掴んで棒立ちのままでいる鹿島に無言で差し出した。

「ありがとうございます!」

 ぱぁっと花でも咲いたかのように表情を明るくして鹿島は足早にこちらに向かってくる。思いのほか間近に迫って無意識に一歩後ずさるが、当人はまったく気がついている様子はない。押しのけるようにタオルを顔に押しつけ、のほほんとした顔に大仰なため息を吐き出した。

 新卒の新任は人好きのする雰囲気と性格で評判がいい。素直で実直で年寄りたちにも大いに可愛がられている。はっきり言って自分から見て面倒くさいなと感じるタイプだ。
 関わりたくないなと思ってあまり話したこともないが、いつもへらへらしていて少し苛立つ。しかもどんくさいのかこの男。

「あのさ、ずぶ濡れなんだから撫でてるだけじゃ乾かないと思うけど。ほら、もっとしっかり拭きなよ」

 タオルを一枚もぎ取りてっぺんから被せると、頭をガシガシと力任せに拭いた。自分より背の高い鹿島はされるがままにこうべを垂れている。図体のでかい子供を相手にしている気分だ。

「湯川先生、お母さんみたいですね」

「だれがお母さんだ。あんたみたいな子供はいらないね。っていうか、シャツは? 着替えあるの?」

 よく見れば水気を含んで濡れているのは頭だけではなく、上半身にまで至る。白いシャツが肌に張り付いてアンダーシャツが透けていた。見ていて寒々しいことこの上ない。

「ない、んですけど。なにか着るものあります?」

「あんたに着せるものはないよ。アイロンかけてやるから脱いで」

「助かります」

「とろくさい。あんたいつもそんなにどんくさいの?」

 ボタンを外すのにさえもたついている鹿島の手を払うと、さっさとボタンを外して濡れたシャツを剥ぎ取った。そして濡れそぼったそのシャツを遠慮もなく流し場で雑巾のように絞り水気を切る。思っていた以上に水を含んでいたシャツからはだらだらとしずくがこぼれた。

「いやー、ちょっと思った以上に寒くて、手がかじかんでしまって」

「なにをしたらこんなに濡れるわけ」

「あー、来月廃館になる体育館から生徒がほこり被ったボールを発掘してきたみたいで、中庭の流し場で洗ってたんですけど。そのうち遊び始めて周りもびちゃびちゃになってきたんで、注意しようと近くまで行ったら蛇口のホースが盛大に外れて頭から水を被りました。昼休みも終わりそうだったから生徒を教室に戻して片付けてたら遅くなってしまって」

「馬鹿だね。最後まで片付けさせればいいのに」

「生徒も結構濡れてたんで、風邪を引かせたらいけないと思って」

 それで自分が風邪を引いていたら世話がない。何度もくしゃみを繰り返す鹿島に肩をすくめて息をつくが、締まりのない顔でへらへらと笑う。この笑っていればなんでも許されると思っていそうな顔が正直好きになれない。

「あんたみたいなのを人が好いって言うんだろうけど。自分から言わせれば間の抜けた馬鹿だね」

「……そんな風に言われるのは初めてです。湯川先生って、ちょっとひねくれてますね。いや、正直なのかな」

「呆れた。嫌味も通じないんだな」

「あ、嫌味だったんですか」

 あっけらかんとした顔で目を瞬かせる鹿島は、舌打ちするこちらなど意識もせずに小さく首を傾げる。その顔がなんだか憎たらしくて、シャツを焦がしてやろうかという気分にさせられた。
 けれどこのシャツが焦げ付いたところで、この男はきっと仕方がないですねと笑うだけだろう。そんな面倒くさい状況などまっぴらごめんだ。早々にこの場所から退場願いたい。

「先生たちは口を揃えて気難しいって言うけど、生徒に聞くと怖いとか厳しいとか言う割に嫌いだって言う子いないんですよね」

「だから? なに?」

「ぶっきらぼうだけど、きっと優しいんだろうなって思ってたんですけど。本当にそうだった」

「あんた、目が悪いんじゃないの」

 いちいち癪に障る男だ。笑いながら人の隙間に滑り込んでくる。一見すると気の利く優男に見えるだろうが、人の目から見る自分をよく心得ているような気がする。それと同時に人の視線の先を見透かしていそうなところがある。

「ほら、これだけ乾けば十分だろう。さっさと職員室に戻れば」

「わぁ、ありがとうございます。湯川先生はアイロンがけも上手なんですね」

「……」

 少し気が尖りすぎているのだろうか。無邪気そうにシャツを握りしめる姿に少し毒気が抜ける。そういえば彼に初めて会ったときも、人なつっこく笑いかけられて厄介な相手だなと少し警戒した。けれど見た目の印象を軽く覆してしまうほどの素直さに、いつの間にか肩の力が抜けていた。
 人に関わるのが億劫だと感じているから疑り深くなってしまうのだろうか。

「湯川先生の瞳って綺麗な茶水晶みたいですね」

「は? っていうか、なんでそんなにパーソナルスペース狭いの」

「え? 湯川先生が真っ直ぐにじっと見つめてくるからなんだろうと思って」

 ぼんやりしている間に目の前に迫った顔がこちらをのぞき込んでいた。慌てて身体を反らして後ろに下がると、椅子に足を取られてバランスを崩す。とっさに手近にあった鹿島の腕を掴むが、我に返って振り払ってしまった。

「大丈夫ですか?」

 ひっくり返りそうになった身体は、腕を伸ばした鹿島に抱きすくめられた。身じろぎできない体勢に気づいて反射的に身体に力が入る。けれど腕の力は弱まることがなく、至近距離にぶれない視線を感じた。

「前髪、長いからあんまり見えなかったけど。泣きぼくろがあるんですね。わ、まつげ長っ」

「ちょ、ちょっと、おいっ」

 無遠慮に目元にかかる前髪をかき上げる指先。興味津々に人の顔をのぞき見る視線。どれも不快でしかなくて、力任せに手を伸ばして顔を押しのけた。
 痛いと声を上げられたけれど、お構いなしに手を放すまでめいっぱい押しやる。さすがに顔を引っ掻かれて好奇心は引っ込んだのだろう。鹿島は身を引くと苦笑いを浮かべて頬をさすった。

「野良猫みたい」

「とっとと帰れ」

「湯川先生、今度一緒にご飯でも」

「行かない!」

 あからさまに顔をしかめたにもかかわらず鹿島はへらりと笑った。いかにも手を焼いて困っていますと言わんばかりの顔。持て余しているのはこちらのほうだと言いたくなる。けれどそれでもまた笑って流されるだけだ。面倒くさい。

「もう用はないだろう。早く」

「先生!」

「うるさっ、い」

 大きな声が室内に響き、とっさに声を上げてしまったが、目の前の鹿島はこちらを見ていなかった。その視線の先には顔を真っ青にしたジャージ姿の男子生徒が立っている。息を切らせてこちらを見る目が真っ直ぐに助けを求めていた。

「どうした?」

 戸口に立ったまま動かない少年はいまにも泣き出しそうに顔を歪める。震える唇が言葉を紡ごうとしたところで廊下から慌ただしい足音が聞こえた。足早に廊下へ足を踏み出すと戸口の生徒と同じように顔を青くした少年が三人。自分の元へと駆け寄ってくる。

「先生!」

「どうしよう」

「穂村が」

 矢継ぎ早に声を上げる生徒たちの口から飛び出した名前に心臓が一瞬縮み上がった。一番後ろに立つ生徒が背負っている少年は見覚えのある黄金色の髪をしている。意識がないのか肩から伸びる白い両腕はだらりと下を向いていた。

「先生っ」

 血の気が引いて目の前が真っ暗になりそうになったけれど、しがみつかれた手に我に返る。息を飲み込み踵を返すと、手早くベッドを整えて生徒たちを促した。彼らは穂村を背負う少年のあとをぞろぞろとついて歩き、ベッドを囲うように集まった。皆一様に顔を強ばらせて穂村を見下ろしている。

「湯川先生、この子たちさっき流し場にいた子ですよ」

 後ろで様子を見ていた鹿島が思い出したように少年たちの顔を見回す。その視線に全員ばつ悪そうに視線を落として俯いた。なるほど通りで穂村までジャージ姿なわけだ。彼は普段あまり体育に参加できないのでジャージに着替えるのは珍しい。

「授業中に急にぐったりして」

「……水で身体を冷やして熱が出たんだろう。穂村は免疫力が弱いから熱が出やすいんだ」

「すみませんでした」

「俺たち調子に乗って」

「あとはこちらで看るから君たちは教室に戻りなさい」

 こぼれ落ちそうな涙をこらえて頭を下げた生徒たちの背を一人ずつ叩いて促すと、すがるような目でこちらを見つめながら彼らはとぼとぼと教室に向かい歩き出した。その後ろ姿を見送ってから戸口に身体をもたれて息を吐き出す。心臓がキリキリと締め上げられるみたいに痛い。

「湯川先生?」

 ふいに肩を後ろに引かれて大げさなほど跳ね上がる。ゆるりと振り返り、まだもう一人いたことを思い出して口を引き結んだ。

「湯川先生、顔が真っ青ですよ」

「もう帰ってください」

「あの、大丈夫です、か」

「あなたも早く帰ってください。……いいから早く出て行ってくれっ」

 なにか言いたげに口を開いた鹿島の腕を掴むと乱雑に廊下に押しやった。そしてこちらへ伸ばされる手を遮って勢い任せに戸を閉めると、後ろ手に鍵を閉めてその場に力なくうずくまる。胸が痛い。胸が引きちぎれそうなほど苦しくて、苦しくて涙がこぼれた。

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