伝わる熱02

 こんなこと初めてじゃないのに、いつも怖くて立ちすくんで動けなくなる。彼の存在が大きくなるほどに苦しくなった。自分が弱くなっていくのがわかる。でもこんなところでうな垂れている場合じゃない。震える手を握りしめて涙を拭うと、大きく息を吐き出して立ち上がった。

「少し呼吸が荒いな。だいぶ熱が上がってきたかな。肺炎を起こすかもしれないから早めに病院に連れて行かないと」

 ここで出来ることはほとんどない。応急処置をして病院に送り届けるので精一杯だ。けれど救急車まで呼んで大ごとにするわけにもいかない。

「……せ。せんせ」

「穂村?」

 氷枕を敷いて、汗ばんだ肌をタオルで拭っていると穂村の唇が小さく言葉を紡ぐ。うわごとだろうかと額の前髪をかき上げて閉じられたまぶたを見つめる。
 しばらく黙ったままかすかに震えるまぶたを見つめていたが、まつげに縁取られたその目は開かなかった。けれどにじむ汗を優しく拭き取り冷却シートを貼り付けてやると、息をつくように少し長い息を吐き出した。ほんの少しだけ呼吸が緩やかになる。

「三十八度六分か。まだ上がりそうだな」

 耳に当てる体温計で体温を測ればやはり熱は高くて、この調子だと二三日は熱が続くだろうと予想が出来た。穂村は一度高熱を出すと下がるまでにいつも時間がかかる。
 極端に免疫力が弱くて、ぜんそくまで併発するとさらに厄介だ。最近はあまり体調を崩すこともなく学校生活を送れていたのに、しばらく入院になるかもしれない。

「お前はいつでも頑張っているのにな。神様は不公平だ」

 胸を上下させて苦しそうに呼吸を繰り返すその姿にまた涙が出そうになる。毎日続く微熱に目元を紅くさせて笑うそんな姿ばかりが目に浮かぶ。大丈夫、大丈夫とこちらに心配をかけまいとして笑みを絶やすことがなかった。
 こんなに頑張っているのに、どうして神様は穂村に健康な身体をくれなかったのだろう。信心者ではないが、こんなときは神というものに不平不満を言いたくなる。

「せんせ」

「穂村、目が覚めたか」

 お湯を張ったたらいを片付けようと立ち上がるが、白衣の裾を小さく後ろに引かれた。その感触に振り返ってみると、こちらを見つめる眼差しと視線が合う。熱で潤んだ瞳がひどく不安げな色を浮かべていて、白衣を握る手に力がこもっているのがわかる。

「うん、ごめん」

「なにを謝ってるんだ。いまお母さんに連絡するから、すぐに病院に行けよ」

「先生」

「なに? まだ横になってたほうがいい。熱が出て身体が痛いだろう」

 いつまでも握った手を離さない穂村はじっとこちらを見つめてくる。その心を問うように首を傾げてみせれば、思い詰めたように視線を落としてしまう。どうしてやるのが最良なのか。
 正直言えばよくわからなかったが、引き留めるような手を放っておくことが出来ず、たらいをサイドテーブルに置いて傍らの椅子に腰かけ直した。すると彼はほんの少しだけ安堵したように握っていた手を開く。

「どうした?」

 俯きがちの顔をそっとのぞき込むと、一文字に引き結ばれた血色の悪い唇が目に入る。日に焼けていない肌がいつもより青白くて、儚げな横顔は心配になるほど容易く手折れてしまいそうだと思った。

「……母さんは、呼ばないで」

「どうして?」

「……やっとパートの仕事が決まって、仕事を始めたばかりなんだ。小さな子供でもないのに、熱を出したから早引きなんて、申し訳ないから。十六時には終わるから、それまで待って欲しい」

 ぽつりぽつりと呟くような小さな声で話す彼は、きっと自分自身の身体が思い通りにならないことをずっと気にしてきただろう。

 彼の母親はとても小柄でほっそりとした女性だった。けれどいつも気丈で彼と同じように人を励ます笑顔を浮かべる人だ。
 毎日忙しく働く父親はあまり顔を合わせることはないが、穏やかな優しい人だったと記憶している。

 だからこそ彼の中にふくれ上がるその思いは誰にもぶつけられずに押し込まれてきた。誰よりも本当に深く愛されているから、愛してくれる人を傷つけたくないんだ。
 彼の心はひどく優しくて脆い。

「穂村、たぶんまだ熱は上がると思う。早めに病院に行って検査してもらったほうがいい」

 弾かれたように顔を上げて、落胆した表情を浮かべるその頬を優しく撫でた。泣き出しそうな瞳に水の膜が張ってキラキラとした光が揺れる。
 不謹慎にもその煌めきがあまりにも美しく思えて、吸い寄せられるように唇を寄せた。まつげに溜まった涙は瞬くたびに涙の粒をふるい落として頬を濡らす。

「大丈夫、私がちゃんと連れて行ってあげるよ。安心して。車を出すから一緒に行こう」

「あ……うん。ありがとう」

「どういたしまして。いま担任の先生に伝えてくるから少し待ってて、荷物もとってくる」

「あ、先生。……待って」

 立ち上がると穂村はなにかを言いたげにこちらを見上げた。伸ばすのをためらっているかのような手が、所在なげに宙ぶらりんの状態になっている。受け止めた視線を見つめ返せば、少し困ったように目をさまよわせた。

「ハグしてあげようか?」

「……うん。ぎゅっと強く抱きしめてください」

 両手を広げて小さく首を傾げてみせれば、おずおずと頷き少し恥ずかしそうに頬を染める。その恥じらう姿が可愛くて、広げた腕で包み込むように肩や背中を抱きしめた。
 それに応えるようにゆるりと伸ばされた腕が背に回り、頭を預けるみたいにおでこをすり寄せて甘えてくる。

 隙間がなくなりそうなほど抱き寄せて、柔らかな黄金色の髪に頬を埋めた。いつもより高い体温。しっとりと汗ばんだ肌。しわを作る指先がなにもかも愛おしくて。いま感じる鼓動にひどく安堵した。

「泣いてもいいよ」

「ううん、まだ泣かない」

「一人じゃないと泣けないんだな」

「うん」

 抱きしめた腕をゆっくりと解いて、俯いた顔をのぞき込むことはせずに背を向けた。振り返りそうになる心を押し止めて廊下に足を踏み出すと、かすかに押し殺すような声が聞こえてくる。
 その声に後ろ髪を引かれながらも静かに戸を閉めれば、声にもならない嗚咽が鼓膜を震わせた。

 何度そうして声を殺してきたのだろう。癒やしてあげることも叶わない両手を見下ろし、無力さを呪い顔を覆った。喉の奥が熱くなって込み上がってくる感情とともに涙があふれ出しそうになる。
 けれどそれは両手のひらで拭い押し止めた。自分が泣いても仕方がないのだ。泣いたらきっと彼は気丈に笑ってみせる。自分はそんな笑顔が見たいのではない。

「湯川先生、穂村は大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」

「大丈夫です。熱は出ていますが重篤というわけではありません。これから私が病院へ連れて行きます。救急車は絶対に呼ばないでください。関係した生徒たちにも余計な心の負荷がかかるだけです」

 職員室へ行くと視線が自ずとこちらへ集中した。担任と学年主任は小うるさいハエのように人の周りでうろうろとする。けれどああだこうだと口うるさく言う割にはいつも彼らは人任せだ。
 最終的に問題が学校側の責任にならなければいいのだろう。穂村は半ば無理を言って学校に通っているから、倒れても自己責任と思っているのかもしれない。彼らが心配するのはいつも上辺ばかりだ。

「今回の件は関わった子たちも大いにショックを受けています。厳しく追及してさらに追い詰めるようなことはしないでください」

「しかし親御さんにも」

「いまの私の話、聞いていましたか? 余計なことはするなって言ってるんです。あなた方はいつも通りに過ごしていただければ結構です。そのほうが余計な心労で煩わされなくていいでしょう。……失礼します」

 口を挟む隙も与えずに言葉を言い切ると、彼らは口をつぐんで押し黙った。物言いたげな視線ではあったけれど、その言葉を待つことなく背を向ける。いま彼らの小言を聞いている暇などない。早々に立ち去るべく足を速めた。

「……先生っ、湯川先生。待ってください」

 職員室にいる古参の教師たちとはそりが合わない。自分が噛みついた物言いをするのもいつものことだし、それを疎ましく思われているのも承知している。
 だから残りの多数は関わらずに見て見ぬ振りをする人たちだ。しかしそれのどちらにも属さない人間もたまにいる。

「あんな言い方したら印象悪くなるに決まってるじゃないですか。先生たちも本当に心配していたんですよ」

 振り向きもせずに歩くこちらなどお構いなしにその男はぴったりと後ろをついてくる。口やかましさに苛立ちが募って思わず立ち止まってしまった。
 睨み付けるように見上げると、困ったように表情を曇らせる。その顔が余計に腹立たしく思えた。

「鹿島先生。私がどうしようとあなたには関係ないことです」

「……先生はそうやって人に壁を作るんですね。どうしてそんなに頑ななんですか。人と関わるの、嫌ですか? でもあなたの本質は優しい人ですよね。口では文句を言っても人を放っておけない人ですよね」

「馬鹿馬鹿しい。優しさなんて、欺瞞だろう」

「誰がそんなことを言ったんですか」

 誰が? そんなこともう覚えていない。みんな口を揃えて同じことばかりを繰り返す。あなたはとっても優しい。
 でもあなたの優しさには心がなくて、嘘ばかりでちっとも本音が見えない。その優しさは自分を取り繕うための優しさでしかないんでしょう。あなたはひどい嘘つきだ。――ひどい裏切りだ。

「湯川先生」

 耳元で聞こえた声に我に返ると、後ろから身体を抱きすくめられていた。けれどとっさに反応することが出来なくて固まったように動けなくなる。そんなこちらの反応をどう感じたのか、鹿島は抱きしめる腕に力を込めた。

「湯川先生は、いまひどく取り乱していますよね。その事実に自分でも気づいていないんじゃないですか。少し落ち着きましょう」

「私は」

「穂村、心配ですか。そんなに」

 身をよじって腕を振りほどくと、両肩を掴まれ真っ直ぐに瞳の奥をのぞき込まれた。穂村の名前を呟かれて、反射的に熱が頬に集中する。広がる熱は耳までも熱くして、自分でもひどく顔を紅潮させているのがわかった。
 言葉が紡げない。自分の中にあった焦りと穂村に対する気持ちを見透かされたみたいで、唇が震えてうまく言葉を発することが出来なかった。