伝わる熱04
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 静かな室内では時計の秒針の音がカチカチとかすかに聞こえてくる。放課後の喧騒が時折外から聞こえはするが、時間とともにその声も聞こえなくなっていく。
 黙々と仕事をすればするほどに時間は刻刻と過ぎて行き、気がついた頃には一日の終わりを迎える。

 代わり映えのない毎日だ。けれどそれについてなにかを考えることもなく、仕事にやる気を見いだすほど若くもない。毎日慌ただしさを感じるより、世話を焼く子供が少ない方が平和というもの。だからこの毎日に自分は多くを求めていない。

「湯川先生」

 ぼんやりと手を止めていると、カラカラと戸が引かれる音がした。油を差した滑車は随分と大人しくなり、静けさに遠慮をするかのように控えめだ。けれど来訪者はその静けさを打ち消すような勢いで室内に足を踏み入れる。

「あれ? 足を怪我した子。もういないんですか」

「とっくに親御さんが迎えに来て帰ったよ。いったい何時だと思ってるの鹿島先生」

「あーそうか、道理で生徒の姿が少ないと思った」

 大雑把に歩く足音が響く。さして大きな音でもないのに、なんだかやけに耳についた。近づいてくる気配を感じてゆっくりと振り返ると、いつの間にか鹿島はすぐ傍に立っている。
 いつもなぜそこまで踏み込むのだろうと思うほどに距離が近い。呆れて息をつくけれど本人はまったくその意図に気づいていない。しかしそれもいつものことだ。言葉にしてやるのも面倒くさいので、黙って視線を持ち上げた。

「これ職員会議の連絡簿です。で、こっちがおやつです」

 両手を差し出してきた鹿島を一瞥して、なにも言わずに右手のファイルだけを受け取った。そしてファイルにまとめられた紙面に目を通すと、認め印を押してそのまま突き返す。

「湯川先生。おやつ美味しいですよ」

「私は甘いものは好きではないので結構です」

「あ、またそうやって壁を作る。ジンジャークッキー、甘さが控えめで湯川先生でも食べやすいですよ。珈琲と一緒に食べたら丁度いいと思います」

 机に向き直ったこちらをのぞき込むように鹿島は身を屈めてくる。視界に入る視線が鬱陶しくて顔をしかめたら、いつものように締まりなくへらりと笑った。

「用がないのなら、それを置いて帰ってください。ここは休憩所じゃないです」

「湯川先生はサボりに厳しいってみんな言ってます。でもここ落ち着きますよね。静かだしすごく清潔な香りがするし、湯川先生がいるし」

「珈琲が飲みたいなら職員室に戻ってどうぞ。私に構ってる暇があったら」

「穂村がいなくなって寂しいかと思って」

 無意識にペンを握った手に力がこもった。けれどすぐに息をついてそのペンを置く。本当にこの男はいらぬ口出しをしてくる。
 それにまったく悪意がないから余計にたちが悪い。でも相手が決して怒らないことを確信している。大抵の人間はこの無邪気に笑みを浮かべる顔に、仕方ないなと言う気にさせられるのだろう。

「心配されることはなにもありません。鹿島先生は本当にでしゃばるのが得意ですね」

「……そんなことを言われるのは初めてです。湯川先生はいつも俺のいろんな側面を見つけてくれますね」

「よほど周りの人たちがお人好しだったんじゃないですか」

 どうやったらこの歳まで曲がることなく一直線に育つのだろう。誰か少しは出た杭を打ち付けてやろうという気にならなかったのか。

「あ、俺の友人はみんな気のいいやつばかりですよ。今度バーベキューするんですけど湯川先生もどうですか?」

「……どうして私があなたのお友達とバーベキューに行かなくちゃならないんですか」

「楽しいかと思って」

「そういうの、余計なお世話って言うんですよ」

 少しウキウキしたような顔でこちらを見つめてくる鹿島は、あしらってもその場を動かなかった。このままここにいるといつまで経っても堂々巡りな気がして、向けられる視線を無視したまま手元の書類をすべて片付ける。

「もう帰るんで出て行ってください。それとここはお喋りしに来る場所ではありません。用もないのにいちいち寄らないでもらえますか」

 白衣を脱いでハンガーに掛けるとジャケットを手に取り、息をついた。背中に感じる視線に仕方なく振り返れば、勢いのまま一歩踏み込まれる。

「用、あ……用ならあります。なんかこう、胸の辺りが痛いというか。苦しいというか」

「病院に行ったらどうですか」

 慌てふためくように身振り手振りを繰り返す鹿島は、なにかを訴えかけるみたいに人の顔を見つめてくる。けれどこちらはその視線に応えるつもりがないので、引き出しの鍵を手に取りそのまま横を通り過ぎた。

「そうじゃないんですよ。多分、湯川先生にしか治せないというか」

 黙って廊下に足を踏み出そうとしたら、後ろから歩み寄ってきた鹿島に腕を取られた。引き寄せるように腕を引かれて、振り向かざるを得なくなる。文句の一つでも言ってやろうかと顔を見上げれば、鹿島は顔を紅潮させながらこちらをじっと見つめていた。

「……これって、恋だと思うんです、湯川先生」

 至極真面目な顔をしてなにを言い出すかと思えば、初恋を覚えたばかりの中高生みたいな表情をして一人でうろたえている。呆れて肩をすくめたら、初めて不服そうに口を歪めた。この男でも不満に思うことがあるんだな。

「寝言は寝てから言ってください」

「湯川先生!」

「悪いけど本当にもう帰るから、戸締まりよろしく」

 地団駄を踏みそうなくらい感情の行き場をなくしている鹿島の手は、案外簡単に振りほどくことが出来た。

 振り向きざまに鍵を下から上へと放り投げると、不意をつかれた鹿島は目を丸くしてあたふたとする。鍵の行方を見届けることなく足早に歩き出せば、後ろから情けなく自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
 あの鍵は癖があって慣れないと一発では締まらない。しばらくの足止めになるだろう。

「そういや今日は夕方から雨だった。傘忘れたけど、まぁいいか」

 穂村があの場所に来なくなって、変わったことはそんなに多くない。思ったよりも変わらず毎日を過ごしている。

 大きく変わったことと言えば、電車に乗るようになったことくらいだ。ずっと車移動をしてきたから、流れていくばかりだった景色に足を止めることが増えたかもしれない。
 でもなかなか慣れなくて、天気予報を見ても傘を何度も忘れてしまう。いつも電車の窓からぼんやりと外を眺めて、ガラスにぽつりと落ちる雨粒にようやく思い出す。

「穂村はいつも天気に敏感なんだよな」

 雨は嫌いではないけど降り続くと調子が悪くなるから困ると、いつも苦笑いを浮かべていた。そんなときは蜂蜜を落としたホットジンジャーティーを淹れてやると喜んだ。自分はその顔を見るのが好きだった。

「蜂蜜、そういや切らしてたっけ」

 浮かんだ笑顔に自然と口の端が持ち上がる。けれどふいに頬に冷たいしずくが落ちてきて、つられるように空を見上げた。薄曇りの空からしとしと降り始める雨。春の雨、春雨だ。
 駅まではあと少し、足を速めて雨をしのげる場所へと急ぐ。さらさらと落ちてくる雨がいつの間にかしっとりと髪を濡らす頃に、ようやく屋根のある場所にたどり着いた。

「あ、すいませんっ」

 重くなった前髪を払いながら雨が降る空を振り仰ぐと、角を曲がってきた人と肩がぶつかる。よほど急いでいるのかスーツ姿のその人はこちらを見る間もなく頭を下げた。
 けれど茶色い頭を上げなくともそこにいるのが誰かはすぐにわかる。目を瞬かせて首を傾げるとその名を呼んだ。

「穂村?」

「え? あ、春樹!」

「どうしてここに?」

「雨、雨が降るから迎えに来たんだよ。春樹どうせ傘持ってないだろ」

 顔を上げた彼は驚いて目を丸くしたが、すぐにふて腐れたような顔をしてこちらへ傘を差し出した。もう片方の手にはもう一本の傘。急いでいたのは雨が降り出したからか。

 いつもだったら学校から近いこの最寄り駅ではなく、四駅ほど先にある駅で待ち合わせをする。
 雨が降る予報を知って、わざわざ駅を乗り越してここまでやってきたのか。しかしその優しさに嬉しくなるけれど、先ほどの穂村の行動に少し目を細めた。

「そんなこと言って、穂村はいまそのまま飛び出して行くところだったじゃないか。雨に濡れたらまた熱を出すぞ」

「う、大丈夫だよ、ちょっとくらい」

「ちょっとでも、心配させないでくれる? もう心臓が潰れるような思いはしたくない」

 あの日のことはいまでも忘れない。穂村はひどい高熱を出して一週間も入院する羽目になった。このまま意識が戻らなかったら危ないとも言われて、あのときほど心が押し潰されそうになったことはない。
 自分がすぐに病院へ連れて行かなかったせいなのに、両親に頭を下げられて行き場のない感情に叫び出したい気持ちにもなった。いまでもそのときのことを思い出すと胸が苦しくなる。

「ごめん、気をつけるって。だからそんな顔しないでよ」

 でもあれから時間が過ぎて春が来た。彼はあの場所を巣立って広い世界へと羽ばたいていった。けれど彼がいなくなって、大きく変わったことはない。彼は変わらずにこうして隣で笑ってくれている。
 卒業式が終わったあとに、彼は自分に向かい手を差し伸べてくれた。約束、覚えてるよねって至極真面目な顔をして見つめられて。返事が出来ずにいた自分はただ見つめ返すしか出来なかった。それでも穂村はこちらを急かすことなく優しく笑った。

「穂村はずるいな。可愛い顔したら許してもらえると思ってる」

「なに言ってんだよ。拗ねて可愛い顔してんの春樹だろ」

 いまではもう一緒にいるのが当たり前だと言える。少し高くなった視線がこちらを見下ろしてくるのが嬉しい。でも些細なことでくるくると表情を変える幾通りもの笑みが、自分だけのものになったことがまだ少し信じられずにいる。
 初めて誰かを好きだと思えた。その想いが失われることなく成就するなんて、そんな夢みたいなこと起きていいのだろうかと不安になって振り返りそうなることもある。

「ほら、行こう。今日帰ったら鍋するって言っただろ」

 それでも繋いでくれる彼の手を離したくなくて、その手を強く握りしめた。そうすると不安を見透かすみたいに彼は笑う。手を強く強く握って、もう離れないんじゃないかって思うくらいに。

「今日は泊まるの?」

「駄目だった?」

「別に、駄目じゃないよ」

 幸せにするよ――そう言った彼の声をいまでも思い出せる。きっとあのときから心は少しずつ傾いていた。触れ合うたびに転がるみたいに加速して、もう立ち止まれないところまで来てしまった。でも引き返そうなんて思えない。

「穂村」

「ん?」

「好きだよ」

「うん、俺も、大好きだよ」

 そっと伸ばされた腕に身体を抱き寄せられて、手のひらから柔らかな熱を感じた。彼の熱が伝染すると、それだけでなぜだか気持ちが穏やかになる。やっぱり彼はきらきらと光の粉をまとっているように見えた。でもあんなに苦しかった胸は緩やかに鼓動している。

 君が好き、何度も何度も囁いて、かすかな微熱が心に広がった。

[伝わる熱/end]

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