始まるこれからの時間02
11/16

 引っ越しをしようかという話が持ち上がったのは去年の暮れ。元より穂村は一年くらいしたら、一緒に暮らしたいと言っていたのだが、現実的になったのがその頃だった。
 仕事にも慣れて、体調も良好だと病院の担当医にお墨付きをいただいたのがきっかけだ。とはいえ年明けすぐにとはいかない。しかし年度末は引っ越しシーズンだし、春先もまだその影響はある。

 どうせならゆっくりできる夏休み頃にしようと思っていたのだが、もっと早く! とせっつかれた。なのでまとまった休みであるゴールデンウィークを目標にすることにした。
 物件探しは四月に入ってからと、目星を付けていたところへ内見に行こうと予定を立てていたわけだけれど、これがなかなか上手くいかない。

「収入はお二人ともそれなりにあるようですね。あのお二人のご関係は? ご親戚? ご兄弟、……ではないですよね?」

「友人、です」

「……友人、友人ですか。結構お歳が離れてますよね?」

 二人暮らしをしなければならないほどの低収入なのかと、経済面もかなり心配されたが、こちらの関係性に言葉を濁すところがほとんどだった。友人だと押し通したものの、なんだかんだと遠回しに断られること数回。
 男二人の物件探しが難しいと聞いていたがここまでかと、ついたため息は数知れず。しかしあちこち回り尽くして、住まい探しに辟易し始めた頃、一筋の光が射した。

「冬司、湯川先生、お待たせ」

 休日の昼下がり、駅前に立っていると明るい声に呼びかけられた。一緒にいた穂村とその声に振り向けば、愛らしい印象を受ける小柄な女性が近づいてくる。

「お疲れさまです」

「母さん、遅いよ」

「ごめんなさいね。ちょっと帰り際に色々あって」

 年始の挨拶以来の顔合わせ。穂村の母親、沙世さんは不満げな顔をする息子に邪気のない笑顔で応えた。つり目がちな穂村とは対照的なやんわりとした垂れ目で、笑うと空気が柔らかになる。

「こら、穂村。仕事終わりで疲れてるのに、付き合ってくれるんだから、十分、十五分で文句を言うな」

「あんまり遅くなると日当たりが見られないって言ったの、母さんだから!」

「そうね、早く行きましょうか。きっと向こうでも首を長くして待ってるわ」

 物件探しの一筋の光はこの沙世さんだ。引っ越しを半ば諦めかけていたところで、それならばと、知り合いの不動産屋を紹介してくれることになった。
 忙しい中、今日は同行してくれるという。いくら知人とは言えど、いざ自分たちだけで行って断られてはいけないと、配慮してくれたのだろう。

「母さんも知り合いがいるならもっと早く言ってくれれば、遠回りしなくて済んだのに」

「うふふ、なにごとも社会勉強よ」

「……勉強になりました。世の中、色々と難しい」

 好きなんだから好きでいいじゃないか――そんな考えだった穂村も、一年と少しの時間を経て、学んでいる部分はあるようだ。自分たちの関係は、声を大きくして言うには少しばかり人目をはばかられる。
 不自由な制約の中にいることを感じ始めていた。道行くカップルのように当たり前に寄り添えない。隣り合った手さえ堂々と握れない。

「好きの種類は違わないのに、世の中は不公平だ」

 これは最近の穂村の口癖になりかけていた。それでもなにげない時間を過ごすだけでも幸せで、愛おしいと思う気持ちがあるだけで満たされる。それを彼はちゃんと知っている。
 きっとそれを心の底から実感できていないのは自分だろう。差し伸ばされた手を握り返してもまだ、不安を覚える。

「えー、ご希望の間取りは1LDKから2LDKですね。徒歩十五分圏内、わりと色々ありますよ。ご予算の範囲でなら、これとかこれとか」

 駅から数分のところにある不動産屋は、大きく展開している名の知れた店舗ではなく、個人経営の地域密着といった小さな店構えだった。対応してくれている白髪交じりの男性がこの店の主らしく、沙世さんと縁があるのだとか。
 歳の離れた男二人、というほかでは悪条件とされるものも、まったく気にした様子を見せない。それどころか、あれもこれもと物件を持ち寄ってくれて、目移りするほどだ。

「ここ、駅から近くて建物も新しいよ。学校と俺の仕事場の真ん中くらい。家賃もいい感じ」

「バストイレ別だし、悪くはないかな。あ、でもエレベーターなしの三階じゃ、穂村がキツいだろう」

「えっ? いまの俺、そこまで貧弱じゃないよ」

「具合悪い時、辛いだろう。このあいだ風邪気味だって言ってた時も、アパートの階段を上るのダルそうだったじゃないか」

「あれは、まあ、そうなんだけど」

「じゃあ、一階か二階くらいがいいですかね」

 ぐぬぬっと唸る穂村に穏やかな眼差しを和らげた店主は、パタパタとファイルを捲りながら物件を絞っていく。
 そしてさらに部屋の広さや駅からの距離、それを細かく指定していくと、おすすめ物件は数件になった。ありすぎて悩ましかったので、ようやくゆっくりと吟味できる。

「部屋の広さで言ったらこれだけど。こっちのほうが駅から近いし、春樹も通いやすそうじゃない?」

「そうだなぁ。部屋は一部屋だけど広いし、オートロックだし」

「ねぇ、あなたたち」

 最終候補が二件に絞られて、二人でまじまじとそれらを見比べた。けれどしばらく悩んでいると、いままで黙って様子を見ていた沙世さんが声を上げる。視線をそちらへ向ければ、トントンと候補から外れかけたほうを指し示した。
 それに二人で顔を見合わせたが、彼女はやんわりと笑う。

「こっちもギリギリ徒歩圏内だし、私ならこっちを選ぶわ」

「えー、近いほうが良くない? これ徒歩五分だよ? 確かにこっちは2LDKで広いけど、家賃もちょっと高いし」

「これから長く住むなら先々を考えたほうがいいわ。顔を合わせたくない時に、引きこもる場所がないのは、きっと不便よ」

「いままでそんなことなかったけど」

「あら、お父さんとお母さんだって、結婚する前は喧嘩なんかしたことなかったわよ」

「喧嘩なんてするの? いままでしてるの見たことないし」

 肩をすくめる母親に穂村はじとりと目を細める。外側から見ている部分しか自分にはわからないが、彼の両親は本当に仲睦まじい。いつも優しく笑っていて、息子が言うように喧嘩なんてしないのではないかと思えるほどだ。

 けれど他人と暮らすということは日常に変化が訪れる。いままでなんとも思わなかったことも気になるかもしれない。穂村も初めての二人暮らしだが、自分も他人と一緒に暮らすなんて初めてだ。
 先人の言葉にはきちんと耳を傾けるべきだろう。

「両方とも見せてもらおう。実際に見てみて部屋の広さとか、近所の様子を確かめたほうがいい」

「んー、まあ、春樹がそう言うなら」

「じゃあ、見に行きますか? 車を回しますね。うちのに案内させます。おーい! 内見を頼む!」

「お母さんはちょっと用事を済ませてくるから、二人でお部屋を見ていらっしゃい」

「わかった。じゃあ、春樹、行こう!」

 余分にもう一件チョイスして、店主の息子さんに内見の案内をしてもらうことになった。なにか事前に聞いているのか、それとも深いことに立ち入らないタイプなのか。彼も自分たちの関係について口を出すことは一度もなかった。
 車での移動中、なにげない会話をしながら、あそこはスーパーがあるとかコンビニが近いとか、行く先々で近所の様子を教えてくれる。

 いままで散々渋い顔をされてきたので、それには少しばかり拍子抜けしてしまった。もちろん沙世さんの紹介という建前はあるのだろうが、親子共々、人の良さがにじみ出ている。
 おかげで内見は気を張らずに、二人でゆっくりと見回ることができた。

「確かに、こうして見るとこっちのほうが広くて、周りも色々充実してるし、いいね」

「うん、向こうはちょっと買い物が不便そうだったな。大きいスーパーが駅向こうだったし」

「それにここ、すごく風通しがいいし、お日様もぽかぽか」

 先に一番近かった第一候補を見て、予備の物件を回り、最後に第二候補へやって来た。ここは内装を新しくしたばかりらしく、新築と見紛うほどだ。

 六畳ほどの部屋が二つに十三畳のリビングダイニング。それは紙面で見ていた以上に広さを感じる。広々とした印象を受けるのは明るさもあるだろう。一階なのに自然光が程よく射し込みとても明るい。
 そしてリビングの窓を開けると、ベランダではなく小さな庭に出ることができる。それほど広くはないが、狭いベランダと比べたら歴然の差だ。

 しかも緑が豊かなのはいいが、手入れが手間なのではと聞いたら、申し込んでおけば年に数回、管理会社で世話をしてくれるのだと言う。
 家に立ち入ることなく、庭にある裏口から入ってくるようだ。垣根の向こうは駐車場になっているので、そこから帰宅した人が勝手口から出入りできる。ファミリー層のマンションならではだろう。

 普通であれば独身男二人に、こんな物件は紹介して貰えない。徒歩ギリギリ十五分だけれど、小中学校から近いので環境もいいし、駅からの道も広くて明るかった。

「ねぇ、春樹!」

「うん、ここにしよう」

 部屋中を歩き回った恋人に満面の笑みを向けられると、つられて口元が緩んだ。また一つ、二人のあいだに形ができる。それがひどく嬉しかった。一つずつ積み重ねていったら、この胸にある不安も消えてなくなるかもしれない。

「借りられるといいね」

「そうだな」

 二人の意志を確認すると、早速とばかりに部屋を押さえてくれて、審査が通るまでほかで紹介されないようにしてくれた。申し込みに不備がなければ数日で結果は出るとのことだ。
 まだ引っ越しまで気は抜けないけれど、ようやく先が見えてきて、二人でほっと息をついてしまった。

リアクション各5回・メッセージ:Clap