始まるこれからの時間06
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 ゆっくりと昼食をとって新居へ移動すると、いい時間になった。約束の時間まであと少し、持ってきた掃除用具で軽く部屋の中を拭き掃除して、部屋の空気を入れ換えるために窓を開ける。
 天気のいい今日は少し暑いくらいだけれど、涼やかな風が吹いていた。

 庭は大部分がタイル貼りになっていて、垣根の傍に花壇があり、小さな紫色の花が咲いている。多年草が植えてあるらしく、放って置いても毎年花を咲かせるとか。
 ガーデニング好きな人は各々、好きな花を植えているようだが、のんびり土いじりする時間はあまりないだろう。庭は内見の時よりこざっぱりしているので、手入れをしてくれたようだ。雑草はほとんど生えていない。

「洗濯物よく乾きそう。手入れしてくれるとは言え、たまに草を抜いたりはしたほうが良さそうだな」

 その辺りはベランダより手間暇がかかるけれど、隣との仕切りもしっかりしているし、テーブルや椅子を出して外でご飯なんてこともできる。小さな物置があるので、今度穂村にも相談してみようか。

「春樹! 来たよ!」

 ぼんやりと庭を眺めていると部屋の中にチャイムが響いた。それとともに呼び声も響いて、網戸を閉めて声の先へと向かう。そうすると玄関からは話し声が聞こえる。
 覗いてみれば、昼前にも顔を合わせた横山と、背が高くて身体の大きい青年がいた。こちらに気づいて会釈をした彼は、穂村の友人である北川正樹だ。穏やかな顔立ちをしていて、性格もそのまま気が優しい。

「冬司ー! ごめんな。そっちに俺が行けば良かった。正樹のやつまだなんにも言ってないとか言うから、こってり説教しておいたから。俺たち全然気にしてないぞ。相手が湯川先生ならすげえ喜ばしいじゃん」

「え?」

「だって冬司、高校の頃から好きだっただろ?」

「……えっ、それ、バレてたの?」

「わかるって、見る目がいつも熱がこもってたもんな。具合が悪くなって保健室に行くの嬉しそうだったし。なぁ、正樹」

「うん、すごくわかりやすかった」

「ああ、まあ、拒否られるよりいいけど。それはそれで恥ずかしいな」

 賑やかな横山の声に明るい穂村の笑い声が重なる。目いっぱいハグをされて、頭を撫でられて、至極嬉しそうに笑うその顔に安堵した気持ちになった。
 それにしても高校の頃からバレていたのであれば、今回の件は本当に杞憂だったわけだ。昔の穂村は確かに、保健室に来ると嬉しそうではあった。傍にいられるのが幸せなんだって、よく言っていたっけ。

「こらぁ、お前たち! いつまでもお喋りしてるんじゃない。仕事だぞ!」

 三人の和気あいあいとした様子を眺めていると、廊下から大きな声が聞こえてくる。その声に横山と北川は慌てたように外へ飛び出した。
 入れ違いに顔を見せたのは荷物を手にした作業員たちだ。行きと同じようにキビキビと挨拶をした彼らは、自分と穂村の荷物をどんどん運び込んでくる。さすがにバイトとは違い手際がいい。二人が一往復するあいだに二、三往復していく。

「穂村、少し休んだら? ちょっと顔色がまた悪くなってきた」

「え? そう? 大丈夫だよ。具合は悪くないし」

「無理をするとあとに響くから。荷物はあとちょっとだろう。やっておくから」

「平気平気」

 あらかた大きな荷物が運び込まれると、あとは個人の段ボールのみになる。あと一往復で終わりますと声をかけてくれたので、それもあとわずかだ。
 けれどせっせと荷物を部屋に運び込んでいる穂村の顔色が、かなり怪しい。荷運びをして顔が火照るどころか、熱が冷めたみたいに青白かった。しかし本人は昼間と同じようにまるきり意識がないようだ。

 寝不足だと言っていたし、あまり無理をするとめまいを引き起こすこともある。はらはらとした気持ちで見守っていたら、そのうちに荷物が全部運び込まれていた。

「冬司、先生に遊びに来ていいって言われたからまた来るな」

「荷ほどきが落ち着いたら引越祝いをしよう」

「うん! あっ、あの、その、いまさらだけど。……ありがとうな」

「なに言ってんだよ! 俺らの仲じゃん」

 帰り際にも三人は会話が弾み、なかなかじゃあまた、の言葉が出てこない。しまいには連れの青年たちに置いていくぞ、なんて声をかけられた。
 飛び上がるように両手を振る横山と、言葉少なに会釈をしていった北川の姿が見えなくなったのは、荷運びが終わって十分くらいは過ぎた頃だ。

「家具は配置してもらったし、いま出しておくものは、食器類かな。昼間も外で済ましてしまったけど。夜もなにか取るか。あとで明日の朝ご飯だけ買ってこよう」

 段ボールのメモをチェックして必要なものだけを開けていく。そして台所周りを整理し終わって、自分の部屋に足を向けようとしたところで、その足が止まる。やけに静かな穂村が気にかかった。
 自分の部屋の荷物を片付けてくると言ってから、もう三時間くらい過ぎている。それほど荷物が多い様子ではなかったので、全部とはいかなくてもそれなりに片付いているだろう。

 けれど部屋からは物音一つしない。嫌な予感がして、扉が開け放たれているその中を覗けば、積み上がった段ボールだけで彼の姿が見当たらない。慌てて踏み込むと、ベッド脇で床に伏しているのが見えた。

「穂村!」

 傍まで寄って顔を覗き込んだら、意識がないのかまぶたが閉じられている。何度か声をかけてみるものの意識が戻らない。吐いていたりしないかを確認してから呼吸を確かめた。
 浅いけれどちゃんと息はしている。しかしもし倒れた時に頭を打っていたら大変だ。すぐさま救急車を呼ぼうと、ポケットの携帯電話に手を伸ばした。

「は、るき?」

 通話ボタンを押す寸前に、それを遮るように手が伸びてくる。弱々しいその手に手首を掴まれて、視線を落としたらこちらを見上げる視線と目が合う。

「穂村、どこか痛いところはないか? 気分は?」

「ちょっと、気持ち悪いかも」

「吐くなら吐いてしまったほうがいいぞ」

「そこまでじゃない」

 手近のビニール袋を掴んだら首を横に振られる。まだ血色の戻らない顔を見つめると、大丈夫の声とともに穂村は身体を起こした。とっさに支えれば、頭を肩口に寄せてくる。

「吐き気のほかは? 頭は痛い? めまいはするか?」

「めまいがする。……けどたぶんこれ寝不足のせいだ。くらっときて」

「頭は打ってないか?」

「うん、それは平気。めまいがして横になったら意識が落ちちゃっただけ」

 すり寄るように額を寄せてくるその仕草に、たまらず両腕で彼を抱きしめた。倒れているのを見た時、心臓が止まりそうだった。いまも落ち着かなくて心臓の音が忙しない。
 これから先、二人だけで暮らしていくというのに、出足からこれでは心配が拭えない。いままでは家に母親がいてくれた。けれど自分の帰りが遅くなった時に、今日みたいなことがあったら、そう思うと恐ろしくて仕方ない。

「大丈夫、大丈夫だよ。このくらい平気。いままでもよくあったし。ただの寝不足だよ」

「簡単に大丈夫とか平気とか言わないでくれ。寝不足だって生死に関わることもあるんだぞ!」

「ごめんね。……春樹の心臓のほうが壊れちゃいそう」

「穂村」

「やっぱり二人暮らしは無理だとか言わないでね。やっとここまで来たのに、全部無駄にしたくない」

「だったらもっと自分を気遣ってくれ。労ってくれ。こんなことに慣れないでくれ。そうじゃなきゃ、生きた心地がしない」

 抱きしめる手が情けないくらいに震えた。感情が込み上がって、喉が熱くなる。日常が呆気なく失われていきそうで、崩れていきそうで、怖くて怖くて――しがみつくように抱きしめる腕に力を込めた。

「不安なんだ。いまがなくなってしまいそうで、いつかあんたを失うんじゃないかって。幸せだって思うほどに不安で仕方ないんだ。本当にずっと一緒にいてくれる気持ちがあるなら、なによりも一番に自分を大事にして欲しい」

「春樹、ほんとに俺、大丈夫だよ。そんなに心配しないで」

「心配するに決まってるだろう! どうしてそうやって簡単に言うんだ! こっちの心配、全然わかってない!」

「今日はたまたまだって」

「心配をかけたくないからそうやって言うのか? 自分のために無理するくらいだったら、もう一緒にいたくない!」

 不安にならないように気遣ってくれている。それはわかるけれど、本当にそう思うなら我慢なんて一つもして欲しくない。
 声を荒らげれば、驚きに目を丸くした穂村が自分を引き止めようと手を伸ばす。しかしそれより先に身を引いて、その手を払ってしまった。立ち上がった自分を見上げる彼は状況を飲み込めていない顔をする。

「春樹っ!」

 その顔を見ているのが辛くて、とっさに逃げるように部屋を飛び出していた。背後から大きな声に呼び止められるが、振り返ることもできなくて、自分の部屋に逃げ込んだ。
 引っ越し初日から、部屋が分かれていることは失敗だな、なんて思った。こうやって逃げ出してしまったら、根が素直じゃない自分はすぐに謝ることができない。

 具合の悪い相手を放って置くなんて、また調子を崩したらどうするんだ。いまは傍についていてあげる時ではないのか。
 しかし胸の中で感情がせめぎ合って身動きが取れなくなる。いつもあの優しさに救われてきたはずなのに、ひどく憎らしく思えてしまった。

 優しさ――それは温かくすべてを包み込んでくれるけれど、その分だけ自分の心を締めつける。彼の心は強いけれど、優しさの分だけ余分なものを背負ってしまっているのではないか。
 自分と一緒にいるのは、彼のためになるのだろうか。そんなことを考えると胸がまた軋みを上げた。

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